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日中戦争

1937年、盧溝橋事件を機に勃発した日本と中国の全面的な戦争。1941年12月には太平洋戦争に拡大し、第二次世界大戦の一部となった。1945年8月15日に日本軍の全面的な敗北で終わった。中国では共産党が抗日戦争を勝利に導いたことをその権力の正当性としている。

日本の情勢

 日本は1927年の金融恐慌、さらに1929年の世界恐慌の影響で経済不況が深刻になる一方、財閥(独占資本)の形成が進み、政党政治も行き詰まるなか、1931年9月の満州事変で中国への侵略を開始しており、事実上の中国との戦争は始まっていた。さらに日本軍は32年春に上海事変(第一次)も起こし、その侵略行為に対する国際的非難が強まった。国内経済の行き詰まりの打破を海外市場拡大に求める動きに押されて、軍部は満州の権益を内蒙古や中国北部に拡大使用としたが、中国側の抵抗も強くなっていった。
二・二六事件 軍ファシズム体制の成立 すでに日本は満州国樹立が否定されたことを理由に、1933年に国際連盟を脱退、孤立を深めながら満洲の権益を守るために隣接する満蒙や北支に勢力圏をのばそうとして、1935年に日本は華北分離工作を進め、冀東防共自治政府を成立させるなど、中国本土の割譲を強く迫った。それに抵抗する中国に対して、日本国内の世論は「満蒙問題の解決」のため「中国政府を膺懲すべし(こらしめる)」といった論調が強まっていった。そのような中で、1936年2月の二・二六事件が起こった。
 この事件は、陸軍皇道派と言われた一部の青年将校が政党や財閥などの腐敗を批判して直接行動に走ったものであった。反乱軍は首相官邸などを襲撃、岡田内閣は倒れれたが、昭和天皇は反乱軍を非難、陸軍統制派は体制維持のために動き、反乱は鎮圧された。それを契機に統制派陸軍幹部が政権中枢を支配する軍部ファシズム体制が出来上がり、政党政治は完全に終わりを告げ、軍部内閣が日本を導くこととなる。

中国の情勢

 中華民国では、1928年の張作霖爆殺事件によって旧軍閥の張学良国民政府蒋介石政権への協力を表明(易幟)していた。1931年の満州事変に対して、全面的な抵抗はできず、1933年に塘沽停戦協定を結んで妥協した。その後も蔣介石政権は中国共産党との内戦を優先して日本に対する抗戦らしい抗戦を行わず(「安内攘外」と言われた)、満州国建国とその後の冀東防共自治政府の成立などを許していた。それに対しては中国共産党はコミンテルン第7回大会の決議に従って1935年7月八・一宣言を出し抗日統一戦線の結成を呼びかけていた。同年12月には北平(現在の北京)で日本に対する大規模な抗議運動である十二・九学生運動が起こった。このような中で、1936年12月には中国の情勢を大きく変化させる事件が起こった。
西安事件 抗日統一戦線の成立 1936年12月、東北軍の張学良は西安で蒋介石を軟禁し、共産党との内戦の停止、国共合作を強く求めた。この西安事件によって中国国民党中国共産党の提携の端緒が生まれ、日中戦争勃発を受けて1937年9月に第2次国共合作が成立することとなる。国民党軍、共産党軍は内戦を停止して抗日民族統一戦線を結成し、一致して日本軍の侵略に対して抵抗することとなり、共産党指揮下の紅軍は国民党軍に編入されて八路軍と称し、抗日戦の主力となった。日本政府および日本軍はこの事実を無視、あるいは過小評価したと言わざるを得ない。

