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大躍進

中国の毛沢東主導により、1958年からの第2次五カ年計画の中で掲げられた鉄鋼、農作物の大増産運動。ソ連に依存しない重工業化と人民公社建設をめざした。しかし独自方式による鉄鋼生産の失敗、集団化が強行による生産力の低下などによって失敗し、毛沢東に対する批判も起こった。毛沢東は批判を社会主義路線に対する否定ととらえ、反撃を目指すこととなった。

人民公社・大躍進

大躍進運動 1958
人民公社万歳、大躍進の大プラカード

 1958年5月、中華人民共和国において、毛沢東の指導する中国共産党が打ち出した「社会主義建設の総路線」のことで、第2次五ヶ年計画にあたる。それはソ連型の社会主義建設ではなく、中国独自の方法として工業では西洋技術と「土法」(伝統技術)を併用することと、農業では集団化を進めた人民公社を建設することを掲げた。工業では鉄鋼業生産が特徴的であったが、品質は軽視され、もっぱら増産のみが強調された。
 鉄鋼の生産を工場ではなく農村に粘土で釜を築いて鉄を溶かして鋼鉄を造るという「土法高炉」が用いられた。これは西洋技法と伝統技法を融合させたものだと言うが、実際には粗悪な鉄鋼しか造ることが出来ず実用にはならなかったばかりか、燃料の石炭を大量に使ったために本来の工場での燃料が不足して生産が停滞するという逆効果をもたらした。 → 第2次五ヶ年計画
 人民公社は農村を集団化し、土地・農具・家畜を公有として、生産は労働に応じて分配するという、共産社会の理想を現実化するもので、上からの号令で急速に普及したが、次第に農民の生産意欲の減退が表面化して生産量が落ちこみ、途中から生産請負制を一部導入するなどの修正を余儀なくされていった。

国際関係の悪化、中ソ対立

 「大躍進」運動の背景となった中国をめぐる国際関係も悪化していた。1958年の金門・馬祖砲撃(台湾海峡危機)でアメリカとの緊張関係がましたが、平和共存路線をとるソ連(フルシチョフ政権)は中国への核兵器と軍事援助を断り、相互の不信感が増大した。また1959年のチベット反乱を契機に起こった中印国境紛争でもソ連はインド支持を表明した。ソ連は中ソ技術協定破棄に踏み切り、1960年には中ソ対立は決定的になった。このようなソ連との関係悪化の中で中国共産党が独自の工業化、食糧増産を実現しようとしたことが「大躍進」運動の背景であった。

「大躍進」運動の失敗

 毛沢東の提唱した大躍進は至上命題とされたため、地方幹部の中には、上から与えられた現実離れした生産目標を完成させるために、さまざまな不正を行うものも多くなった。大げさな目標を立て、実際とかけ離れた数値が艤装されて成果とされた。また人民公社という理想の共産社会は実際には個々の農民の労働意欲を奪うものであったので、生産効率は悪化していった。「大躍進」の失敗は次第に明らかになり、1958年11月には毛沢東自身もそれに気付き、「共産風の大げさな傾向は是正しなければならない」とまで発言した。毛沢東と中国共産党幹部はその失敗の理由を政策そのものの誤りではなく、自然災害と重なったことと国際関係の悪化など専ら外的要因に求める傾向があった。文化大革命後の中国共産党は、この大躍進運動を建国以来初めての深刻な誤りであり、客観的な規則と状況をかえりみない盲目的な指導の誤りが露呈したものとして総括している。

廬山会議

 毛沢東は急速な人民公社化の行き過ぎを認め、1959年4月の第2期全人代第1回会議では国家主席を劉少奇と交代した。ただし、党主席には座り続け、次第に権力奪回の機会をうかがうことになる。1959年7月に開催された中国共産党の首脳会議である廬山会議では、古くからの幹部の一人で国防部長であった彭徳懐が大躍進の失敗を批判し、毛沢東の誤りを指摘した。毛沢東は激怒して彭徳懐を国防部長から解任し、かわりに林彪が任命された。

