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中華人民共和国

1949年10月に成立した、毛沢東の率いる中国共産党が全権を握った社会主義国家。建国直後、朝鮮戦争が起こり、北朝鮮を支援してアメリカと戦う。1953年から五カ年計画に着手、アジアにおける社会主義国家建設に向かい、平和五原則をかかげて第三世界をリードしたが、1956年のスターリン批判頃からソ連との関係が悪化、さらにチベット問題を機にインドとの関係が悪化し国際的に孤立した。その中で、1958年から独自の工業化、人民公社建設を開始したが、その急速な変革のひずみが大きくなって失敗。経済再建を目指す劉少奇と社会主義路線を堅持しようとする毛沢東の対立が生じた。毛沢東は1966年から文化大革命を提起、階級闘争の継続と社会、文化でのブルジョワ化に対し厳しい批判を開始、それを支持する紅衛兵などの過激な動きが強まり、劉少奇・鄧小平らは失脚した。中国社会は大きく動揺したが、1976年に毛沢東が死去、文革も収束に向かい、1978年から鄧小平の指導する改革開放路線に転換、1981年には明確に文化革命を誤りだったと総括した。この間、1972年にアメリカとの関係を修復して国連での議席を獲得する一方、核開発を続けた。改革開放による市場経済の導入は政治の民主化を求める動きを生んだが、鄧小平政権は共産党独裁体制維持を堅持し、1989年の第2次天安門事件などの民主化を力で抑えた。90年代を通し資本主義化の具体化を進め、2000年代には経済を急成長させ経済大国となったが、国内での民主化や人権の抑圧、対外的には覇権主義的な海洋進出など、警戒される状況となっている。

・ページ内の見だしリスト

中華人民共和国(1) 建国と朝鮮戦争
1949~1953

1949年10月1日、北京を首都として中華人民共和国が成立。毛沢東が政府主席、周恩来が政務院総理に就任した。建国当初はまだ社会主義は建設途中にあるとして、「新民主主義」を標榜し、中国共産党も含めた政治協商会議による国家運営が行われた。しかし建国直後の1950年に始まった朝鮮戦争は米ソ対立という国際情勢の中で、中国は急速にソ連に接近、共産党独裁による社会主義国家建設へと転換した。1953年に休戦となった朝鮮戦争は中国にとって大きな犠牲を払っての参戦であったが、それを通じて中国共産党の指導するナショナリズムを高揚させ、その後の東西冷戦の中でアメリカによる対共産圏包囲網からの防衛にあたる軍備拡張(核開発)へと向かうことになった。

中華人民共和国 建国

中華人民共和国の建国宣言 1949/10/1

 国共内戦(第2次)に勝利した中国共産党は、1949年6月、新たな国家を建設するため、国民党系を除く全国各界の重要人物を集めた新政治協商会議準備会議を開催して建国の基本方針を討議し、9月には正式に人民政治協商会議を招集、ここで国号を中華人民共和国、首都を北京と改名(それまでは北平といわれた)とした。これ以降は中華人民共和国を略称で中国と言うようになった。なお、中共とは中国共産党の略称として用いられている。
 1949年10月1日、北京の天安門広場に面した壇上に上った毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言、新中国の新しい一歩が開始された。この10月1日は現在も国慶節として建国記念日とされている。
 中央の人民政府の基本的な構成として政府主席毛沢東、副主席には朱徳、劉少奇の他、共産党以外から3名が選ばれた※。政務院総理には周恩来が就任した。同時に、それまでの北平を北京と改めて首都とし、国旗として五星紅旗、国歌として「義勇兵行進曲」を制定した。
※毛沢東は中央人民政府主席。一般に国家主席と言うことがあるが、厳密には「国家主席」とは1954年に制定された中華人民共和国憲法で定められた地位で、全国人民代表会議(全人代、国会に相当する)で毛沢東が選出された。人民政府副主席は朱徳、劉少奇、高崗(以上共産党員)、宋慶齢(孫文未亡人、無党派)、李済深(国民党革命委員会)、張瀾(民主同盟)の6人で共産党員は半数だった。

建国当初の国家理念

 ここで成立した中華人民共和国(以下、中国)は、中国共産党と毛沢東の主導権によって実現したもので、毛沢東は共産党主席であるとともに政府主席も兼ねていた。しかし中国は当初から現在のような共産党一党独裁の国家ではなく、労働者・農民の代表としての共産党と並んで、民族資本家(ブルジョワジー)や知識人(インテリ)の代表としてのいくつもの政党から成り立つ、多党制の民主主義国家であった。また目指すべき国家目標も、最初から社会主義国家建設だったのではなく、毛沢東自身の「新民主主義論」に従えば、「新民主主義国家」なのであった。これついては、次のような説明がある。
(引用)1949年10月1日の中華人民共和国の成立を二つの点で誤解しがちである。第一はこの時点で国家体制が確立したという誤解であり、第二はこの時点で社会主義国家もしくは共産主義国家になったという誤解である。中華人民共和国は「新民主主義国家」としてスタートしたのであり、国家体制では戦時体制が続き、暫定的な措置の色彩が強かった。最高権力機関として位置づけられた全国人民代表大会の設置もまだ実現しておらず、それに代わる機関として統一戦線的な「中国人民政治協商会議(略して政協)」が継続し、さらにまだ憲法も制定されていなかった。また、政協の党派代表のうち、142名のうち、共産党代表はわずか16名にすぎず、国民党革命委員会、民主同盟などという党派と同数だった。政府にあたる政務院にも多数の非共産党系指導者が参加していた。この段階の中国の基本理念は「新民主主義論」であり、人民民主主義を政治的基盤として、工業化を図り、近代国家を建設するというものであった。このような「新民主主義論」段階は当初、相当な年月の後に社会主義段階に到達すると考えられていたが、東西冷戦の深刻化の中で中国自身が朝鮮戦争(中国では抗米援朝戦争という)をアメリカと戦うこととなったのを契機に、1952年から急速な社会主義国家建設へと毛沢東の方針が転換し、共産党独裁国家に変質する。<天児慧『中華人民共和国史新版』2013 岩波新書などより要約>

国旗と国歌

 1949年10月1日の建国の日に、国旗は五星紅旗と定められた。五星紅旗は、革命と社会主義(そして将来の共産主義社会建設)を示す赤色の上に、中国共産党を象徴する大きな星と、勤労者・農民・知識人・愛国的資本家の人民4階級を表す小さな4つの星が配置されており、5つの星は同時に漢民族と満州人、モンゴル人、ウイグル人、チベット人の5民族の統合を意味するとも言われる。
 現在、国歌とされているのは1935年12月9日、北平(現在の北京)で学生を中心とした抗日運動である十二・九学生運動のときに歌われた義勇軍行進曲である。その作曲者の聶耳(ニエアル)は国民党の弾圧を避けて日本に渡り、1935年に藤沢の海岸で溺死した。 → U-Tube 義勇軍行進曲

東西冷戦の中で

 国共内戦(第2次)が展開された時期、戦後国際社会はアメリカとソ連の対立軸とした東西冷戦に突入していた。アメリカは1947年のトルーマン=ドクトリンで共産圏に対する封じ込め政策を明確にしてマーシャル=プランを実行した。それに対してスターリン体制下のソ連はコミンフォルムコメコンを結成した。冷戦構造は1949年のNATOと1955年のワルシャワ条約機構によって、明確な二大陣営の形成となって固定化される。

中ソ友好同盟相互援助条約

 そのような中で台湾に移った国民党政権はアメリカの軍事・経済援助によって大陸反攻の機をうかがっており、新生の中華人民共和国は、戦前の中国共産党とソ連共産党の間にあったわだかまりを越えて結びつきを強める必然性があったと言える。1949年12月、毛沢東はスターリンの生誕70歳を祝賀する名目でモスクワを訪問、2ヶ月にわたって滞在して協議を重ね、1950年2月にようやく中ソ友好同盟相互援助条約を締結した。
 国民党との内戦はその背後にあるアメリカとの戦いであると強く意識し、また朝鮮、台湾、フィリピン、日本などにアメリカ軍が駐屯して包囲網を敷いている状況であったので、毛沢東はソ連に対する軍事的・経済的な依存にたよらざるを得なかった。スターリンは必ずしも毛沢東を評価していたわけではなかった(それまでの国共合作の過程でしばしば対立した)が、アジアにおいて社会主義国が成立したことは、東ヨーロッパなどで強まるアメリカの包囲網に対抗する上でも不可欠であった。そのような事情から中ソ友好同盟相互援助条約は締結され、それによってソ連が国民政府(中国)と締結していた中ソ友好同盟条約(日本の敗戦の前日1945年8月14日に締結)は破棄された。
 この同盟でソ連は経済援助とともに技術支援を行うことを認められるとともに、中ソ友好同盟条約で中国政府が認めた東北地方に於けるソ連の権益――中清鉄道(旧東清鉄道)の経営権、旅順(軍港)の駐兵権――はそのまま継承し、その返還は対日講和条約の成立までにと約束された(実際には中清鉄道の返還は1952年末に、旅順の返還は1955年になった)。

中華人民共和国の承認

 1949年の建国直後に、ソ連・東欧諸国・インドが承認した。西側諸国で最初に承認したのは、1950年のイギリスだった。アトリーの率いる労働党内閣は共産党政権をいち早く承認することで香港領有を存続させた。1964年には独自外交路線をとるド=ゴール大統領のフランスが中華人民共和国を承認した。アメリカ・日本などは、台湾政府(中華民国)を中国の正統な代表としていたので、中華人民共和国を長く認めてこなかった。国際連合における代表権もソ連などは中華人民共和国に与えるよう主張していたが、アメリカの反対で実現しなかった。1960年代末にベトナム戦争の行き詰まり、中ソ対立などの情勢の変化をうけたアメリカと中国が接近し米中関係の改善が進み、アメリカが中華人民共和国承認に路線を変更した。こうして、1971年に国連総会が中華人民共和国の中国代表権を認め、中華民国(台湾)を追放、アメリカも翌72年にニクソン訪中を実現し事実上の承認を与え、1979年に正式に国交を正常化させた。日本も72年に田中角栄首相が訪中して日中国交正常化させたが、正式な国交回復は後れ、1978年の日中平和友好条約で達成された。

