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オーストリア併合

1938年3月、ナチス=ドイツが軍隊で威圧しオーストリア共和国の併合を強行した。ゲルマン国家の統合をドイツ人は歓迎したが、これを足場にドイツはズデーテン割譲、チェコスロヴァキア解体へと乗りだし、ヨーロッパ全土で戦争の危機が強まった。

 1938年、ナチス=ドイツヒトラーは、ドイツ軍をウィーンに進撃させ、3月13日にオーストリアを併合した。それより前、オーストリアでは保守派の首相シュシュニックが、ムッソリーニのイタリアに近いファシズム体制をめざし、議会制を否定していた。かねてオーストリア併合を唱えていたヒトラーは、シュシュニックに対し、オーストリア・ナチスの人物を内相に任命することを強要、シュシュニックは拒否し、抵抗したが国境線にドイツ軍を集結して威圧したヒトラーによってねじ伏せられ、合邦に同意せざるを得なくなった。
(引用)オーストリア人大衆はむしろヒトラーを歓迎し、4月に行われた国民投票では99.9%が賛成した。ヒトラーは『わが闘争』の冒頭で、ドイツとオーストリアの合邦は自分の使命であると述べている。ヒトラー自身がオーストリアの出身であったからである。<坂井栄八郎『ドイツ史10講』岩波新書 p.193 など>
 オーストリア併合を成功させたヒトラーは、次にチェコスロヴァキア領のズデーテン地方の割譲を要求、国際社会はさらに緊張を強めることとなった。9月にはミュンヘン会談でヒトラーの要求は認められ、チェコスロヴァキア解体に至る。オーストリア併合は、ナチス=ドイツがその勢力圏を東方に拡大していく第一歩となった。

ナチス=ドイツによるオーストリア併合

 ドイツによるオーストリア併合はヒトラーの多くの侵略行為の一つとして扱われ、高校の授業ではオーストリア側の事情などに触れられることはないが、第二次世界大戦への重要な転換点であり、まだ一つの主権国家がどのようにして、何故、消え去ってしまったのか、歴史の反省のためにも、学んでおく必要がある。そこで<リケット/青山孝徳訳『オーストリアの歴史』1995 成文社>などを参考に、その過程をやや詳しく見ておこう。

併合までの経緯

 第一次世界大戦の敗戦と共に、ハプスブルク帝国は終わりを告げ、オーストリアは連邦共和国として新たな出発を遂げ、政権を握ったキリスト教社会党のもとで経済復興も道筋がつきつつあったが、隣国のイタリアでムッソリーニが結成したファシスト党の影響を受けた武装集団「護国団」による社会主義者襲撃が始まり、社会主義者も武装して「防衛同盟」を組織するなど、不穏な状況があった。1931年には最大のクレディットアンシュタルト銀行が倒産して世界恐慌がオーストリアにも及んでくると、社会不安がさらにつのった。そのような中、ドイツでオーストリア出身のヒトラーナチ党を結成、1933年に政権を獲得すると、その矛先をオーストリアに向け、オーストリア内部のナチ党員を動員して、さかんに反政府活動を行うようになった。
 1934年2月にオーストリアの親ファシスト政府は防衛同盟の解散を命じ、ウィーンの市政をになっていた社会主義勢力を排除した。ウィーンは一時、内戦状態に陥った。同年7月には、オーストリアのナチ党員が首相を暗殺して一挙に政権を握ろうとしたが、ムッソリーニが同調しなかったため、クーデタは失敗した。

