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四つの現代化

文化大革命後、中華人民共和国がめざした、農業・工業・国防・科学技術での現代化路線。60年代、周恩来は早くから提唱していたが、文化大革命で中断され、その末期の1975年に明確に提案した。1977年に復活した鄧小平のもとで具体化が図られ、78年には「改革開放」政策が始まった。それにともない政治の民主化を求める声も上がったが、鄧小平は「四つの基本原則」で共産党一党独裁の堅持など強調し、民主化運動に対しては厳しく弾圧した。

初め周恩来が提唱

 農業・工業・国防・科学技術の4部門での中華人民共和国の近代化(さらに現代化)をはかること。「四つの近代化」ともいう。「四つの近代化(現代化)」は初めは周恩来が1964年に提起していたが、毛沢東主導の文化大革命の嵐の前に吹き飛ばされた形で消滅した。

周恩来の提唱

 林彪事件で毛沢東の権威が揺らいだ後、周恩来は日本、西ドイツなどの西側諸国との関係正常化を進め、文化大革命で停滞した経済、文化、教育、科学技術の立て直しをの必要を意識し、1973年に文化大革命で失脚していた鄧小平を復権させ、1975年1月に全人代を開催、「政府報告」を行って、その中で「今世紀内に農業、工業、国防、科学技術の全面的な現代化を実現し、わが国の国民経済を世界の前列に立たせる」とのいわゆる「四つの現代化」の提唱を行った。

第1次天安門事件で挫折

 「文化大革命」の継続を主張する江青など四人組は、この近代化路線を資本主義への転換、後退であると激しく抵抗した。周恩来死去を契機に翌1976年4月5日に北京の民衆が反四人組を掲げて騒乱が起き、天安門事件(第1次)となった。このときも民衆の反政府活動を警戒した毛沢東によって鄧小平が再び解任され、現代化路線はいったん挫折した。

華国鋒から鄧小平へ

 1976年9月9日毛沢東が死去すると、文化大革命に対する不満が表面化し、毛沢東の後継者となった華国鋒によって四人組は解任されて、77年に再び「四つの現代化」の実行が掲げられた。それにともなって再び復権した鄧小平は、華国鋒に代わって1981年に実権を握り、改革開放路線を明確に歩み出した。こうして、1980年代以降の中国は資本主義経済に転換するという大転換を遂げ、90年代以降の経済急成長を出現させることとなる。

改革開放のゆがみ

 しかし、鄧小平の「四つの現代化」は、あくまで生産性を向上させ、経済を活性化させるためのものであり、政治活動の自由化と基本的人権を全面的には認めたものではなく、共産党一党支配は堅持されるという条件下においての、上からの改革であった。鄧小平の改革開放路線が進むことによって、都市には一定の富裕層が出現、都市住民の間には政治的自由を求める声も強くなっていく。さらに、強引な資本主義化は様々ひずみを生み、貧富の差、都市と農村の格差など現在の中国社会のもつ深刻が問題が後に浮かび上がってくることとなる。<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書 などによる>

残された“政治の近代化”

北京の春 「四つの現代化」(近代化)で触れられていない、政治の近代化は依然として実現していない。1977年、文化大革命の終了が宣言されると、文革中に迫害されたり、誤った理由で罪人とされた多くの人の名誉回復の措置がとられた。同時に、人々の間に政治の民主化や、結社・言論・集会などの基本的な人権の承認、広い意味での自由化が進むものと期待され、北京の西単という交差点の壁には無数の壁新聞が出現した。市民はその前で民主化や自由化について熱く語り出した。それは1968年のチェコスロヴァキアでのプラハの春になぞらえて「北京の春」と言われた。その壁新聞の一つには「第五の現代化」として、政治の現代化、つまり議会制民主主義の実現、共産党一党独裁ではなく政党政治などを求めるものもあった。しかし、市民の要求が具体的な政治変革への要求になると当局は弾圧に転じ、その壁新聞を書いた魏京生という青年は逮捕され、「北京の春」も間もなく退潮していった。
四つの基本原則 鄧小平は「北京の春」の民主化運動を実力で抑えつけた後、1979年3月、党中央小作会議で「四つの基本原則」を提唱した。それは社会主義、共産党の指導、プロレタリア独裁、マルクス=レーニン主義・毛沢東思想をゆるがせないの四つの原則として堅持する事を党員に求めたものであった。この表明によって、最高実力者鄧小平として、共産党一党独裁体制を維持しながら、資本主義経済を目指すという姿勢を明らかにしたのだった。 第2次天安門事件 経済の自由化が急激に始まった1980年代になると、知識人・学生は共産党一党独裁の見直し、複数政党制、政治的言論の自由などを再び強く求めるようになった。しかし、1987年、胡耀邦総書記は、実力者鄧小平によって、「民主化要求に対して軟弱な姿勢をとった」ことを理由に解任され、民主化の望みは一挙に暗くなった。その怒りは1989年の胡耀邦の死去を悼む学生・大衆の集会が騒乱化し、天安門事件(第2次)となった。鄧小平政権はその動きを動乱と規定して、戒厳令を布き、軍隊で鎮圧するという弾圧を行い、政治の近代化は遠のいた。
 その後、江沢民、胡錦濤、習近平と続く中国共産党指導部は、中国を経済大国に成長させることに成功し、同時に軍事大国としても近隣諸国に脅威となる存在となった。経済と国防と科学技術の近代化は“見事に”達成された観がある。しかし、政治活動や言論などの基本的人権を保障する政治の近代化は依然として抑えつけられ、まったく遅れてしまっている(中国共産党はこれが進んだ形態なのだというのだろうが)。経済の自由化と政治活動の抑圧という、矛盾しているとしか思えない国家運営を中国共産党政権がアクロバティックで無理な体勢で、どうやっていくのだろうか。また、もし中国で政治の民主化が進むとしたら、どのように行われていくのだろうか。これからの世界史の動向に大きく関わることであろう。
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