朝鮮戦争

 1950年6月朝鮮戦争が勃発した。北朝鮮の金日成が南北朝鮮の統一を目指して南下を開始、国際連合の安全保障理事会は即時停戦と北朝鮮の撤退勧告を決議(ソ連中国代表権問題で安保理をボイコットし欠席していた)した。北朝鮮軍は一気に南下してソウルを占領、さらに釜山を目指す状況となり、7月、国連安保理は国連軍の派遣をソ連欠席のまま決定、米軍のマッカーサー元帥を統一司令部として派遣、9月に仁川に上陸した国連軍が北朝鮮軍を押し返し、平壌を奪回した。
 この情勢を見た毛沢東は中国人民義勇軍派遣を決意した。彭徳懐を司令官とする中国軍が鴨緑江を越えて参戦、国連軍(アメリカ軍)は後退、ソウルを放棄し、両軍は北緯38度線付近でにらみ合う形勢となった。国連軍司令官マッカーサーは原爆の使用を提案したがトルーマン大統領が反対し、罷免された。1953年1月にはアメリカで大統領がアイゼンハウアーにかわり、3月にはソ連のスターリンの死去という米ソの政権交代が起こって停戦の気運が強まり、1953年7月27日、板門店で朝鮮休戦協定が調印され休戦が成立した。
朝鮮戦争が中国にもたらしたインパクト 朝鮮戦争は建国したばかりの中国に大きな犠牲を強いることになった。中国は50万3千の兵力を投入、戦死者も多く、中国義勇兵に加わった毛沢東の長男毛岸英が戦死するという打撃を受けた。朝鮮戦争によって中国は冷戦(アジアでは冷戦ではなく熱戦だったが)構造の中で東側陣営の一員としての立ち位置が明確になり、アメリカ軍の韓国―日本(そのカナメが沖縄)―台湾―フィリピン―南ベトナムという対共産圏包囲網の形成を強く意識せざるを得なくなった。また戦争中の「抗米援朝」運動を国民に呼びかけたことによって、国民のなかに反帝国主義と一体化したナショナリズムが形成されるという、大きなインパクトをもたらした。
 朝鮮戦争の時期に形成された対共産圏包囲網の形成とは、アジアにおいては日米安全保障条約米比相互防衛条約米華相互防衛条約などである。

日中国交回復遠のく

 朝鮮戦争はアジア情勢にも大きな変化をもたらし、アメリカは中国の共産党政権が浸透することを強く警戒して、日本の再軍備を吉田首相に指令し、日本の平和憲法の骨抜きを狙った。その一方で日本では朝鮮特需といわれた軍需景気によって、経済再建の足がかりとした。日本を反共陣営の一翼とするため、アメリカは日本との講和を急ぎ、1951年9月サンフランシスコ講和会議を開催し、サンフランシスコ平和条約を締結したが、この会議には中国は中華人民共和国も中華民国も参加していなかったので、日中戦争の講和は棚上げされた。アメリカと日本は平和条約と同日に日米安全保障条約を締結、日本と中国の国交回復(日中国交正常化)は遠のくこととなった。
 中国と日本は戦後も長く国交のないままであった。自由な往来はもちろん、外交官の交換、正式な貿易も行われないまま、1950年代から60年代が過ぎていった。この間、中国は大きく動揺し、変化していったが、日本には正確な情報が伝わらず、中国の社会主義国家建設と毛沢東の指導力を一方的に礼賛するか、事実が歪曲されて伝えられるかであり、理解を困難にしていった。中国国内には多数の残留孤児がいたが、その存在はほとんど忘れ去られ、20年以上の歳月が流れることとなった。

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中華人民共和国(2) 社会主義国家建設
1953~1958

朝鮮戦争休戦が成立した1953年から、毛沢東はそれまでの新民主主義論から、急速に社会主義化国家建設をめざす路線に転換した。外交面では、冷戦下の米ソ対立が強まる中で、アジア・アフリカ諸国の第三勢力と提携などを積極的に展開した。1953年からの第1次五ヶ年計画では工業の育成による軍事力の遅れの解消、合作社などによるソ連型の集団農場の建設などが進められ、1958年ごろまでに一定の成果を上げた。しかし、1956年、ソ連のフルシチョフがスターリン批判を行い、アメリカとの平和共存に転じると、毛沢東は強く反発、ソ連と中国の両共産党は路線をめぐって激しく対立する中ソ対立へと突入する。

朝鮮戦争期の変化

 朝鮮戦争は中国国内にも強いインパクトを与えた。アメリカ軍との交戦によって中国の軍備の後れが痛感され、軍備の近代化を急ぐためにはその基盤となる工業力、科学技術力を高めなければならないと自覚されるようになった。この時点での中国共産党は工業力近代化をソ連に学び、ソ連の協力で行うためにも、社会主義体制を強化しようとした。それは、農村での生産力を高めること、近代的な軍備の基礎となる工業化を急ぐ必要があること、歩み始めたばかりの共和国での中共の権威を高め、治安を安定させることなどが明確な課題とされるようになった。
土地改革法 中華人民共和国が成立すると、従来の共産党支配区域(解放区)で進められていた農村における地主制度の廃止を全土に拡げ、徹底することが課題だった。1950年6月に土地改革法を公布し、地主的な土地所有の一掃が、中央の劉少奇の指揮する土地改革委員会が県レベルでも設置されて進められ、公式見解では1年10ヶ月で達成され、それによって朝鮮戦争の戦時下で中国を支える農村の生産力は向上したとされている。

反革命取り締まりと三反五反運動

 中華人民共和国建国から朝鮮戦争までの初期には、国民党の残党も多く、また前代からの秘密結社勢力も存在していた。中国共産党は朝鮮戦争の戦時下での権力強化のため、国内の反共産党勢力を一掃し、治安を安定させる必要から、1950年に3度にわたって「反革命活動の鎮圧に関する指示」を出した。当時まだ匪賊といわれた盗賊団や、封建的な農村を支配するボス、裏社会に勢力を持つ集団や宗教団体などが200万人いるとされていたが、中共はこれらを反革命勢力として撲滅することを大衆運動として開始し、50年の間に129万人を逮捕、71万人を死刑にした。いくつかの行き過ぎがあったが、53年までには安定した治安を実現した。
 中国共産党は朝鮮戦争の間、反革命取り締まりとともに主に都市部において三反五反運動を展開した。1951年12月、「汚職、浪費、官僚主義」に反対する三反運動に始まり、さらに「汚職、贈賄、脱税、横領、手抜きと材料のごまかし、経済情報の窃盗」を五つの害毒として撲滅する運動に発展、52年1、2月に最高潮に達した。これは当時はまだ多く存在した資本家を対象に、不正な手段で利益を上げることを厳しく非難したもので、国家と社会を公正にする姿勢は大衆に強く支持された。これによって民族資本家層は力を無くし、国家と党に従属させられて、次の社会主義国家建設の基盤が徐々に造られたと言える。<天児慧『前掲書』p.20-21>

社会主義国家の建設

第一次五ヶ年計画 朝鮮戦争の休戦とともに計画経済が採用され、1953年6月第1次五カ年計画が策定された。さらに1954年2月、中国共産党第7期4中全会で「過渡期の総路線」が採択され、建国時に掲げられた新民主主義論(共産党独裁ではなく他の民主勢力の党派とも協力して漸進的に社会主義を目指すという考え)から、一気に社会主義社会を実現させることを目指す、急進的な路線に転換することを示したものであった。この段階で急進的な社会主義化を進めることに転換したのは、朝鮮戦争で明確になった中国の軍事力の遅れていることの理由として、工業化が不十分であることが認識され、それを共産党の主導のもとで実行するには、ソ連を手本にした権力の集中と社会主義計画経済の採用が有効であると判断し、アメリカのような資本主義を導入することが出来ないとすれば、社会主義の急速な実現によって追いつくしかないと考えられたものと思われる。
中華人民共和国憲法 1954年9月に制定された中華人民共和国憲法には、政治体制では建国時の人民政治協商会議に代わって全国人民代表大会(全人代)が国会にあたる最高立法府と位置づけられた。また同じく建国期の国家理念であった「新民主主義論」は明確に否定されたわけではないが、次第に不鮮明になり、第一次五ヶ年計画で打ち出されたのは社会主義国家建設をめざすことであり、その理念が新たに憲法に取り入れられた。 またこの54年憲法で、国家主席の地位が新設され、9月27日、毛沢東が全国人民代表会議で選出された。
漢字の簡体字を制定 中国ではかねてから漢字の識字率向上が課題であった。中華人民共和国もその改革に取り組み、その成果として1956年2月に「漢字簡化方案」として約2200の簡体字が発表され、公式文書、学校、新聞・書籍で使用されることになった。同時に従来の縦書きをやめ、横書きとすることが定められた。その後、1964年には『簡体字総表』が制定され、現在は芸術での表現以外は簡体字が用いられている。なお、台湾では現在も繁体字といわれる旧来の漢字を使用している。