日中戦争の呼称

 開戦当時の日本政府は、戦争であることを認めず、当初は“北支事変”といい、8月に上海事件(第二次)が起こったので“支那事変”を正式名称とした。一般には“日華事変”と言われることも多かった。その呼称は一定していなかったが、全面的な戦争であることはあきらかであった。1938年1月には近衛内閣は「国民政府を相手とせず」という声明を発表、どの国と戦っているのか不分明のまま戦争が続いた。ようやく同年11月、「東亜新秩序」と称して中国内に親日派政権を樹立することを掲げ、40年3月、汪兆銘を首班とする南京国民政府を傀儡政権として樹立した。同年7月には大東亜共栄圏の建設が戦争目的であることが示された。
 日中戦争は当初のもくろみに反して長期化、泥沼化し、日本は日独伊三国同盟の結成と東南アジアへの進出に活路を見出そうとしてアメリカ・イギリスとの対決が不可避であると判断し、についに東条英機内閣のもとで1941年12月8日に日米開戦に踏み切り太平洋戦争に突入した。その直後の12月12日に東条内閣はこの戦争を“大東亜戦争”と命名し、日華事変以降の中国との戦闘もそれに組み入れると閣議決定した。こうして日中の軍事衝突は、後付けで“戦争”とされ、45年8月の敗戦まで続いた。大東亜戦争という呼称は、敗戦によってGHQ命令で使用が禁止された。
 戦後の日本では日中戦争が最も一般的な用語とされているが、1931年の満州事変以降と太平洋戦争を含めて十五年戦争という表現も定着している。また歴史学会では、中国だけではなく、周辺のアジア諸国が戦闘範囲に含まれていたことから、「アジア太平洋戦争」という名称が広く用いられるようになった。なお、中国では中日戦争、抗日戦争という。

日中戦争の経過

戦争の開始

 1931年を起点とし、1945年の日本の敗戦までを十五年戦争として捉えれば、1937年の盧溝橋事件の勃発から始まる日中戦争はその中間点にあたる。
盧溝橋事件 満州事変と満州国建国後も関東軍による内蒙古工作、支那駐屯軍による華北分離工作という中国内部への日本軍の分離工作が続いていたが、1937年7月7日、北京郊外で中国軍と日本駐屯軍との間の偶発的な武力衝突から盧溝橋事件が起きると、日本軍は上海事変(第二次)でも戦闘を開始、中国軍への全面衝突に拡大した。日本政府(近衛文麿内閣)は宣戦布告をしなかったので、支那事変(当初は北支事変)と命名し(一般には日華事変とも言われた)、不拡大方針をとったが、軍部主導の戦線拡大に押され、事実上の戦争状態に入った。
 満州事変での経験から、日本軍は中国側の抵抗を過小に評価し、分裂状態にある中国に一気に軍事的圧力をかけることによって、降伏させられると考えていた。日本軍は、蔣介石政府は腐敗して国民から離反しているから弱体であろうし、共産党勢力も農民一揆程度の力量しかないと判断していた。陸軍大臣杉山大将は天皇に対し、戦争は短期間で終わると報告したが、実際には戦争は長期化し、日本敗戦の45年までつづくこととなる。
南京事件 日本軍は11月の上海占領(第二次上海事変)に続き、国民政府の首都南京の攻略に着手、12月に占領した。その際、大量の捕虜、民間人を虐殺する南京虐殺事件を起こした。翌1938年1月、近衛内閣は「国民政府を相手にせず」と声明し、蒋介石政権との講和交渉を打ち切った。国内では同じく38年に国家総動員法の制定など、国民生活を犠牲にした戦時体制がとられることとなった。
戦線の拡大 戦争は長期化し、戦線拡大を強いられた日本軍は、38年3月には徐州作戦を開始、それに対して国民党軍は退路戦術をとり、黄河を決壊させて洪水を起こして日本軍の進撃を阻止しようとした。洪水によって多数の農民が命と土地を失った。さらに戦線を華南に転じ、同年10月には長江中流の武漢三鎮を攻略した。この武漢攻略戦で、日本軍は毒ガスを使用した。
 蔣介石の国民政府は長江上流の重慶に退き、ビルマ方面などから米英などの支援(援蒋ルート)を受け、共産党は八路軍など各地でゲリラ戦をつづけて抵抗した。日本軍は38年末に重慶爆撃を行うと共に、援蒋ルートの遮断を狙ってさらに南下し、香港など主要都市を占領したが、広大な大陸で点と線の支配にとどまり、戦争は泥沼化した。
 1939年にはモンゴル草原で関東軍はソ連軍と衝突(ノモンハン事件)して敗れ、北進をあきらめ、南進策をとって中国戦線の打開をはかることとなった。1940年3月には、親日政権として汪兆銘を擁立し、南京国民政府を樹立させて中国分断を図った。

