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平和五原則

1954年、周恩来とネルーの間で合意された国際関係上の遵守すべき5原則。「領土保全及び主権の相互不干渉・相互不侵略・内政不干渉・平等互恵・平和的共存」の5項目で、冷戦下の米ソ対立の中での第三世界諸国の存立の基本とされた理念であった。現在の中国も外交の基本原則として掲げている。

 1954年4月29日、チベット問題で協議した中国の周恩来とインドのネルーの間で、両国関係の5原則が合意された。インドでは「パンチャシラ(パンチャが5、シラが原則の意味。インドネシアの建国五原則もパンチャシラという。)」という。具体的には1954年4月のインドと中国の中印協定の前文として示された。
 その内容は、領土保全及び主権の相互不干渉・相互不侵略・内政不干渉・平等互恵・平和的共存の五原則であり、現代の国家間で広く認められることとなる。

平和十原則へ

 周恩来とネルーは、中国・インド両国だけではなく、冷戦下の世界に広く適用されるべき原則とするため、1955年4月6日にニューデリーでアジア諸国民会議を開催、共同声明として発表した。
 翌1955年4月18日にはインドネシアのバンドンで第1回アジア・アフリカ会議が開催され、この五原則をふまえた、「平和十原則」が策定された。

平和五原則は守られたか

 1954年に成立した平和五原則は第二次世界大戦後の国際政治のあり方の新しい原則として広く知られ、またその意義は大きいものがある。中国は今でも公式には平和五原則を掲げている。しかしインドと中国の実際の関係はどうなったかというと、早くも1957年ごろからヒマラヤ山中の両国国境をめぐって対立が始まり、1959年にチベットの反乱が勃発してダライ=ラマ14世がインドに亡命したことから対立は決定的となりって、1962年10月に中印国境紛争という戦争状態に入ってしまった。ネルーはこのとき、アメリカの支援を要請したので、非同盟主義の旗印も色あせてしまった。
 1956年、ソ連共産党のフルシチョフ書記長がスターリン批判を行い、平和共存に転じたことに対して、毛沢東はアメリカ帝国主義との敵対関係は継続しているという立場から強く反発し、中ソ対立が始まったことも、中国の国際的孤立の傾向を強める要因となった。その後、毛沢東は独自の社会主義建設路線の堅持を掲げてプロレタリア文化大革命を開始することとなる。

米中関係転換

 文化大革命が続く中、1970年代に米中関係の改善が始まるという画期的な転換がなされた。1972年2月ニクソン大統領が中国を訪問し、米中共同宣言(上海コミュニケ)をまとめたが、その第1項で米中両国は「平和共存五原則」にもとづいで二国間問題を処理すると明言された。その前年に国連の中国代表権が承認され、国際社会に中華人民講和国として登場することとなり、国際的孤立という状況は大きく変化した。

「平和共存五原則」の維持

 文化大革命が終了し、中ソ関係にも改善の兆しが見え始めた1980年代初頭からは、中国は外交の基本路線を「平和共存五原則」と「独立自主路線」におくと表明するようになった。その後、鄧小平政権のもとで改革・開放政策路線が積極的に推し進められ、1990年代には中国は経済大国としてアメリカと対抗するようになると、米中関係は次第に緊張したものとなり、両国は表面的には友好関係を保っているものの、貿易摩擦だけで亡く軍事面でもにらみ合う局面となっている。周辺諸国、国際社会からは大国化した中国の覇権主義が警戒されているが、中国は現在も公式には覇権主義に反対を掲げ、外交の原則は「平和共存五原則」である、と言い続けている。
 今後も、かつての中国の指導者周恩来が提唱した「平和五原則」を継承した「平和共存五原則」を中国自身が放棄することのないよう注視していく必要がある。 → 中華人民共和国(6)
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