第三世界のリーダーとして

 中国は朝鮮戦争休戦の後、国際関係の改善に乗り出した。ソ連もスターリンの死去によって冷戦の緊張が緩和されるようになった。1954年9月にはソ連のフルシチョフ共産党書記長が訪中して友好関係を強化し、台湾海峡危機でのソ連の全面的な支援をとりつけた。またこのころからソ連が日本との国交正常化を進めたのと同じように対日政策を柔軟化させ「政教分離」の方針を打ち出して民間貿易の拡充に応じるようになった。
中国の平和五原則 このような中国の「平和共存」路線の中で、周恩来首相は1954年4月、戦後最初の国際会議であるインドシナ・朝鮮問題に関するジュネーヴ会議に出席して優れた外交手腕を発揮し、続いて1954年4月29日にはチベット問題インドネルーと協議を重ね、「平和五原則」で一致し、それが中国の外交原則とされ、1955年4月6日にニューデリーで開催されたアジア諸国民会議の共同声明として発表した。
 チベット問題での中国とインドの話し合いの中で、周恩来が提唱して、それ以降の国際社会でも支持された「平和五原則」は、現在においても重要な意味をもっている。
 ①領土と主権の相互尊重、②相互不可侵、②相互内政不干渉、④平等互恵、⑤平和共存
AA会議 さらに周恩来は1955年4月18日のインドネシアのスカルノの召集したアジア=アフリカ会議(バンドン会議)に参加し、平和十原則へと発展させた。また1961年9月1日にはユーゴスラヴィアのティトーおよびナセルなどの非同盟諸国首脳会議にも参加した。この頃の周恩来の積極的な外交は、冷戦下のアメリカとソ連という二大勢力に対して第三世界の結集を図るものとして世界的に注目され、彼はネルー、スカルノ、ナセル、ティトーとともにそのリーダーとしての存在感を強めただけでなく、中国の国際社会での地位を高めた。

スターリン批判の衝撃

 1956年2月、ソ連共産党第20回大会の秘密報告においてフルシチョフ書記長がスターリン批判を行ったことは中国指導部にも大きな衝撃を与えた。毛沢東はそれに対してスターリンは「功績7分、誤り3分」として工業化の偏重や粛清は否定しながら、アメリカ帝国主義との対決姿勢を高く評価し、フルシチョフの平和共存路線を帝国主義に屈服するものとして批判した。
 しかし、1956年9月の中国共産党第8回全国大会では政治報告を行った劉少奇は「社会主義の制度は基本的に打ち立てられたが、生産力の水準は依然として遅れた状態にある」として「重工業中心の工業建設と集団的所有と全人民所有制の強化」というソ連に歩調を合わせた提起を行い、党規約改正報告を行った鄧小平は、フルシチョフのスターリン批判を受け止め、個人崇拝を排除するため党規約からの「毛沢東思想」という表現の削除を提案し集団指導体制を提起した。

百花斉放・百家争鳴

 これに対して毛沢東は、1957年には「百花斉放・百家争鳴」(双百という)を再び提起し、大衆に対し自由な政治批判を呼びかけた。それに応じて知識人の中から共産党批判が表明され、中には共産党一党支配の批判、党指導部と一般大衆の間隔が広がり、大衆が政策決定に参加できないなどの批判が登場した。「自由に発言せよ」と言っていた毛沢東であったが、6月になると一転して「これは一体どういうことか」と題する「人民日報」社説を掲載させ、共産党批判は下心ある右派による攻撃であるとして「反右派闘争」を呼びかけた。毛沢東は、共産党批判は資本主義勢力による反革命の動きであるとして厳しく弾劾し、民主同盟などの民主勢力をことごとく弾圧した。58前半までに約55万人が右派分子として攻撃され、排除された。このような批判を許さない不寛容な風潮が強まり、誰もが毛沢東が何を言い出すかだけを戦々恐々として見守るといった状況になっていった。そのころ、共産圏では1956年10月ハンガリー反ソ暴動が起こっており、共産党一党独裁体制が揺らいでいたことが背景にあったと思われる。

中華人民共和国(3) 大躍進と大飢饉
1958~1966

 ソ連のスターリン批判を機に始まった中ソ対立を背景に、中国独自の社会主義建設をめざすようになった毛沢東は、1958年に「大躍進」運動を提起した。しかし実情に合わない工業化と急速な人民公社化による農村集団化は失敗し、生産力が急激に低下したため、1959年その責任をとって国家主席の座を退いた。折からの天候不順もあって中国では1960年の前後に大飢饉となり、数千万の規模で餓死者が出るという事態となった。代わって国家主席となった劉少奇は混乱した経済の再建にあたり、調整政策を進めて農家請負制の導入などで生産を回復させたが、毛沢東はその動きを社会主義建設からはずれた修正主義、資本主義を目指すものと強い危機感を持つようになった。

大躍進政策と第2次五ヶ年計画

 1958年5月毛沢東は共産党に対し第2次五カ年計画の実施を指示した。それは、「大躍進」・「総路線」・「人民公社」の3テーマを「三面紅旗(三本の赤旗)」として掲げた運動であり、第1次五カ年計画で不十分であった工業生産力創出と農村集団化を徹底することを掲げた。その背景には、1956年にソ連でスターリン批判が始まり、東欧諸国でもポーランドハンガリーで自由化を求める動きが強まったことがあげられ、毛沢東はこれらの動きをソ連型社会主義の変質ととらえて厳しく非難、中国はそれと異なる社会主義を実現しなければならない、と考えた。
「土法高炉」 「大躍進」は具体的には「第2次五カ年計画」として実施され、「15年以内に工業生産力でイギリスを追い越す」目標が立てられた。そこで掲げられたのは工業と農業、中央と地方、近代工業と伝統工業といった異質なものを同時に発展させる、という中国独自の内容だった。その典型が「土法高炉」という、中国古来の技術による小型溶鉱炉によって鉄鋼を量産しようというものだった。それによって大量の鉄が作られたが、いずれも粗悪なもので実用にはならなかった。にもかかわらず増産が至上命令であったため製鉄用の石炭や電力が不足し、農業生産にも悪影響を与えた。
人民公社 農村では人民公社が設立され、農民にはそこでの集団労働、集団生活が押しつけられた。人民公社は農業生産だけではなく、生産用具の製造などの工業も行い、同時に政治や商業、教育、さらに民兵組織などの単位となるもので、土地や家畜の私有は認められず集団で管理される、というものであった。人民公社では家族単位の労働は否定され、公社員共同で労働し、生産物は公社が買い上げ、国家の公定の価格で販売し、収益は平等に分配された。また食事も家族ではなく、公社の共同食堂でとることになっていた。
 この人民公社は、それ以前の第1次五カ年計画合作社がその前身であったが、1958年の1年間に普及率が30%台から年末には99%に急増、その異常な拡大は政府の上からの号令によって行われた。急激に普及する過程で各地でさまざまなひずみ、トラブルが生み出され、なによりも自分の土地を奪われたと感じた農民の労働意欲は低下し、その年の農作物生産は激減した。
劉少奇国家主席に この急速な人民公社化の「行き過ぎ」が批判されたことによって、早くも1958年末には毛沢東は国家主席退任の意向を固め、翌1959年4月の第2期全人代第1回会議で劉少奇に交代した。しかし共産党主席の地位はそのままであり、共産党に対する主導権は保持し、階級闘争と永続革命の理念の維持を図ることを忘れなかった。
廬山会議 毛沢東を批判する動きは有力な古参の軍幹部である彭徳懐からなされた。1959年7月の廬山会議で、長征時代以来の共産軍幹部で国防部長であった彭徳懐は、毛沢東の指導力を認めながら、率直に大躍進運動の手法を批判した。それに対して毛沢東は、単なる政策批判ではない、社会主義や階級闘争を否定する反革命思想であると強く非難した。結局、彭徳懐は国防部長を解任され、代わりに毛沢東思想を遵守することを一貫して主張した林彪が就任した。このことは、後の文化大革命への伏線となる動きであった。
大飢饉 大躍進運動の失敗は、工業・農業両面での生産力低下をもたらし、直接的に国民の食糧不足となって現れた。しかも1959年から61年にかけて、洪水や干魃などの自然災害が続き、食糧不足から多数の餓死者が出るという大飢饉となった。この大飢饉の犠牲者数は正確な数字は公式には判っていないが、死者1600万から2700万という数字が推定されている。しかし、大飢饉そのものは毛沢東の責任とされることはなく、専ら自然災害と、緊迫していた国際情勢のなかでの出来事とされ、看過されてしまった。日本を含む国際社会でも、この大飢饉については情報がほとんど無く、リアルタイムで知られることはなく、実態が明らかになったのは、文化大革命の終了後のことであった。

劉少奇・鄧小平の調整政策

 国家主席の劉少奇は、党の実務官僚のトップである鄧小平とはかり、大躍進の失敗後の中国の生産力と経済の回復にあたった。1962年1月~2月、中国共産党中央拡大工作会議(七千人大会といわれる)が開催され、そこでは毛沢東は公式に大躍進の失敗を認め、劉・鄧路線による経済調整政策にも異議をはさまなかった。その会議で政治報告を行った劉少奇は、農民の保有地、自由市場、生産請負制などを進め、農産物買い上げ価格を大幅に引き上げなどによる生産意欲を喚起することで、生産を高めようとした。それは人民公社という社会主義化路線を大幅に修正するものであった。この調整施策により、年内に生産力は回復し、経済は回復に向かった。鄧小平は、「白い猫でも黒い猫でもネズミを獲るネコがよい猫だ」と言って現実路線を肯定したのがこの時のことである。またこの時期に掲げられた標語が“自力更生”で、外国(ソ連)の力を借りずに経済危機を乗り切り、独自に国防力(核開発)を高めよう、という呼びかけだった。
 毛沢東は、表向きは劉少奇・鄧小平の路線転換に異を唱えなかったものの、わずか7ヶ月後には「階級闘争を忘れるな!」と訴え、その後も社会主義路線からの逸脱、あるいは転換を警戒する発言を繰り返した。国家主席を退いたものの、共産党主席であった毛沢東は、劉少奇・鄧小平路線を社会主義と階級闘争の前進にとっては有害な修正主義であると、強い不満を抱くようになった。こうして、大躍進後の国家の経済再建と路線の方向をめぐって、社会主義建設・階級闘争の継続・継続革命の道を歩むことを労働者大衆の利益とする毛沢東(それを強く支持したのが人民解放軍を押さえる林彪)と、資本主義的要素も取り入れた社会主義の修正による経済回復によって国民大衆の生活水準をあげようとする劉少奇・鄧小平(多くの党の実務官僚はそれを支持した)という相容れない二つの陣営への分裂を含む動きが党内で深まることとなった。

