印刷 | 通常画面に戻る |

中立法

1935年、緊迫する欧州情勢に対して孤立主義をとるアメリカ議会が制定、交戦中の国への武器輸出などを禁止した。その後何度かの修正をしたが、第二次世界大戦勃発後も当初は参戦しなかった。1941年3月の武器貸与法が成立し、実質的に中立法を放棄した。

 中立法 Neutrality Act とは、1935年8月、アメリカ議会で時限立法として制定された法律で、大統領が戦争の存在を認めて宣言した場合、その交戦国への武器輸出と船舶による武器輸送を禁止した。アメリカの伝統的な孤立主義に立脚したもので、その後、36年2月、37年5月、39年11月の3回にわたる改正が行われ、第二次世界大戦中の1941年3月、武器貸与法まで続いた。
 これは、1930年代、ドイツ・イタリア・日本のファシズム国家が台頭し、ヴェルサイユ体制・ワシントン体制が崩壊するという事態を迎え、戦争の危機がせまっていたことをうけ、アメリカが戦争への不参加を表明しものであった。この法が成立した背景には、議会内の共和党などの孤立主義の主張が根強く、また国民の中にもナチス=ドイツと英仏の戦争に巻き込まれるべきではない、という意見が強かったためであった。フランクリン=ローズヴェルト大統領もこの時点では中立法の制定によってアメリカが戦争に参加しない道を支持した。

1930年代の危機

 1929年の世界恐慌を契機として、第一次世界大戦後の世界平和維持のための国際秩序であるヴェルサイユ体制(国際連盟を中心とした平和維持体制)とワシントン体制(アメリカを中心とした平和維持体制)は急速にゆらぎ始めた。1931年に満州事変を引き起こした日本は33年に国際連盟を脱退、同年ヒトラーが政権を握ったドイツもそれに続いた。1934年12月、日本はワシントン海軍軍備制限条約を破棄をアメリカに通告してワシントン体制は崩壊、35年にドイツがドイツの再軍備宣言してヴェルサイユ条約を破棄し、ムッソリーニのイタリアはエチオピア侵入の姿勢を強めた。こうしてヴェルサイユ条約の崩壊は現実のものとなった。
 このような世界情勢の中で、アメリカも対応が迫られたが、当時、アメリカ国内では日本、ドイツ、イタリアの軍事行動に強い懸念をもちながらも、大勢は戦争には巻き込まれるべきではないという孤立主義を支持する方が強かった。その背景には第一次世界大戦で多くのアメリカの青年が遠いヨーロッパで戦死したという事への悔恨の意識があった。

中立法の改定

 中立法制定後の1935年10月にムッソリーニのイタリアがエチオピア侵略を開始すると、アメリカはただちに中立法を発動し、イタリアへの武器輸出を禁止した。翌36年には中立法の改定・延長が審議され、賛否両論があったが、結局延長と決まり、1936年2月、第二次中立法で交戦国への信用貸付なども禁止することになった。しかし現実はさらに厳しいものになってゆき、5月にはイタリアがエチオピアを併合を宣言した。
スペイン内戦に適用 同1936年7月にはスペイン内戦が起こった。スペイン内戦は国家間の戦争ではないので、中立法の適用外であったが、ローズヴェルトは議会に中立法の適用を要請し、認められた。これによってスペイン共和政府への武器輸出が禁止され、反乱軍のフランコを利することとなった。この不干渉の姿勢はイギリス・フランスに同調したことと、ローマ教皇がフランコを支持したことによりアメリカ国内のカトリック教徒が政治的圧力をかけたことが一因だったと言われている。<長沼英世『世界の歴史26』中央公論社 p.429