Episode ウィーンの二・二六事件

 1934年7月25日、ウィーンで武装集団が首相官邸を襲撃し首相ドルフースを射殺するという、クーデタ事件が起こった。襲撃したのは陸軍兵士に変装したナチス武装集団154人、放送局も占拠しナチス政権の樹立を宣言した。ドルフースはイタリアのムッソリーニに近く、ヒトラーの意のままにならなかったので、ヒトラーがオーストリアのナチス党員を動かしてクーデタを計画したのだった。ところがこの計画はヒトラーの密使が国境の鉄道車中で捕まったため、オーストリア警察が察知し、直ちに鎮圧されてしまい、代わってシュシュニックが首相となった。一挙に親ドイツ政権を樹立するというヒトラーの計画は失敗したが、ムッソリーニとの関係を結ぶことに成功した後、オーストリアへの圧力を強め、ついに38年の併合に至る。<この事件について、チャーチルの感想がある。『第二次世界大戦』1 河出文庫 p.92>
 このオーストリアのクーデタ事件は、1936年に日本で起こった二・二六事件によく似ていると思う。武装集団が首相官邸、放送局などを襲撃するという典型的クーデタであり、かつ失敗はするがその後ファシズムの確立の契機となるという経緯も同じである。日本の青年将校たちがオーストリアのナチスを参考にしたのかどうかは判らないが、もしかしたら知っていたのかもしれない。

ムッソリーニの警戒

 当初、ムッソリーニは、ナチス=ドイツがオーストリアに進出することを警戒して、その関係は良くなかったが、1936年から急速に接近し、ムッソリーニはエチオピア併合をヒトラーに認めさせる代償として、ヒトラーのオーストリア・チェコスロバキアなどの東方進出を容認するようになった。両者はスペイン戦争を機にさらに提携するようになり、ベルリン=ローマ枢軸を成立させた。ムッソリーニがヒトラーの野望を容認したことから、ヒトラーのオーストリア併合は一挙に現実的な動きとなった。

ヒトラーの意図

 6500万の人口を有するドイツのヒトラーが、人口650万しかいない小国オーストリアを欲した理由は何だったのだろうか。次のようなものだった。
  • 画家として過ごした、みじめな青春の個人的腹いせ(ヒトラーはウィーンで美大生だった)。
  • オーストリアの金準備と鉱物資源。
  • オーストリアのもつ、南東ヨーロッパへの関門という不変の位置。
  • オーストリアが、ヒトラーのチェコスロヴァキア解体計画にとって、戦略的に不可欠であること。

ヒトラーとの交渉

 オーストリア首相シュシュニクは1936年7月、ヒトラーと会見して、オーストリアの完全独立を認めること、内政干渉はしないことなどの約束を取り付けたが、その見返りとして、ナチ党員の入閣を認め、獄中のナチ党員に恩赦を与えることなどを約束させられた。
 その後もヒトラーは大使を通じ、また外相を派遣し、さらにナチ党員の暴力行為でおどしながらシュシュニクに迫った。シュシュニクはムッソリーニに相談したが、表面的な保障を与えるだけで実行が伴わず、冷淡なものであった。1938年2月、シュシュニクはベルヒテスガーデンにヒトラーを訪ね、オーストリアの独立だけは保障してくれるよう、協議に向かった。

Episode ヒトラーの金切り声

(引用)こうしてシューシュニクは、不安を抱えながらベルヒテスガーデンに向かった。ただ、オーストリアの独立侵害には断固として抵抗するつもりだった。会談がなごやかな雰囲気のうちに行われることはないと承知していたが、実際にどのような事態が自分を待ち受けているのか、予想もつかなかった。まずシューシュニクがショックを受けたのは、ヒトラーの背後にドイツ軍の将校が並び、机上にはオーストリア防衛計画なるものが置かれていたことだった。次にショックだったのは、ヒトラーが大変に興奮していたことだった。何時間にもわたってわめきちらし、悪態をついた。ヘビー・スモーカーのシューシュニクがタバコに手を伸ばしたとたん、ヒトラーが金切り声をあげて、自分の目の前では喫煙を許さないと言った。それにかまわず、ゆっくり、冷静にシューシュニクはタバコに火をつけ、マッチをヒトラーにほうり投げて待った。ヒトラーは語り続けた。簡単な昼食のため、わずかに中断しただけだった。午後もおそくなって初めて、計画の全容が明らかになった。オーストリアは、次の条件を満たさなければ、ただちに軍隊によって押しつぶされることになっていた。<リケット/青山孝徳訳『オーストリアの歴史』1995 成文社 p.151>