ソ連との路線対立

 1957年11月、毛沢東は中国代表団を率いてモスクワに行き、世界共産党会議に出席した。スターリン批判後の世界共産主義運動をどう進めるかで話し合ったが、この席で中ソの共産党の考えの違いが明確になった。ソ連共産党のフルシチョフは核武装をしているアメリカとは平和共存せざるを得ないと述べ、また資本主義から社会主義への移行は平和的にも実現できると主張した。それに対して毛沢東は、平和移行は可能だとしてもそれだけではないと主張し、アメリカとの平和共存は出来ないとして「アメリカ帝国主義は張り子の虎に過ぎない」と述べた。中ソの共産党の考えの違いが明確となり、次第に相手を非難しあう中ソ対立へとエスカレートしていく。このようにソ連との革命路線の違いに強く意識した毛沢東は帰国の翌年、「大躍進」政策を、ソ連の力を借りずに独力で行うことを呼びかけた。それに対してフルシチョフは大躍進を実現不可能な極左冒険主義と揶揄した。

アメリカ・ソ連との対立

台湾海峡の危機 1958年8月、中国と台湾の間で金門・馬祖をめぐって互いに砲撃し、戦闘機も繰り出すという台湾海峡危機が勃発した。アメリカ軍も台湾を支援して出動したので米中戦争への発展が危ぶまれた。中国はその後も両島砲撃を続けたが、台湾侵攻は実行しなかった。このときソ連はアメリカとの平和共存を優先し、中国を支援しなかった。
チベット動乱 中国はチベットに対し、清以来の領土であるとして併合したが、チベットの僧侶や貴族などの支配層は社会主義化を恐れ、1959年3月ダライ=ラマ14世を擁しチベットの反乱を起こした。中国は反乱を抑えたが、亡命したダライ=ラマをインドが支援したことから1962年10月中印国境紛争となった。周恩来とネルーの間で合意した平和五原則による友好関係は早くも破綻してしまった。
中国の核開発 ソ連のフルシチョフは1959年6月中ソ技術協定破棄を通告し、原爆開発などの軍事技術者を引き上げ、中ソ対立はさらに深刻になった。1962年10月22日キューバ危機がおきると、毛沢東は、フルシチョフがケネディとの交渉でキューバのミサイル基地を撤去したことを、アメリカ帝国主義に屈服したとして強く非難した。毛沢東はソ連に依存しない核開発を指令、それは1964年10月16日中国の核実験成功まで進んだ。
ベトナム 中国が核実験に踏み切った背景には同年8月、アメリカ軍がトンキン湾事件を口実に北ベトナムを空爆し、ベトナム戦争が本格化したことへの警戒が高まったことであった。ベトナムをめぐりアメリカとは鋭く対立したが、1964年1月ド=ゴール外交といわれる独自外交路線をとるフランスは中華人民共和国を承認した。日本は日米安保条約でアメリカとの軍事同盟関係を結んだので、国交回復はさらに遅れたが、ようやく60年代から民間レベルでの日中貿易が始まった。
中ソ国境紛争 文化大革命が始まってからも、ソ連との関係はさらに悪化し、1969年3月、ウスリー川の中洲をめぐって中ソ国境紛争が起こり、軍事衝突までエスカレートした。ソ連との対立は、文化大革命を進める中国にとって、その国家の統一の維持、ナショナリズムを維持するうえで役立ったという側面もある。

中華人民共和国(4) 文化大革命
1966~1976

 毛沢東は国内外で社会主義を修正する動きが強まったことに危機感を持ち、1966年から「プロレタリア文化大革命」を主導し、資本主義を復活させようとしているとして劉少奇・鄧小平らを失脚させた。毛沢東を崇拝する若者の中から紅衛兵が現れ、社会の保守的思想や文化的伝統を反社会主義、反革命として厳しく批判する過激な運動が広がり、多くの人命が失われるなど、大きな混乱に陥った。激動は68年ごろまで続いたが次第に混迷の度を加え、1971年には林彪事件を期に毛沢東をめぐって党の実務を握る周恩来・鄧小平(73年に復権)らと革命を推進しようとする四人組の権力闘争という面が強くなった。1976年、周恩来の死を契機に起こった天安門事件(第一次)では鄧小平が再び失脚。さらに同年の毛沢東の死去を機に華国鋒が権力を継承して四人組を逮捕し、文化大革命は収束に向かった。1977年に文革の終了が宣言され、復活した鄧小平政権の下で、1981年に文化大革命は過ちであり、失敗だったと総括された。この文革の期間中、スターリン批判後のソ連との路線をめぐる対立は国境で武力衝突するなど緊迫したが、一方でアメリカとの関係修復が進み、ニクソン政権の呼びかけには応じ、1971年には国際連合で議席を持ち、翌年にはニクソンが訪中して米中国交が回復するという大きな変化が生じた。

文化大革命の時期

 中国のプロレタリア文化大革命(文化大革命、文革)は、現在では1966年に始まり、1976年にまでのほぼ10年間の動きとされているが、その始まりや終わりが特定の年月日で記憶さているわけではなく、同時代に生きていた人びと(特に中国と国交がなく情報がなかった日本では)いつ始まっていつ終わったのかも定かではなかった。公式的には、1966年8月1日~12日の中国共産党第8期第11回中央委員会が開催され、5日に毛沢東が大字報「司令部を砲撃せよ」を発表して劉少奇・鄧小平を名指しで批判し、8日、委員会が「プロレタリア文化大革命についての決定」を採択したことを始まりとされている。
 毛沢東の死んだ1976年の10月6日に四人組が逮捕されたことが実質的な終点であるが、公式には1977年8月12日、中国共産党第11回党大会で華国鋒が文化大革命の終了を宣言した時点とされている。
 以下、文化大革命の経過をまとめると、次のようになる。

文化大革命の開始

 1965年11月、上海の新聞『文匯報』に文芸評論家姚文元が「新編歴史劇『海瑞免官』を評す」という論文を発表し、プロレタリア独裁の理念を否定するブルジョワ的な歴史観が復活していると非難した。それを受けて毛沢東自身が、文学や演劇の中でのブルジョワ的傾向とそれを容認する共産党幹部を厳しく批判して始まったのがプロレタリア文化大革命であった。
 毛沢東は1966年5月16日、共産党中央政治局拡大会議で中央文化革命小組を設置し、ブルジョワ思想や修正主義の取り締まりにあたらせることにした。この5.16通知で初めて「プロレタリア文化大革命」という旗を掲げることが示された。同じ1966年5月、北京大学・清華大学など北京の大学や高校では学生が毛沢東を支持する紅衛兵の活動を開始した。共産党では中央文化革命小組が活動を開始、陳伯達、康生、江青、張春橋らが革命を推進する中核となった。
 毛沢東が打倒しなければならないと考えていたのは劉少奇鄧小平などの党内の実務官僚であった。特に劉少奇は、毛沢東が大躍進政策で失敗した後に国家主席に就任、中国独自の工業化と人民公社による農村集団化という毛沢東路線を否定して、ソ連型の工業育成、農村での請負制の導入などによる経済再建(調整政策)を進めていたが、それは毛沢東の社会主義の建設とそれを通して共産社会を実現するという理想から逸脱し、資本主義社会への復帰の道を歩む「修正主義」であると捉えられた。毛沢東はこの戦いを資本主義社会への復帰を目論むブルジョワ階級との「階級闘争」であると位置づけ、革命は永続的な階級闘争であると考えていた。
紅衛兵 劉少奇を頂点とした「実権派」・「走資派」と見なされた党幹部や文化人に対する攻撃は、一気に全国に広がっていった。1966年8月18日、天安門広場で大集会が行われ、毛沢東が全国から集まった紅衛兵を激励、革命はピークに達した。それ以降、熱に浮かされたような紅衛兵の活動は68年ごろまで続き、彼らは「造反有理」を掲げて造反派といわれた。紅衛兵以外にも造反派に加わった労働者が各地で行動し、権威的な党幹部に自己批判を迫り、反革命と見なされた人々、寺院や史跡などの文化財が次々と破壊されていった。厳しい追求によって撲殺されたもの、自殺したもの、怪我を負わされたものも多数にのぼった。

劉少奇・鄧小平らの失脚

 毛沢東が究極の打倒すべき権力と見なした劉少奇も夫人ともども厳しく追及され、党を除名されて最後は病没した。鄧小平はすべての役職を奪われ、労働現場で働くことを余儀なくされた。それ以外に無数の党幹部や文化人が反革命の三角帽子を被せられて迫害された。1968年10月には国家主席劉少奇が除名され国家主席を解任され、これ以降、国家主席は空席となった。これによって、毛沢東にとっての文化大革命の目標の一つである奪権闘争は成功したと言える。
 劉少奇、鄧小平の他に、毛沢東・林彪・江青らの指示によって動かされた紅衛兵・造反派が反革命・ブルジョワ資本主義復活を策謀したという理由で弾劾し、迫害した人物には、朱徳、陳毅、賀竜、譚震林、徐向前、彭徳懐など党創設期の元老や、羅瑞卿、彭真、陸定一などの軍や党幹部がいる。さらに「四旧打破」の犠牲となった、老舎、丁玲、巴金などの文学者、教育者、科学者、音楽家などの文化人も多かった。多くの人が文革派のいわれなき密告によってつるし上げにあって命をなくしたり抹殺された人々が跡を絶たなかった。<くわしくは厳家祺・高皋/辻康吾訳『文化大革命十年史』上・下 1996 岩波書店初版、楊継繩/辻康吾編訳『文化大革命五十年』2019 岩波書店 などを参照。>

