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支那事変

1937年7月7日、盧溝橋事件から始まった日中両軍の武力衝突は事実上の戦争の開始であったが、日本は宣戦布告をせず、支那事変と称した。次いで起こった上海事変も同様であり、日本と中国は全面戦争である日中戦争となった。

盧溝橋での日中軍事衝突

 1937年7月7日盧溝橋事件から始まった日本軍と中国軍の衝突により日本と中国(中華民国)は全面的な戦争状態に突入した。それ以前の1931年9月18日柳条湖事件をきっかけに起こった満州事変で日本の関東軍による軍事行動は始まっていたが、この盧溝橋事件での衝突で、事実上日中両国は交戦状態に入った。それでもなお日本政府は「事変」という名称に固執し、戦争ではないので、宣戦布告はしない、という姿勢を守った。

日中戦争の開始

 衝突の起こった7月段階では、交戦範囲は北京付近のみだったので、北支事変と言われたが、8月に上海でも武力衝突が起きる(第2次上海事変)と正式な名称として「支那事変」と命名された。一般では日華事変とも言われたが、正式名称である「支那事変」が広く用いられるようになった。
 「事変」は、国際法上の正式な「戦争」ではないという意味を込めているが、事実上の日中戦争の開始であった。

参考 なぜ「事変」とされたか

 盧溝橋事件から始まる日中の衝突は事実上の戦争であったが、日本は宣戦布告をせず、国際法上の戦争ではなく、自衛のためやむなく行った局地的軍事行動であるという意味で「支那事変」と称した。通常の戦争の開始を示す最後通牒や宣戦布告は行われていない。なぜ、「宣戦布告無き戦争」となったか、政府・軍の意図を総合すると次のような理由が考えられる。
不戦条約(1928年)に違反することで国際的に非難されることをさけるため(日本も調印していた)。
・アメリカの中立法(1935年制定)は、交戦中の国は武器を輸出しないことを定めていたので、正式な交戦中となるとアメリカから武器輸入が出来なくなること。(まだアメリカとは武器だけでなく大きな貿易相手国だった)
 また、当時の広田弘毅外相は、日本の軍事行動の目的は、「反日的な蔣介石政権、軍閥勢力を排除することであり、支那民族を敵として戦うことではない」と言う意味の声明を出した。しかし事実上の全面戦争として展開されていく。<北博昭『日中開戦』1994 中公新書>
国家総動員法との矛盾 日中戦争が長期化し、戦費の調達と軍備の補給に苦慮するようになった。前線の兵士の補充も不十分になったため、軍部は人的・物的資源の動員と経済統制を強化して戦費を確保する方策として国家総動員法の制定を進めた。1938年、同法を議会に上程しようとした際、現実に中国大陸では戦争状態にあったにもかかわらず、政府はそれを戦争とはせず、依然として「事変」としていたので、「戦時」でない段階で大規模な動員ができるのか、という反論が当然生まれることが想定された。それに対して近衛内閣は、法案の「戦時」とは「戦争に準ずべき事変の場合を含む」と言う文を入れて補足し、しかも進行中の支那事変には適用しないと約束して乗り切って成立にこぎ着け、1938年4月1日に公布された。しかしその約束は守られず、国家総動員法に基づく勅令として国民徴用令など、総動員体制が敷かれていった。

「事変」から「戦争」へ

 盧溝橋事件以降の戦闘行為は、事実上の全面的戦争であり、日本陸軍は短期決着を目指したものの、広大な範囲での中国側の抵抗によって長期化した。1938年1月には近衛文麿内閣が「国民政府を相手とせず」との声明を出し、戦争だけでなくその相手国も存在しないという認識を示した。
 日本は親日政府(汪兆銘政権)を樹立して収束を図ったが、重慶の国民政府蒋介石は援蔣ルートの支援を受けて抵抗を続けたため、戦闘はさらに長引き、日本の軍事支配は点と線をむすぶのみとなって泥沼化した。陸軍には伝統的にソ連を仮想敵国とする勢力が主流だったが、1939年5月ノモンハン事件で敗北を喫したことから、資源確保のために東南アジア方面への進出を目指す南進論が強まった。そのような中、1939年9月にドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まると、軍部はドイツ・イタリアと結んで三国同盟の締結を急いだ。それは英米との対立をもたらすこととなり、日本は1941年12月8日に真珠湾攻撃に踏みきった。
さかのぼって開戦とする 日本はこのときアメリカ・イギリスなどにはじめて宣戦布告し、太平洋戦争が開始された。それによって、1941年12月12日に東条内閣は盧溝橋事件以降の戦争を「大東亜戦争」とすると閣議決定を行った。こうして日華事変は事後に「大東亜戦争」と正式に命名されたが、敗北に終わり、戦後は連合国の占領下で「大東亜戦争」の呼称は禁止され、中国での戦争は日中戦争、アメリカ等との戦争は太平洋戦争といわれるようになった。 → 第二次世界大戦

参考 「支那」ということば

 支那とはチャイナの日本語表記で、戦前の日本では中国を示す語として一般に用いられていた。本来は「支那」という言葉はチャイナ China からくる古い言葉で、けして蔑称ではなかったが、日中戦争中に日本が「支那事変」といったり、「暴戻なる支那を膺懲する」などと使い、一般人にも戦争中に支那、支那人を蔑称として使い、そう意識されるるようになった。そのため、戦後の日本では意識してこの言葉を使わず、「中国」というようになった。歴史用語としても「中国」は歴代王朝と「中華民国」「中華人民共和国」の通称として最も妥当な表記である。
 最近、意図的に中国を「支那」や「シナ」と言う人たちがいるが、それが戦争中に日本が相手を蔑視して使っていたことを知っていれば、当時の歴史的名辞として用いる場合を除き、安易に用いるべき言葉でないことがわかるであろう。
戦前の日本政府  戦前の日本政府でも、浜口雄幸内閣(幣原喜重郎外相)は「支那」の呼称をやめ、「中華民国」とすることを閣議決定している。1928年、蔣介石の国民革命軍の北伐から日本人居留民を保護する名目で山東出兵したとき、日中両軍が衝突して起こった済南事件の戦後処理の交渉が難航し、ようやく29年3月に和平が成立して日本が国民政府を認めることとなった。国民政府が諸外国に求めていた関税自主権の回復はアメリカなどが次々と認めていたが、日本は済南事件の処理のために交渉できず、遅れて1930年5月に新関税協定を締結し関税自主権の回復を承認した。このとき日本政府は従来の「支那」の呼称に中国側が反発していることに配慮して正式呼称を「中華民国」に切り替えた。
(引用)日本の外務省は1930年6月に、公文書における「支那」の呼称に関する調査を作成、その後、日中間だけでなく、日本と第三国、あるいは日本国内の公文書についても「中華民国」を使用するむねを方針として示し、この方針が10月末の浜口雄幸内閣(幣原外相)の閣議決定となったのであった。中華民国が成立して19年目のことである。<石川禎浩『革命とナショナリズム』シリーズ中国近現代史③ 2010 岩波新書 p.56>
 これで政府公文書で「支那」がすべて改められたわけではなかった。この閣議決定のあった翌年の1931年9月に満州事変が勃発、日本では中国への侮蔑意識とともにその呼称は残り続け、1937年に勃発した中国との事実上の戦争を「支那事変」と「公称」することになったのだった。