ヒトラーの条件

 ヒトラーがシューシュニクに示した条件は次のようなものだった。
  • オーストリアの副首相、国防、内務、外務という主要閣僚ポストをナチ党員に与えること。
  • オーストリアは、ドイツの反チェコ政策に追随すること。
  • 反ユダヤ人の法律を制定すること。
  • 国際連盟から脱退すること。
  • 通貨同盟を形成すること。

葬られた国民投票

 シューシュニクは閣僚と協議した結果、流血を避けるためヒトラーの条件をのんだ。そして孤立したことを知った。ムッソリーニは彼を見捨て、フランスはいつものように内閣が組織されていなかった。イギリスは宥和政策をとり、ちょうど同じころ、ドイツの外相リッベントロップ歓迎会を開いていた。一人で立ち向かうことを決意したシューシュニクは2月24日、ウィーンのリング通りで演説し、「国民統一を愛国的に、非常に感動的に」訴え大喝采を浴びた。社会主義者も大集会を開き、首相支持を表明した。
 3月9日、シューシュニクはティロルの首府インスブルックで、国民投票をオーストリア全土で行うことを宣言した。問われるのは「自由な、ドイツ人のつくる、独立した、社会的、キリスト教的、統一オーストリアに賛成するか」。投票はナチの干渉を避けるためにもすぐに実施しなければならなかったので13日と決まった。
 驚愕したナチ陣営はあわてふためいてベルリンに指示を求めた。11日、2人のナチ党員閣僚は首相官邸に現れ、国民投票の中止を要求、そのうえシューシュニクの辞任を迫った。少数のオーストリア軍は各地に分散しており、飛行機などの装備も不足していたことから、これ以上の抵抗は無駄だった。シューシュニクは別れを告げる放送で、国民に挨拶すると共にオーストリア軍に流血を避けるため、進攻してくるドイツ軍に抵抗しないよう命じた。「神よ、オーストリアを護りたまえ」、これがマイクロフォンを離れるシューシュニクの最後の言葉だった。

ヒトラーのウィーン入城

 3月12日、ドイツ軍はオーストリアに進攻し、そのあとを追ってヒトラーはリンツまでやってきた。翌日、彼は、興奮、熱狂の真只中、とりわけ失業者たちが歓呼する中をゲシュタポを伴ってウィーンに入った。シューシュニクは亡命を拒んで逮捕されたが、何千もの人が逮捕され、何千もの人が国外に出た。「オーストリア」の名前は廃止され、ドイツの一部である「オスト・マルク」の地位に貶められた。「オスト・マルク」はカール大帝が1150年前に設けた、東方辺境区の名称だった。<以上、リケット/青山孝徳訳『オーストリアの歴史』1995 成文社 p.148-155 を要約>
 ヒトラーはオーストリア併合を、かねて掲げていた「ゲルマン民族=ドイツ人の統一」を実現したものとして民族的心情に訴えた。同年4月、改めて国民投票を実施、併合によって失業などの不満が解消されるという期待を国民が抱いたことによって、99%の賛成を得た(上述)。
参考 同情されないオーストリア? ヒトラーのオーストリア併合は主権国家をいとも簡単に世界地図から消し去った暴挙であったが、国際社会の同情はあまりなかったようだ。当時は曲がりなりにも国際連盟があり、オーストリアはその加盟国であったにもかかわらず国際社会はこの暴挙に立ち向かえなかった。むしろ同じドイツ語を話すドイツ人が一体となったものとして当然視されたようだ。また、当のオーストリア自身が、つい先年までチェコやハンガリーなどを支配していたことも忘れてはならないだろう。つまり、オーストリアが併合されたことは乱暴でひどいことにはちがいないが、同情されるようなことではなかった、といえるのではないだろうか。 → オーストリア
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リケット
青山孝徳訳
『オーストリアの歴史』
1995 成文社