文化大革命の転換

 1966~68年は、中国全土が文化大革命で騒乱の極みとなった時期であり、革命を進めようとする先鋭的なグループと、革命を支持しながらも収束を図ろうとする現実的な勢力が各地で武力衝突するなどの混迷が深まり、毛沢東自身も革命の終結を模索するようになった。そのような時期に、革命を支持する立場を守った人民解放軍と、それを握る林彪に次第に焦点が動いていった。
林彪事件 1969年4月、林彪は毛沢東の後継者と指名されるまでになったが、1971年9月13日、林彪らが国外逃亡を謀り、失敗してモンゴル上空で墜落死するという林彪事件が起こって世界を驚かせた。この事件の真相は未だに明らかにされていないが、現在では林彪がクーデタで毛沢東殺害を狙い、それを周恩来に阻止されて失敗したためにソ連に亡命しようとした、とされている。
四人組と周恩来・鄧小平 林彪事件後、毛沢東の権威の下でその直接的な支持を受ける毛沢東夫人江青などの四人組と、共産党の実務を取り仕切る周恩来との間で目にみえない対立が続いた。周恩来は1973年3月鄧小平を復活させ、中国の経済の立て直しに着手した。それに対し、四人組は周・鄧の路線は文化大革命を否定して資本主義を復活させる動きであると警戒し、1974年に林彪を批判するとともに、古代の思想家孔子の聖人周公を讃美したことを批判し、暗に周恩来を周公に見立てを批判するという「批林批孔」を展開した。しかし復活した鄧小平は活発に動き、同年には国連に出席し、三つの世界論を展開、国際的にもその存在を印象づけた。また周恩来は病気をおして 1975年1月の全人代で政治報告を行い、「農業・工業・国防・科学技術の四つの現代化」を今世紀までにを実現しようと呼びかけた。鄧小平は同年、軍事委員会副主席兼双参謀長兼党副主席の要職に就いたが、毛沢東は鄧小平の活躍を警戒するようになり、鄧小平を『水滸伝』の宋江になぞらえて批判する「水滸伝批判」を始めた。しかしこのころから毛沢東も体力の衰えが目立ち、政治的指導力に次第に陰りが見えてきた。

文化大革命の終了

天安門事件(第一次) ようやく1976年、文化大革命は、周恩来と毛沢東が相次いで亡くなったことで、終幕を迎えることとなった。まず1975年1月13日周恩来が死去すると、その追悼の花輪を四人組が実権を握った政府が撤去したことから民衆が激昂して1976年4月5日天安門事件(第1次)が起こった。民衆は口々に四人組打倒を叫んだが、政府は暴動と見なして鎮圧し、さらに鄧小平が事件を煽動したとして再び役職から解いた。この運動は文革終了後に暴動ではなく「革命的行動」であると評価の見直しがおこなわれ、現在では「四・五運動」とも言われている。
毛沢東の死去 7月6日にはもう一人の革命の元勲、八路軍などの指揮で有名な朱徳が死去、さらに8月28日には河北省の唐山で大地震が発生、24万人以上の死者がでるなど、文字どおり激震が続く中、1976年9月9日毛沢東が死去(82歳)した。
四人組逮捕と華国鋒 毛沢東の死後、誰が権力を継承するのか、世界中が注目する中、1976年10月6日、四人組が逮捕され、間もなく新たに華国鋒が後継者となることが発表された。華国鋒はそれまで目立った存在では無かったが、文化大革命には全面的に支持を表明し、毛沢東から「あなたに任せれば安心だ」と言われた(他の誰も聞いた人はいなかったが)ことを根拠に権力掌握に乗りだし、他の古参幹部の協力を得て一気に四人組逮捕に踏み切ったのだった。
革命終了の宣言 1977年8月、中共第11回全国大会において、華国鋒は、プロレタリア文化大革命は勝利のうちに終結した、と宣言し、次の段階は「四つの現代化建設」(近代化とも言う)を新たな国家目標としてめざすとした。文化大革命は1976年の毛沢東の死去、四人組の逮捕で実質的に終わりをつげていたが、この1977年8月の党大会で正式に文化大革命の終了が宣言されたことになる。

米中関係の改善

 1971年、まだ文化大革命の渦中にあったが、4月に日本の名古屋で開催された世界卓球選手権大会に参加していた中国チームとアメリカチームの間で交流があり、中国がアメリカチームを北京に招待した。アメリカ帝国主義非難を続けている中国がとった思いがけない姿勢に世界が驚いたが、それは7月にキッシンジャーが秘密裏に中国を訪問、周恩来と会談して米中関係の改善で一致したことの前交渉だった。卓球交流を表看板としたしたたかな外交は、当時「ピンポン外交」と言われた。1971年7月15日、翌72年の早い時期にニクソン大統領が中国を訪問すると発表されてさらに世界を驚かし、3ヶ月後の1971年10月に国連総会で国連の中国代表権が台湾でなく中華人民共和国であることが承認され、中国は一挙に国際舞台に登場することになった。
日中関係の改善 ニクソン訪中1972年2月21日に実現、さらに日本の田中首相が1972年9月29日に訪中し、日中国交正常化をめざすことで一致し、日中共同声明を発表した。
 この米中関係改善の一連の変化は、中ソ対立のなかでアメリカとは手を結びたい中国と、ベトナム戦争の終結を急ぐアメリカが環境を整備する必要があったという双方の思惑が一致したことで実現した。アメリカが中華人民共和国を承認したことにより、台湾政府(中華民国)はアメリカとの外交上の関係と国際連合での議席を失った。また日本との正式な国交は文革終了後の1978年8月12日日中平和友好条約が締結されて実現し、両国はようやく戦争状態を終わらせ、日中貿易を柱とした新たな時代に踏み出した。
台湾問題 中国とアメリカの正式な国交は1979年1月1日、鄧小平とカーター大統領との間で米中国交正常化に正式に合意、締結された。台湾については中国はアメリカ軍の撤退を強く要求、アメリカはそれに応じたが、武器援助を続けることで決着した。そのうえでアメリカは台湾政府(中華民国)と断交し、1980年に米華相互防衛条約が失効した。
ベトナムとの戦争 一方でソ連との関係を強めたベトナムとは、ベトナム戦争終結後に関係が悪化した。直接的にはベトナムが中国の支援を受けているカンボジアのポル=ポト政権を攻撃したことであり、1979年2月17日に中国軍がベトナムに侵攻して中越戦争が起こった。しかし、戦争の大義を得られないまま、短期間で撤退、失敗に終わったが、その責任は専ら華国鋒にあると見做された。

中華人民共和国(5) 改革開放路線
1978~1999

 文化大革命が事実上終了した1977年に復権した鄧小平は、華国鋒に代わって実権を握り、社会主義体制・共産党一党独裁のままで資本主義を導入して中国経済を発展させようという改革開放政策に大胆に転換させた。しかし一方で「四つの原則」の堅持を掲げ、政治の民主化、言論の自由化を否定した。中国経済は急成長したが、民主化を抑える鄧小平政権への不満が高まり、1989年に北京で民主化運動を弾圧する第二次天安門事件が起こった。

鄧小平政権

 華国鋒政権は、文化大革命を清算することは出来ず、その残り火はまだ各地で燃えており、本格的な経済復興には着手できない状況だった。そのような中で、1977年7月鄧小平は党中央に復権し、華国鋒の教条主義的姿勢を批判しながら主導権を握り、翌1978年1月の第5期全国人民代表会議(全人代)第1回会議でその主導の下で社会主義の下での経済発展を目指す改革開放政策を打ち出し、中国共産党の路線は大きく転換することとなった。

改革開放路線

 中国のこの方針は、「歴史的転換」と言われた1978年12月18日中国共産党第11期三中全会で、華国鋒の解任とともに鄧小平によって打ち出された。それは政治では共産党一党独裁のもとで社会主義体制を堅持しながら、市場経済(資本主義経済)を国内経済のみならず対外経済でも導入するものであった。具体的には人民公社の解体、農産物価格の自由化などの国内経済の自由化であり、外国資本や外国の技術の導入を認めることであり、そのような開放経済の拠点として「経済特区」と設けることであった。経済特区とは中国国内で資本主義地域が生まれたことを意味し、いわば中国全体が一国二制度になったと理解することができる。
文化大革命の否定 1980年11月には公開裁判で四人組裁判が行われ江青には死刑判決が出され、文化大革命の混乱の責任を負わされることとなった。鄧小平は内政では当初は表舞台には立たなかったが、1980年には権力を集中させ、腹心の胡耀邦らと慎重に討議を行い、1981年6月27日には「建国以来の党の若干の歴史的問題についての決議」(歴史決議)を採択した。そこでは、1966年5月から1976年10月にいたる「文化大革命」によって、党と国家と人民は建国以来最大の挫折と損失をこうむったことを認め、「文化大革命」は、指導者(毛沢東)がまちがって引き起こし、それが反革命集団に利用されて、党と国家と各民族人民に大きな災難をもたらした内乱であった、と総括した。また毛沢東が提起した「継続革命論」はマルクス=レーニン主義を誤って解釈したものであり、結局、文化大革命という全局的な、長期にわたる左寄りの重大な誤りは、毛沢東同志に主な責任があると断定した。しかし同時にその全生涯から見ると、中国革命に対する功績は、過ちをはるかにしのいでおり、功績が第一義的であり、誤りは第二義的である、と結論づけた。
 同時に中国社会主義の柱であった人民公社に対して、その非生産性を批判して、1982年に「人民公社の解体」を断行した。
1979年の世界的転換 中国共産党が、鄧小平の主導権の下で、脱文化大革命・脱毛沢東をはかり、改革開放政策への転換を進めた1979年、世界では、1月のイラン革命からイスラーム圏の激動が始まり、12月にはソ連のアフガニスタン侵攻はソ連崩壊への始まりと同時に新たなアラブ過激派の台頭の要因となった。また同年、イギリスではサッチャー政権が誕生し、資本主義社会は新自由主義の導入による混迷の時代に突入した。