大飢饉の発生

 1959年から61年にかけて、中国全土は異常な食糧難に陥った。1959年の食糧生産は1億7千万トン、60・61年には1億4千万トン台となり、1951年の水準まで下がったが、この間人口は51年より約1億人増加していた。食糧不足とともに大躍進での過労や栄養不足のため、特に生産力の低い地域で多くの餓死者が出た。1982年の国勢調査をもとにした推定では、その死者数は1600万から2700万であろうという。これについては次のようなまとめがある。
(引用)まだ生産力の基盤が弱い中国の現実の諸条件を無視した大躍進の諸政策、とくに重工業優先政策と、農村における「共産風」や、幹部の押しつけへの抵抗として生じた農民の生産意欲の減退という人災を基本として、これに59年から61年までつづいた自然災害(華北の旱害と華中・華南の水害)、ならびにソ連の援助打ち切りが重なって生じたものである。<小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』1986 岩波新書 p.228>
 1960年前後の北京で少年時代を送り、1966年の文化大革命で紅衛兵の先頭に立つことになった張承志の回想がある。
(引用)1960年前後、中国は全国にわたって三年に及ぶ恐るべき飢饉に見舞われた。飢饉は、首都北京にも容赦なく襲いかかった。学校では体育の時間が無くなり、授業も最低限まで圧縮された。人々はみな、肉のようでもあり、凍ったあとでとけて柔らかくなった果物のようでもある代用食を食べた。私が通っていた北京第61中学では、友達が持ってくる弁当でいちばん贅沢なのが煮た大豆だった。どの家でも簡単な秤を造り、一人分ずつの主食を計ってそれぞれが別に煮て食べた。おとなは自分の分をへずって子どもたちに少しでも多く食べさせようとした。母は、栄養失調でからだ中にむくみが出た。……<張承志『紅衛兵の時代』1992 岩波新書 p.6>

調整政策

 1960年冬、中国共産党は大躍進運動の停止を決定、それ以降は国家主席劉少奇と、それに協力した鄧小平によって、「大躍進」による経済の混乱、生産力の低下を是正するための調整政策に転じ、重工業の発展テンポを押さえ、農業と軽工業生産の回復をはかることとなった。1961年には農民の生産意欲を高めるため、農民の家内副業を認め生産物の自由市場での販売を認めた。1962年1月~2月の中国共産党中央拡大工作会議(七千人大会といわれる)では、毛沢東は公式に大躍進の失敗を認め、劉少奇・鄧小平による調整政策が承認された。それは人民公社ではなく自然村落規模を基礎とする生産隊に土地所有権、家畜と農具の所有権を帰属させて集団生産の基本単位とするなどの改正を行ったもので、これらの施策によって農村経済は回復に向かい、64年には国民経済全般が回復基調に転じた。

党内対立の激化

 1962年1月~2月の中央拡大工作会議で行われた大躍進運動の総括において、劉少奇は党中央を代表して運動の失敗の原因として、一つは自然災害をあげたが「非常に大きな程度において」、党の政策の誤りと党中央の指導に責任があるという報告を行った。鄧小平、周恩来などの幹部もそれを認めたが、毛沢東は責任は最高指導者である自分にあると自己批判しながら、この失敗を理由に農業の集団化をやめるのは社会主義建設という党の掲げる大目標に反すると考えた。こうして大躍進の評価をめぐって、毛沢東と劉少奇、鄧小平らの間に大きな食い違いがあることが明確になっていった。国防部長として登用された林彪は、「毛主席の思想はすべて正確である」から、大躍進が成果を上げなかったのは「毛主席の指示どおりに事を運ばず、その意見が尊重されず、あるいははなはだしく妨害されたからだ」と主張した。<小島・丸山『前掲書』 p.238>
 このように大躍進の失敗によって生じた経済をどう建て直すか、また国家の基本路線をどこにおくか、をめぐって1960年代は毛沢東路線と劉少奇路線が暗闘を続け、その後半から毛沢東が一気に攻勢に転じたのがプロレタリア文化大革命であった。
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小島晋治・丸山松幸
『中国近現代史』
1986 岩波新書