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東条英機内閣

1941年10月~44年7月、陸軍大将東条英機が首相・陸将・内相などを兼ねた内閣。1941年12月の真珠湾攻撃によって太平洋戦争開戦に踏み切った。大東亜会議の開催などで戦争目的としてアジア解放を掲げ、緒戦においては大きな戦果をあげ、勢力圏を東南アジア全域に拡げたが、次第に太平洋上の制海権、制空権を失い、1944年7月のサイパン陥落の責任をとって辞任した。東条英機は敗戦後、東京国際軍事裁判でA級戦犯として絞首刑となった。

 1941年10月、日米交渉の行き詰まりで辞職した近衛文麿内閣に替わって内閣を組織した。現役の陸軍大将である東条英機が首相、陸軍大臣、内大臣を兼ねていた。後に東条英機は軍需相・参謀総長をも兼務し、政治・戦争指導・軍務のすべてを握る独裁的立場に立った。
 東条内閣の主な閣僚は、外務大臣東郷茂徳、大蔵大臣賀屋興宜、海軍大臣嶋田繁太郎、商工大臣岸信介、逓信兼鉄道大臣寺島健(海軍中将)、企画院総裁兼国務大臣鈴木貞一(陸軍中将)など。政党出身者は一人もいず、陸海軍出身と革新官僚と言われた人びとで構成されていた。文官である東郷、賀屋は日米開戦に消極的であったが、軍部大臣及び追随する閣僚は開戦論を主張した。

太平洋戦争の開戦

 成立直後の11月5日に、東条首相は御前会議を招集、11月末までに日米交渉がまとまらなかったら、アメリカとの戦争に踏み切ることを決定した。日米交渉は近衛内閣の時から継続されていたが、現地で駐米大使野村吉三郎とアメリカ国務長官コーデル=ハルの間で最終局面を迎えていた。11月26日にアメリカ側の最終提案(ハル=ノート)があったが、すでに開戦に向けて動き出しており、12月8日の真珠湾攻撃を決行して太平洋戦争(日本では大東亜戦争と称した)を開戦させた。日本軍はハワイに続いてマレー、タイ、シンガポール、フィリピンと連勝を重ね、1942年前半まで有利な戦争を展開した。
 国内では1942年に翼賛選挙を実施して戦争継続体制を強化した。1943年には大東亜会議を東京で開催し、アジアの征服地の日本軍政下にある諸国の代表を招集し、アジア解放という戦争目的を大々的に表明した。
 しかし、1942年のミッドウェー海戦での敗北を境にして、戦局は転換し、連合国軍の反撃が開始され、43年2月にはガダルカナル撤退、44年7月にサイパンが陥落して首都圏がアメリカ軍の空爆にさらされるようになると、その独裁的な政治・軍事指導に反発が強まり、辞任に追い込まれた。

東京裁判

 日本の敗戦により、東条英機はその戦争責任を問われることとなった。一時は服毒自殺を試みたが失敗して、A級戦犯※として逮捕され巣鴨刑務所に収監され、極東国際軍事裁判で死刑判決を受け、1948年に処刑された。東条英機の名は、その死後もたびたび新聞紙面を賑わしている。1978年、靖国神社は東条らの戦犯を合祀した。靖国神社は戦前の国家神道時代に、戊辰戦争以降の戦死者を祀る神社でありので、戦犯を合祀することの是非が議論されてている。東条ら戦犯を靖国神社が合祀したこと、その靖国神社を現職の閣僚らが公人として参拝することに対しては、批判がある。
※A級戦犯とは、ポツダム宣言第6条に基づきいて開催された極東国際軍事裁判の裁判所条令で定められた、a.平和に対する罪、b.戦争犯罪、c.人道に対する罪の三種の戦争犯罪分類のa.に該当する戦犯のこと。ABCは犯罪の軽重による区分ではない。
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