第二次世界大戦の勃発

 アジアにおける軍国主義日本の中国侵略が本格化したころ、ヨーロッパではファシズム国家ナチス=ドイツムッソリーニ=イタリアの領土拡張の軍事行動も開始されており、その軋轢はついに1939年にドイツ軍がポーランドに侵攻が開始されたことによって第二次世界大戦の勃発となった。
 日中戦争の泥沼化、長期化に悩んでいた日本は、1940年5月、ヨーロッパで、ナチスドイツ軍がフランスを占領したことを受け、援蔣ルートの遮断を狙ってフランス領インドシナ進駐(北部仏印進駐)を強行した。同時に軍の一部はドイツとの提携に活路を求め、日独伊三国同盟を締結した。これによってアメリカ・イギリスなどとの利害が直接的な対立が不可避となると、1941年4月には日ソ中立条約を締結して南進に備えた。

太平洋戦争への延焼

 1941年6月、独ソ戦が始まるという戦局の大転換があったが、日本軍は独ソ戦でのドイツの勝利を疑わず、アメリカ・イギリスとの開戦をも辞さない強硬姿勢を維持した。7月、日本軍は南部仏印進駐を実行し、一気に米英との対立が深まり、日米交渉も行き詰まった。1941年12月8日、東条英機内閣真珠湾攻撃を実行して太平洋戦争が勃発、これによってアメリカが参戦し、文字どおりの世界戦争に転化した。こうして日中戦争は、全アジア・太平洋地域を戦場とした全面的な戦争に拡大されることとなったが、日本の防衛ラインを守るには、アメリカ軍の海上戦力、航空戦力との差が歴然としており、次第に戦線を後退させざるを得なくなった。また同盟国イタリア、ドイツも相次いで敗れ、日本もサイパン陥落後は本土空襲と広島・長崎への原爆投下に晒されて無条件降伏に追いこまれることになった。

日中戦争の講和

 日中戦争は、太平洋戦争での日本の敗北を受け、1945年8月に戦闘行為は終わった。日本の無条件降伏を勧告したポツダム宣言には中国政府も署名していたから、日本がそれを無条件で受諾したことによって、日本は中国に敗北したこととなった。しかし、中国国内でただちに国共内戦(第2次)となったため、正式な講和はなされないまま経過した。そのため、多くの日本人在留者、在留孤児が発生してしまった。
 1949年10月に中華人民共和国が成立し、中華民国政府は台湾に逃れると、アジア情勢は大きく変化した。50年6月、朝鮮戦争が勃発するとアメリカは日本を完全に西側陣営に取り込むため、51年、サンフランシスコ講和会議を開催したが、その席には中華人民共和国、中華民国のいずれも招聘されず、日本と中国の講和(同じくソ連、朝鮮との講和)は棚上げとなった。中華民国とは1952年に日華平和条約を締結し講和が成立したが、大陸を制圧した中国共産党支配下の中華人民共和国とは長く国交回復の動きさえなく経緯した。
 ようやく、1970年代のアメリカと中国の国交回復を受けて日中間の交渉が始まり、1972年の日中国交正常化の合意成立によって日中共同声明が発表され、戦争状態の終結が宣言された。つまり、1931年の満州事変から数えれば、両国間の不幸な対立は交戦期間が15年、戦闘終了から講和まで27年、あわせて42年間であった、ということになる。
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ノートの参照
第15章4節 ウ.満州事変・日中戦争と中国の抵抗
書籍案内

古屋哲夫
『日中戦争』
1985 岩波新書

森山康平
『図説 日中戦争』
ふくろうの本
2017 河出書房新社