鄧小平時代

 1980年代の中国の鄧小平政権は、鄧小平を最高指導者として、党務は胡耀邦、政務は趙紫陽が取り仕切るという体制のもとで、改革開放政策が積極的に推し進められ、驚異的な経済成長を実現させた。1982年9月、中共第12回全国大会で、総書記となった胡耀邦が「政治報告」を行い、工農業生産総額の4倍増の実現などの目標を掲げ、指導体制としては革命イメージを払拭し、集団指導体制を確立する意味から党主席制を廃止、総書記を置き、胡耀邦が就任した。鄧小平は最高ポストに就くことを避けたが「最高実力者」として総書記胡耀邦と国務院総理趙紫陽を左右に従えた「鄧胡趙トロイカ体制」が成立した。
 また胡耀邦の政治報告は、外交では従来のソ連の覇権主義に反対するという基本を継承しながら、「独立自主路線」と「平和共存五原則」が中国外交の最良の方式であると述べ、全方位外交を掲げ、ソ連との関係の改善も示唆したことが注目された。台湾に対しても従来の武力併合一本槍ではなく、一国二制度も含めた平和的な統合への模索が始まった。
四つの基本原則 鄧小平時代に改革開放政策という試みが始まったが、それは実体において資本主義経済への転換であった。資本主義にむけて経済の近代化が急速に進められたことは、「政治の近代化」=民主化、つまり共産党一党独裁の否定、多党化などの容認に進むのではないか、とも見られたが、鄧小平はそれを明確に否定し、「四つの現代化」実現のためには、四つの基本原則として、・社会主義の道、・プロレタリア独裁、・共産党の指導、マルクス・レーニン主義・毛沢東思想、は堅持しなければならないと表明した。
改革開放の停滞 共産党一党支配に対する批判は許さないという方針は、1979年の民主化運動家魏京生を逮捕したことに示されており、その後も文学・思想界でも「ブルジョア自由化」に対する厳しい抑圧の姿勢が続いた。しかし、改革解放が進むとともに、共産党内にも政治改革と民主化を志向する改革派(胡耀邦と趙紫陽ら)と、従来の一党独裁を柱とした従来の体制を維持すべきだとする多数派との駆け引きが始まった。
胡耀邦の解任 経済の自由化は、当然、言論や思想の自由を求める声を活発にしていったが、鄧小平政権はそれを「ブルジョア自由化」として危険視する保守派の勢力が強かった。しかし、鄧小平の右腕と言われた官僚で経済自由化路線を進めていた胡耀邦は、政治や言論での自由化が必要という意見に傾いて行き、民衆の声を代弁するようになった。その動きを警戒した体制派は鄧小平を動かし、1987年1月に路線を混乱させたとして胡耀邦は総書記の地位を追われてしまった。
趙紫陽の改革 あらたに総書記となった趙紫陽1987年11月の第13回党大会で政治報告を行い、国家と党の分離、政治の公開化、プロセスの民主化などを大胆に提起した。それらは当時ソ連で進行していたゴルバチョフの改革に影響されたもので、改革派の官僚や学者を動員して作った改革プランであった。趙紫陽は経済改革ではさらに大胆に、中国は社会主義社会の初級段階にあると規定してその完成は21世紀中頃になると判断、それまでは近代的工業への脱皮をはかるため、不動産売買、私営企業の株式制度、自由価格など市場経済原理を導入しなければならないと提起した。
社会と経済の混乱 この「限りなく資本主義に近づく」という大胆な提案は歓迎されたが、従来の計画経済から自由経済への急激な転換はさまざまな弊害、例えば拝金主義や汚職、過剰投資、過剰生産などが広がったが、最も民衆を苦しめたのが物価の急騰と不安定であった。一方で経済の自由化は当然、政治の自由化が「第五の現代化」として強く叫ばれるようになった。
 そのような中で迎えた1989年は五・四運動七〇周年記念の年であり、ソ連の改革の旗手ゴルバチョフの来訪が予定されていた。急進的な改革派知識人として知られていた方励之(ほうれいし)らは1979年に逮捕された魏京生ら政治犯の釈放を求めて人権擁護署名運動と民主化に向けての公開質問の提出などの運動を開始した。鄧小平政権はこのような動きを強く警戒し、「安定が第一」として言論取り締まりを強化した。

第2次天安門事件

 元総書記胡耀邦は1989年4月15日に心筋梗塞で急死した。民主派の指導者として失脚後も人気の高かった胡耀邦の死に対して、追悼する集会を学生・市民が開催すると、天安門広場に多数の民衆が詰めかけ、鄧小平政権批判を叫ぶようになった。国務院総理(首相)李鵬と党の実力者鄧小平はそれが反政府暴動に発展することを恐れて戒厳令を発布した。これに対して党総書記趙紫陽は、政治改革を進めることが必要と考え、学生・市民の声に耳を傾けようとして戒厳令に反対したが孤立した。趙紫陽は天安門に姿をあらわし、学生に撤退を呼びかけたが学生は動かなかったので、「来るのが遅すぎた」と述べて姿を消した。その後彼は解任され、軟禁状態となった。鄧小平・李鵬は1989年6月4日、戒厳部隊に出動を命じ、それに抵抗した学生・市民に発砲、多数の死者が出た。この天安門事件(第2次)(六四)は建国以降初めて首都北京で戒厳令が出され、人民解放軍が中国人民に銃を向けたことは大きな衝撃をもってむかえられた。そして、中国共産党鄧小平政権によって民主化運動が暴力的に弾圧されたことは、世界にも強い反響を呼び、その人権抑圧に対する世界的な非難がわきおこることとなった。
 民主化運動は力によって抑えられ、犠牲者は1000~2000名に上るとされているが最終的な実態は判っていない。多くの市民・学生が虐殺されるか投獄され、逃れたとしても外国に亡命せざるを得なかった。現在の中国ではこの事件はまったくの反革命的暴動とされ、共産党政府の正しい判断で鎮圧されたとなっており、関わった人々の名誉は回復されていない。
ゴルバチョフの訪中 1989年、中国で第2次天安門事件の起こった時、ソ連共産党書記長ゴルバチョフが折から訪中し、北京に滞在していた。これは、ソ連でのペレストロイカの進展により、中ソ関係の正常化を実現させようという、中ソにとって重要な交渉のためであった。そのため、世界中の報道機関が北京に詰めかけていたので、天安門事件はそこに居合わせたジャーナリストによって映像と共に世界に発信されることになった。
 1989年、東欧諸国の民主化(東欧革命)が進み、天安門事件と同じ1989年6月4日にはポーランドワレサの率いる連帯が自由選挙で圧勝した。11月にはベルリンの壁が開放され、同年末には冷戦の終結するなか、中国共産党=鄧小平政権が民主化要求を武力で踏みにじったことは、大きく中国のイメージを損ない、まだ世界の反響が大きかった分、中国の政権も過剰に反応し、それ以降の民主化運動に対するさらに厳しい姿勢をとることとなった。
鄧小平の南巡講話 鄧小平はそれらの非難にも動ぜず、事件を抑えきった後、解任した趙紫陽に代えて実務的な党官僚として有能とされた江沢民を抜擢、自らは従来どおり表面に立たず、最高指導者として改革開放路線の再建にあたった。しかし、天安門事件に対してアメリカが経済政策を加えるなど、中国経済は大きな打撃を受け、その再建は党と国家の命運をかけて取り組まなければならない情勢となっていた。そこで鄧小平は1992年1月~2月、自ら深圳、珠海、上海など南部の経済特区を歴訪して、大胆な投資を呼びかけ、自由競争による市場経済原理の徹底、外国資本の導入、減税措置などを進めた。この「南巡講話」は計画経済と市場経済を矛盾したものとは捉えず、両者を結合させるのが中国にとって最も適した体制であることを強調し、さらなる開放を呼びかけた内容であり、それが呼び水となって人々の中に投資ブームが起き、中国の実質的な資本主義経済が本格的に動き出したとされている。
社会主義市場経済 1992年10月、中共第14回全国大会で江沢民総書記が政治方針を演説、鄧小平が南巡講話で示した基本路線を踏襲し「社会主義市場経済」を積極的に導入することを提唱した。経済・財政の専門家として副総理に抜擢された同じ上海市長から転じた朱鎔基が副総理となり、税制、銀行、企業、外国貿易などの現代化を進め、1993年11月に決定し、計画経済の要素を残しながら、先進資本主義国と同様の経済制度を導入するという、社会主義市場経済を確定させた。それによって中国経済は急速に成長、1990年代には毎年9%という驚くべき経済成長を遂げることとなった。