日中戦争と中立法

 翌1937年5月に制定された第三次中立法では合衆国に脅威を与えるような内乱も対象とすることとともに、武器禁輸・信用貸付禁止に加えて、一般商品でも「キャッシュ・アンド・キャリー」つまり交戦国が現金払いで、自国の船を用いる形(現金自国船主義)でなければ輸出できないことになった。ところがその2ヶ月後の7月に盧溝橋事件、続いて第2次上海事変がおこり、日本の中国侵略が明確となった。この時、日本は事実上の中国との日中戦争に突入していたにもかかわらず宣戦布告を行わず、「戦争」ではない支那事変という「事変」であると強弁した。これは、戦争とされるとアメリカがこの中立法によって日本への武器輸出が出来なくなることを避けるためだった。当時日本軍は武器の供給のかなりの部分をアメリカからの輸入に依存していたのである。
中立法を適用せず しかし、アメリカは中立法を適用すれば中国に対しても武器輸出ができなくなるので、中立法を発動しないことにした。その一方で、中国への武器輸出は、いったんイギリスに輸出し、イギリス船に積み替えて香港に送ることにして事実上の武器輸出を行った。
(引用)アメリカも、交戦国に対して、武器、軍需物資等の輸出を禁ずる中立法を日中戦争に対して適用することを避けた。中立法を適用した場合、被害を受けるのは日本よりもむしろ中国であるというのが表面の理由であったが、対日貿易を途絶することは、アメリカ経済にとっても大きな打撃をもたらすことも秘められた理由であった。
 日本も宣戦布告を避けた。中国に対して宣戦を布告するならば、中立法は否応なしに発動されることになり、石油、綿花をはじめ、主要物資をアメリカに依存していた日本の経済が破綻すると予想されたからである。このために日中戦争は宣戦布告なき変態的な戦争として続く結果となった。<中村隆英『昭和史Ⅰ』1993 東洋経済新報社 p.224
ローズヴェルトの隔離演説 日本の中国侵略が激しくなってもアメリカは中立法の原則を崩さなかったが、フランクリン=ローズヴェルト大統領は戦争の腹を固めていった。1937年10月にシカゴで演説し、ドイツ・イタリア・日本を名指しを避けつつ、侵略という国際平和を脅かす感染症にたとえて隔離すべきであると主張した。これは「隔離演説」(または防疫演説)として反響を呼んだが、この時点ではアメリカ世論は依然として参戦反対、孤立主義が優勢だったので、ローズヴェルト演説には批判が多かった。
南京事件 それでも1937年12月、日本軍が南京を総攻撃している際に、日本海軍機が揚子江を航行中のアメリカ海軍の砲艦パネー号を爆撃するという事件がおこると日米間はにわかに緊張し、日本に対する非難がまき起こった。この時は日本政府が陳謝し、220万ドルの賠償金を支払って解決したが、南京における日本軍による南京虐殺事件も大きく報道され、アメリカの厳しい批判の目が向けられるようになった。

大戦勃発、中立法から武器貸与法へ

 1939年9月、ドイツ軍がポーランド侵攻を開始し第二次世界大戦が始まり、アジアでも日本が南進の動きを強めてくると、イギリスの要請もあってアメリカ議会は11月に第4次中立法を制定し、現金取引と自国船による輸送(キャッシュ・アンド・キャリー)を維持した上で交戦国への武器・軍需品の輸出禁止を撤廃した。これによって中立法は事実上廃棄され、孤立主義を大きく修正し、イギリス・フランスに対する武器輸出が行われるようになった。
 ローズヴェルトは三選を果たした後の1941年3月、武器貸与法を制定し、連合国に武器を貸与することとなる。

アメリカの参戦

 このようにローズヴェルトのアメリカは、中立法の改正とそれに続く武器貸与法で連合国への武器提供を開始、事実上の参戦した状態となったが、直接に軍を派遣する形での参戦ではなかった。本格的な参戦の機会を狙っていたローズヴェルトにとって1941年12月、日本軍がハワイの真珠湾を奇襲したことは、絶好の参戦の口実となり、国民に結束を呼びかける好機となったのだった。ローズヴェルト大統領は議会の承認を得て、日本・ドイツ・イタリアなど枢軸側に宣戦を布告し、第二次世界大戦に参戦した。それは連合国のイギリスだけでなく1941年6月独ソ戦が始まり、ドイツとの全面戦争に突入していたソ連にとってもアメリカの参戦は大きな戦力が加わったことを意味し、勝利への展望が開けることとなった。 → アメリカの外交政策

参考 日中戦争での日本・中国にとっての中立法

 1937年の盧溝橋事件以来の日本と中国の衝突は、日本が宣戦布告をしなかっただけでなく、中国側も同様であった。それには次のような説明がある。
(引用)日本も中国も宣戦布告を行わなかった。宣戦布告をするとアメリカ中立法の適用を受ける恐れが生じるためであった。中立法は、アメリカ自身を戦争から遠ざけておくための国内法として意味をもついっぽう、他方で、アメリカの物資と資金力の巨大さにより、周辺諸国の戦争勃発を抑止する力を持っていた。つまり中立法は、いっぽうではアメリカの孤立を保障し、他方では経済制裁と同様の働きをなしうる特殊な法だったと言えた。<加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』シリーズ日本近現代史⑤ 2007 岩波新書 p.232>
1937年の中立法改定 1937年5月に改定されたアメリカ中立法によれば、戦争状態にあると認められた国は
  1. アメリカからの兵器・弾薬・軍用機材の輸入が禁止される。
  2. 一般の物資・原材料についても輸入制限がなされ、これらは輸入を欲する当事国の責任で「現金・自国船輸送」でなされなければならない。
  3. 金融上の取引制限(交戦国の公債・有価証券・その他の債券証書の取引、交戦国への資金または信用を与えることは不法とされる)などの措置を受ける。
とされていた。日本は主として③を恐れ、中国は主として①と②を恐れたのであった。日本は37年11月、内閣第四委員会において宣戦の可否について議論し、陸海外三省の合意によって宣戦布告しないことに決した。ところが、宣戦布告をしないと、通常の交戦権の発動によって認められる権利の行使ができなくなる。つまり、軍事占領や賠償を適法に要求できないジレンマを負ったのであった。
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

長沼英世他
『世界の歴史26』
世界大戦と現代文明の開幕
1997初刊 2009中公文庫刊

中村隆英
『昭和史上』1929-45
1993初刊
2012 東洋経済新社


加藤陽子
『満州事変から日中戦争へ』
シリーズ日本近現代史⑤
2007 岩波新書