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対共産圏包囲網の形成

1950年代、東西冷戦の深刻化にともなってアメリカを中心にアジア・太平洋地域に、ソ連など共産圏に対する包囲網を形成した。

 第二次世界大戦後の東西冷戦は、ヨーロッパではNATOによる東側「封じ込め」によって均衡を維持し、戦火の発生はなかったが、アジアにおいては民族独立運動と結びついて、その中から1949年に中華人民共和国が生まれ、さらにパレスチナ戦争インドシナ戦争国共内戦(第2次)朝鮮戦争が相次いで勃発した。ベトナムと朝鮮では北部に社会主義政権が勢力を保ち、エジプトでは親ソ連のナセル政権が誕生した。
 このようなアジアの社会主義化・共産化が「ドミノ倒し」の様に進むこと(ドミノ理論)を恐れたアメリカ(共産化とは、アメリカの市場が失われるということなので)は、1951年~54年にかけてアジア各国と個別または集団的な防衛条約を締結して、対ソ・対中国包囲網を形成していった。また、従来の経済復興支援中心のマーシャル=プランを終了させ、1951年10月には相互安全保障法(MSA)を制定して、被支援国に防衛協力の義務を負わせる支援体制に転換した。

アジアにおける対中国包囲網

 1951年8月 米比相互防衛条約
      9月 太平洋安全保障条約(ANZUS)日米安全保障条約
 1953年10月 米韓相互防衛条約
 1954年9月 東南アジア条約機構(SEATO)の結成
      12月 米華相互防衛条約
 1955年2月 バグダード条約機構(METO)結成
 こうしてアジアには、日本-韓国-台湾-フィリピン-タイ-パキスタン-イラン-イラク-トルコという対共産圏包囲網ができあがった。この中でパキスタンが、SEATOとMETO(後のCENTO)双方に加わったことが注目できる。このころパキスタンは東パキスタン(現在のバングラディシュ)を含んでいたので、東南アジア地域に隣接していた。また直前に同じくイギリスから独立していながら、隣国インドとの間で厳しい宗教的対立と国境問題での対立を抱えていたからである。インドは米ソいずれにも加担しない中立政策をとり、中華人民共和国を承認し、この包囲網には反対していた。

中国の転換

 中華人民共和国毛沢東は、1950年2月にスターリンのソ連との間で中ソ友好同盟相互援助条約を締結、ソ連との軍事協力を含む関係強化を進め、朝鮮戦争の危機を乗り切ったが、日本の再軍備日米安全保障条約締結に見られる対中国包囲網の形成に強い危機感を抱き、それまでの漸進的な新民主主義論を放棄して、1953年から「過渡期の総路線」と称して第1次五カ年計画などによる急速な社会主義国家建設路線に転換していく。
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