香港返還

 1997年2月に鄧小平は死去、その年、1997年7月1日にイギリスとの間に懸案となっていた香港返還が実現した。アヘン戦争の後の1842年南京条約によって、香港島がイギリスに割譲され、さらに1860年の北京条約で隣接する九竜半島の一部が割譲された。次いで、1898年には「新界」と言われる九竜半島の大部分が99年間租借地とされることとなった。
 その租借期間が終了する1997年が近づくにつれ、香港の返還をめぐって中国とイギリスの話し合いが始まり、1980年代に改革開放に転じた鄧小平政権とイギリスのサッチャー政権との間の交渉が行われた。イギリスは返還に応じるがその時期についてはソフトランディングを主張し、双方の綱引きの結果、1984年に両国の共同声明で、租借期限の1997年をもって香港の主権を中国に返還するが、それ以後50年間は一国二制度とすることとなった。一国二制度というアイディアは鄧小平が出したといわれるが、それが正しい方式であったのか、無理な方式だったのかはこれから問われることとなる。
 香港に続いてポルトガルとの間でマカオ返還について合意が成立し、1999年12月20日に実現、主権・行政権は中国に返還され、中華人民共和国の特別行政区となり、香港と同様、一国二制度が適用されることとなった。

鄧小平後の中国

 鄧小平は1997年に死去したが、江沢民・朱鎔基・胡錦涛・温家宝・習近平といった後継者たちは、鄧小平の二面性(改革開放と四つの原則)をそのまま継承している。そこで明確になったのが、共産党一党支配という政治体制のまま、計画経済と市場経済を一体化させ、実質的に資本主義を導入することによって経済を成長させるという、「社会主義市場経済」の大胆な転換をとげようというものであった。それは一面、ソ連の末期にゴルバチョフらがやろうとして失敗したように、共産党政権として困難が予想される挑戦であった。
 このような自由主義経済・市場原理を、政治的に民主化されていない国家で実行することは、果たして可能なのか。誰しもそれを疑ったが、改革開放を進めた鄧小平とその後継の共産党権力者のブレーンとなった経済学者の主流となった考えは、政治的に未熟な国では民主的な手続きよりも、独裁的な力をもつ指導者に権力を集中させ、政治的混乱を抑えながら経済成長を実現することが有効である、というNIEsに見られる開発独裁の思想だったようだ。<矢吹晋『鄧小平』1993 講談社現代新書、天児慧『中華人民共和国史新版』2013 岩波新書 などによるまとめ>

中華人民共和国(6) 現代の中国
2000~

共産党一党支配のもとで、改革開放政策による市場経済の導入は社会主義市場経済論に進化して、21世紀に加速、中国経済は豊富な人的資源を背景に急成長を続けた。2010年についに中国は日本を抜いてGNP第二位となり、第一位のアメリカと対抗するまでになった。2012年に共産党総書記となった習近平は「一帯一路」など積極的な世界戦略を打ち出し、また南シナ海などへの海洋進出を進めている。その姿勢は日本など周辺諸国から覇権主義と批判されている。またアメリカ合衆国もそれまでのロシアを最大の競争相手と見ていたのを改め、経済的にも軍事的にも中国を最大の相手国と認識するに至っている。しかしこのような急速な経済発展や大国化にはさまざまな無理やひずみが生じているのではないか、と危惧されている。2019年末に初めて武漢で明らかになった新型コロナウィルスは、2020~21年に世界中にパンデミックとなって広がったが、それは中国を含む現代世界のひずみの一つの表れなのかも知れない。

江沢民の時代 大国化の光と影

 1997年、鄧小平の死去により政権中枢に立った江沢民は、社会主義市場経済の積極的な導入と共産党独裁体制の維持という基本姿勢をさらに強め、2001年に中国共産党の創立80周年大会で市営企業主の共産党への入党を認め、その基本的な性格を階級政党から国民政党へと転換させることを明言した。この江沢民の時代に中国は社会主義国家と言うよりは、経済成長と開発を優先し、民族意識を高めるための勢力拡大をめざす「開発独裁」国家、言い換えれば「大国主義」を標榜して憚らない国家へと変貌した。
 21世紀の中国は、2001年のWTO加盟に始まり、2008年の北京オリンピック開催、2010年の上海万博の開催、ロケット実験の成功など宇宙開発への進出、2010年のGNPの世界第二位、などなど大国意識を満足させるようなニュースが続いた。国民の豊かさは想像以上に増大し、ITやSNSなどの広がりは日本を見る間に追い抜いていった。その中で共産党一党支配の体制維持のため、汚職の撲滅など国内引き締めを強めていたが、言論の自由はまだ認められておらず、政治批判は依然として許されていない。
 この間、中国共産党最高権力者のポストである総書記は江沢民から2002年に胡錦涛(2003年国家主席。総理に温家宝)、2012年11月習近平(2013年国家主席、総理に李克強)へと継承された。その基盤である中国共産党は党員8500万を数える巨大政党であり、人民解放軍は230万の兵力を擁する核装備を持つ軍隊である。
 このような中国を隣国として持つ日本は、尖閣問題を抱え、また一部に残る歴史認識の違いなどギクシャクした関係が続いているが、同じアジアの隣国であり、深い経済的、文化的、歴史的つながりがあることは動かしがたいことで、曇りのない目で見ていく必要がある。
 それでは現代の日本にとって中国をどう見るべきなのか、その顕著な経済成長とそこから生じていると考えられる問題点を拾い出してみよう。

人口問題

一人っ子政策 中国の人口は、中華人民共和国建国の1949年には5億4千万人であったのが、30年後の1979年には約1.8倍の9億7千万人になった。大躍進時の大飢饉や文化大革命期の政治・経済の混乱にもかかわらず、死亡率が低下したことで人口急増が続き、食糧生産が人口増加に追いつかない状態になった。改革開放政策をとるようになった中国政府は、経済が人口圧に耐えられなくなることを恐れ、1979年から厳しい出生抑制策に転換、いわゆる「一人っ子政策」を打ち出し、子ども一人家庭を優遇し、無計画な出産には罰金を科すなどを開始した。現在(2020年)の中国の人口は約14億1千万人で世界総人口の5分の1を占めているが、2035年ごろは一人っ子政策の「成果」が現れ、世界一位の座をインドに譲ると予測されている。
 中国政府は2016年に「一人っ子政策」をやめ、「二人っ子政策」に転換するとともに、人口を2020年までに14億2千万人に抑える目標を掲げていたが、目標にはやゝ届かなかった。しかし、国連の見方は中国の人口は2030年にピークに達し、そこから減少に転じるだろうと予測している。中国当局はこのまま進めば中国も少子高齢化社会を迎えることとなると予測し、出生数を増やす必要があると考えているが、都市の若年層には就職難、育児の困難さなどから結婚をしないか、遅らせる傾向が高まっているという。ロイター通信 2021/5/11 記事 中国の2020年総人口は14.1億人、「一人っ子政策」導入以来最低の伸び>

民主化運動への抑圧

 天安門事件(第2次)が力によってねじ伏せられたかたちとなったが、その後も底流として民主化要求は続いていた。2008年、民主派知識人と言われる劉暁波らが、共産党一党独裁の廃止、三権分立、立法院の直接選挙、人権の保障など含む「零八憲章」(08憲章)をインターネットで発表した。ところが発表直前に拘束され「国家政権転覆扇動罪」により11年の懲役に処せられた。その服役中の2010年にノーベル賞を受賞したが、中国政府は強く反発し、ノーベル賞委員会に内政干渉であると抗議、同時に国内での受賞のニュースを抑えようとした。しかしネットでは規制をくぐって情報が広がり、2011年のチュニジアに始まったアラブの春のような動きになるかと思われた。しかし、中国国内での民主化運動が再び盛り上がることは無かった。
 このことは中国では劉暁波が提唱したような西欧型民主主義は多数派を形成することが出来ないのではないか、という見方を生んだ。しかし習近平政権にとって脅威であったことは確かで、政権は民衆の不満を和らげる意図から汚職などの腐敗撲滅キャンペーンを開始し、「法による国家統治」を強調した。西欧型デモクラシーよりも有能で清廉な為政者による善政を庶民が支持するという中国の伝統的な政治理念が働いているとも見ることができる。<岸本美緒『中国の歴史』2015 ちくま学芸文庫 p.297-298>

市場経済の急成長

 改革開放政策に続き、社会主義市場経済が導入されてからの中国は、2000年代に入ってGDPの成長率が10%前後という驚異的な成長をとげてきた。2015年からは経済成長率目標を7%前後に設定している。依然として社会主義は標榜しているものの、「限りなく資本主義に近い」状態にあり、またその人的資源から世界経済の中心になる勢いを示しており、2001年には世界貿易機関(WTO)に加盟した。さらにアメリカとの貿易関係でも出超に転じ、ドルとのバランスが崩れたところから、2005年には中国の通貨の元を切り上げるに至っている。ついに2010年にはGDPで日本を抜いてアメリカに次ぐ第二位となった。
 このような市場経済の急成長は、一方でさまざまなひずみを生み出している。急成長に環境や安全の保証が追いついていないのか、毒入り餃子事件・メラミン入り粉ミルク事件(2008年)などの食品衛生の不備、PM2.5などの環境問題(2013年)、四川地震での建物崩壊(2008年)、浙江省での高速鉄道事故(2011年)などが続いた。また、経済発展は個々の貧富の差だけでなく、沿岸部と内陸部の格差、都市と農村の格差などが問題となっている。特に農村の問題は、1990年代末から「三農問題」(低生産性、荒廃、貧困という三つ問題)と言われ、重要な課題とされている。また中国経済の急成長は日本経済に大きな影響を与え、貿易、観光などでの中国経済への依存はますます重要になっている。

