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日中国交正常化

1972年、田中角栄首相が訪中、毛沢東らと会談、国交の正常化で合意して日中共同声明を発表した。戦争状態の終結、国交樹立交渉が始まり、難航の末、1978年8月、日中平和友好条約が締結され、国交が回復された。

 日中戦争は1945年8月、日本がポツダム宣言を受諾したことによって日本の敗北となり、戦闘行為はおこなわれなくなったが、両国間の講和は中国の国共内戦(第2次)もあって、すぐには実現しなかった。そのため、中国には多くの日本人が残留し、また多くの日本人残留遺児が長い苦悩を続けることとなった。

遅れた日中の国交回復

 中国では1949年、大陸部を制圧した中華人民共和国が成立していたが、日本はアメリカに追随してそれを承認せず、台湾の中華民国政府を中国の正当な政権としていた。1950年6月、朝鮮戦争が勃発したことを受けて、アメリカは日本を西側陣営に組み込むため、戦後の日本の連合国との講和会議である1951年のサンフランシスコ講和会議を召集した。しかしそれには中華人民共和国・中華民国いずれも招待されなかったため、日中国交回復はなされなかった。同時に日米安全保障条約が締結され、一方翌年には日本は台湾政府との間で日華平和条約を締結、中国共産党政権下の中華人民共和国とは国交のない状態となった。
 1950年代から民間貿易が始まり、1962年には政経分離の原則により日中貿易が進展していたが、東西冷戦下、ベトナム戦争などの影響もあって、日中間の国交正常化交渉は行われることはなく、長く放置された。この間、中国に取り残された残留孤児は中国人に養育されながら、帰国のあてのない年月を送らざるを得なかった。

米中の日本頭越し外交

 ところが、1971年のキッシンジャー訪中、1972年2月21日のニクソン訪中は日本の頭越しに行われ、日本政府を大いに慌てさせた。日本外交の遅れを取り戻すため、田中内閣も日中国交回復を急ぐこととなった。

戦後33年目の国交回復

 田中角栄首相が訪中、中華人民共和国首脳の毛沢東・周恩来などと会談し、日中国交正常化に合意し、1972年9月29日日中共同声明を発表した。日本側は過去の戦争責任を痛感、反省することを表明し、日中平和友好条約の締結をめざすこととなった。これによって日本は中華人民共和国を中国唯一の政権と認めたので、台湾とは断交することとなり、1952年に締結されていた日華平和条約は無効となった。
 日中共同声明で日中間の平和条約締結交渉に着手することとなったが、当時ソ連と鋭く対立していた中国側との「覇権条項」に関する意見の相違から手間取ることとなり、ようやく1978年8月12日日中平和友好条約が締結される。こうして終戦から33年目、講和のないまま正式な国交のなかった日本と中国は国交を回復し、最終的に戦争状態を終わらせたのだった。
残留孤児の問題 日中国交は回復したが、当時中国は文化大革命の最中であったため、残留孤児の問題は未解決のまま放置され、民間の努力による帰国事業がようやく1980代から始まった。2020年現在、帰国して永住している人の総数は6724人(家族を含めば約2万人)となっている。<厚労省ホームページ 中国残留邦人の状況
 まだ多くの残留日本人がいるが、すでに中年に達し、その二世の時代になっており、問題は継続している。戦争と戦後の国際政治に翻弄された日本人のことを、世界史の学習の一部として忘れないようにしよう。
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書籍案内

服部龍二
『日中国交正常化』
2011 中公新書