現代中国が抱える民族問題

 多民族国家である中国は、漢民族と55の少数民族によって構成されている。そのうち比較的人口の多いモンゴル人は内モンゴル自治区、チベット人はチベット(西蔵)自治区ウイグル人新疆ウイグル自治区でそれぞれ高度な自治を認められているが、たびたび問題が起こっている。
チベット チベット問題では1989年本国の中国で天安門事件(第2次)が起こった年にチベット(西蔵)自治区のラサで暴動が起きており、2008年の北京オリンピックの年にも暴動が起きている。背景には2006年、北京とラサをむすぶ高速鉄道が開通し、多くの漢民族がチベットに進出するようになってチベット人の経済活動が圧迫されたことがあるという。
ウイグル ウイグル人の独立運動も当初から起こっていたが、2001年の同時多発テロ前後から、タリバーンの影響を受けたイスラーム原理主義が浸透し、東トルキスタン独立運動として活発になっており、2009年にはウルムチで漢族とウイグル人が衝突したウルムチ騒乱事件が起きている。中国政府はイスラーム原理主義の影響を警戒してウイグル人に対する中国への帰属意識の強要や危険人物の予防拘束などを行っており、亡命ウイグル人の国際世論への訴えによって、中国人の大規模な人権侵害が非難される事態となっている。

台湾

 台湾とは1960年代の金門・馬祖をめぐる相互の砲撃は台湾海峡の危機といわれてアジア情勢の最大の不安定要素であったが、1970年代に米中関係が改善され、台湾の経済成長が顕著になるにつれ、明らかな変化が生じた。中国本土と台湾の経済的な結びつきが強くなり、友好的なムードが生まれ、台湾でも国民党政府は政経分離の原則で経済交流を進めようとした。中国側でも鄧小平は台湾にも一国二制度をあてはめて、武力統合ではなく、平和な交渉での統一を提唱した。しかし、21世紀に入り、台湾では民主化が進んで民進党が政権に就くとナショナリズムが強くなって明確に台湾独立を主張するようになった。2014年3月18月には中国とのサービス貿易協定に反対する学生が立法院の議場を占拠するというひまわり学生運動が起こった。中国の習近平政権は台湾独立を強く牽制、武力併合も匂わせるようになり、再び台湾海峡(両岸関係)は緊迫の度を増している。

香港

 香港では中国が一国二制度を事実上棚上げして、さまざまな締め付けを強めている。2014年9月28月に行政長官の普通選挙を求めるデモが発生、雨傘を持った民衆と若者が警官の放水車に抵抗したので雨傘運動といわれた。しかしこの民主化運動は中国政府の圧力で香港当局がデモ隊を排除して運動は沈静化させられた。その後も香港民主化運動は続き、2019年4月には香港立法府で「逃亡犯条令改定案」が審議されると本国への政治犯引き渡しが行われることになるため民主派が強く反発、さらに2020年6月30日には中国の全国人民代表大会(全人代、国会に相当)常務委員会で香港国家安全維持法を成立させ、香港での反政府運動を厳しく取り締まる姿勢を強めた。このような習近平政権の香港への締め付けは一国二制度の原則に反するものとして国際的にも批判が強まっているが、中国政府は内政問題であるとして批判に耳を貸さない状態が続いている。

南シナ海での海洋進出

 中国は南シナ海に点在する諸島に対し、歴史的な固有の領土であると主張を繰り返している。その南シナ海に舌のようにのびた領域は、当然、フィリピン、ベトナム、ブルネイ、マレーシアなどとの領土紛争となり、また公海に対する占有は公海航行自由の原則に反するとしてアメリカ、日本などが強く反発している。
 2016年7月、常設仲裁裁判所(オランダのハーグ)は、南シナ海における中国の権利主張を否定する判決を出した。 この裁判は、中国が南シナ海の点在する諸島は中国が「歴史的権利を有する」と立場から、九段線と名づけた境界線の内側の南沙諸島の岩礁を埋め立てて人工島を造成ししたことに対し、領有権を争うフィリピンが国連海洋法条約に基づいて訴えたものだった。第三国出身の裁判官5人は「九段線に法的な根拠はない」・「南沙海域に法的な島は存在せず、人工島も島ではない」などの判決を出したのだった。
 これに対して中国の外交担当国務委員であった載秉国は「紙くずに過ぎない」と断じ、無効で拘束力のない判決には従わないという姿勢をとり続けている。人工島の造成は18年までに永署礁などに3千メートル級の滑走路や電波妨害装置を完成させ、衛星の監視によると戦闘機の着陸が確認されている。2020年4月には南沙(スプラトリー)諸島と西沙(パラセル)諸島に行政区を設置している。これは、南沙諸島は人が居住できない「岩」だとする判決を否定する動きである。
 2021年2月には、海警局が安全保障の役割を明記した「海警法」を施行した。しかし一方では、領有権で対立するフィリピン、マレーシア、ブルネイ、ベトナムなど東南アジア諸国とは対立を回避し、対話も進めている。アメリカは空母などを派遣して「航行の自由」作戦を実行して中国を牽制しており、中国もそのようなアメリカの介入に反対しようという働きかけを東南アジア諸国に対して行っている。<朝日新聞 2021/7/11 記事などによる>

中国共産党6中全会の「歴史決議」

 中国共産党は、2021年11月、中央委員会第6回全体会議(6中全会)を開催、11日に閉幕した。会議では習近平共産党総書記(中華人民共和国国家主席)の指導力を讃える「歴史決議」を採択した。過去の「歴史決議」を出したときの指導者は毛沢東と鄧小平しかおらず、習近平はその二人に並ぶ歴史的権威を与えられたことになる。<各新聞報道>

21世紀の日中関係

 1978年に日中平和友好条約によって、長い目で見れば明治時代の日清戦争以来続いていた日中の戦争状態に終止符が打たれた。それは近代になってはじめての安定した関係となった。日中貿易という経済関係を中心に、両国は積極的な交流を行ったが、1980年代に入ると歴史認識問題があぶり出されてきた。まず1982年7月日本の文部省の教科書検定で、歴史教科書での中国への「侵略」という表現を改めたことに中国政府が公式に抗議した。85年9月には中曽根首相がA級戦犯の合祀された靖国神社を公式参拝したことに対して、中国の大学生が抗議デモを行った。以後、靖国問題は日中の友好関係に刺さったトゲのようになっていく。
 さらに日中戦争中の南京虐殺事件を否定するような発言が日本から出されるようになって、中国側が硬化した。日本政府は戦後50年にあたる1995年に村山富市内閣の時、国会で日本の植民地支配と侵略行為を深く反省して「不戦決議」が出され、さらに村山談話として戦争に対する痛切な反省を表明した。国会では反対も多く、村山も自民党との調整が困難であったが、これによって一応はけじめを付けた形となった。しかし、それから10年後の2005年には小泉首相が靖国神社を参拝したことから日中摩擦が増大し、4月には日本の国連安保理常任理事国入りの動きに反対するデモが中国各地で起こった。
 日本側の歴史認識が揺らぐ事態がその後も続き、日中間にはいまだにわだかまりが続いている。その解決の道は、今更ながら、かつて日本が中国を侵略した事実から目をそらさず認識することであろう。中国の覇権主義や海洋進出、軍備拡張などに対して正当な批判をするためにも、我々自身の正しい歴史認識が必要になると思う。
尖閣問題 中国の経済が急速に成長し、アメリカとの二大国の並立という状況となった2012年ごろから、軍事力の拡張を進める中国は国際社会における脅威と受け止められるようになった。この中国脅威論は日本では尖閣問題で直接的に感じられることとなったが、すでに1992年に中国は領海法を制定したとき尖閣諸島(中国では釣魚島)やスプラトリー諸島(南沙諸島)などを「中国固有の領土」としていた。さらに2009年からは領土・領海を「核心的利益」として、領海とする海域での漁業の操業を活発に行うようになった。それが2010年の尖閣諸島沖での中国漁船と日本の海上保安庁の警備艇の衝突事件となって現れ、日本国内で尖閣国有化の声が強まって2012年に日本政府が国有化に踏み切ると、日中国交回復以来最悪の反日暴動が起こった。日本ではこの頃から「反日」行動に反発して中国に悪感情を持つ雰囲気が強まっている。
蛇足 中国が尖閣諸島を重視するのは、太平洋方面への海洋進出をみすえているためとも言われている。そのような海洋進出は国際法上も許されるはずがないし、中国にそのような方策をとらせないように国際社会としての共同の動きを強める必要もあろう。しかし間違ってもこの島をめぐって日中が再び戦うといった事態は避けなければならない。

NewS 習近平体制の継続決定

 習近平は2012年11月、中国共産党全国代表会議で、総書記に就任、2年2期務めたが、2022年11月に同会議で三期目に入ることが承認された。習近平はこの間、内政では汚職の摘発、貧困の絶滅などを掲げ、社会主義市場経済における党の指導性を強めながら経済成長を図ってきた。コロナ禍ではその指導力を試されることとなったが、武漢や上海で徹底した都市封鎖を押し進め、強権的な感染防止策を実行した。これは市民に大きな犠牲を強いたので、各地で反発する騒動が起こったが、それらの声を封殺しての措置だった。また外交では、一帯一路という、かつてのシルクロードを再現させ、世界経済での主導権をめざす指針を示し、盛んな外交攻勢を行った。そこには中国の核を含む軍事力を背景とした大国主義が見え隠れし、周辺諸国の反発を買った。しかし、東シナ海・南シナ海への海洋進出を進め、香港の民主化運動を押さえ、台湾の分離独立を強く牽制するなどの姿勢により顕著に表れている。
 2022年11月の共産党代表会議で総書記三期目に入り、同時に前総書記胡錦濤や首相李克強らを退陣させ、反習近平勢力を一掃し、続く5年間の権力維持を明確にした。大会開会に先だって胡錦濤が強引に退場させられるシーンが海外メディアに世界中に報道された。これは毛沢東・鄧小平とならぶ個人崇拝を実現した習近平の、より強大な権力掌握を意味するのか、それとも内部の権力闘争の現れであるのか、判然としないが注目される動きであった。<2022/10/27記> → 中国共産党の項を参照