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香港/香港島の割譲/香港占領

アヘン戦争の講和条約である1842年の南京条約によって、清がイギリスに香港島を割譲。その後九竜半島も加えられる。第二次世界大戦中、一時日本が軍政支配、戦後、経済を発展させた。1997年に中国に返還され50年間は一国二制度の原則が維持されているが、2010年代から民主化運動が活発化、中国の締めつけも強まっている。

 現在の香港は香港島とその対岸の九竜半島を中心に、その周辺の島々を含む一帯であるが、イギリスが1842年に清朝から割譲されたのは香港島のみであった。それ以後、イギリスはその対岸九竜半島南部を1860年に割譲させて獲得した。さらに1898年、九竜半島の北部を「新界」として99年間の租借地として獲得した。イギリスはこれらを香港としてまとめて植民地経営を進め、第二次世界大戦中に一時期日本軍が占領した後に支配を復活させた。当初は小さな漁村に過ぎなかったが。150年間の支配を続ける間に、世界有数の中継貿易港として繁栄するようになった。新界の租借期限が終わる1997年が近づいた1984年、中国とイギリスの交渉の結果、同年に主権を中国に返還し、50年の間は一国二制度の原則で統治することが認められた。香港返還は実現したが、2000年代に入り、一国二制度に対する中国側の攻勢が強まり、香港市民が反発し、問題が表面化している。

香港島の割譲

 アヘン戦争の講和条約として1842年に締結された南京条約で香港島がイギリスに割譲されイギリスの直轄植民地となった。

九竜半島南部の割譲

 第2次アヘン戦争とも言われるアロー戦争では、清朝はイギリス・フランス連合軍に敗れ、1860年北京条約では対岸の九竜半島の南端部がイギリスに割譲された。イギリス占領直後から都市建設が始まり、アヘン貿易と中継貿易の基地として繁栄していく。

九竜半島北部の租借

 帝国主義段階にいたり、中国分割が進む中で、1898年6月9日、まだイギリス領となっていなかった九竜半島(新界)とその周辺の島嶼をイギリスが99年間租借することとなり、さらに発展し「新界」が形成された。これで香港島と九竜半島全域からなる現在の香港全域がイギリスの支配下に入った。九竜半島北部の99年間の租借が終わる1997年に、香港全土が中国に返還されることとなる。

植民地香港の繁栄と苦悩

 イギリス植民地としての香港はイギリス資本主義のアジア進出の拠点とされ、中国産の商品を欧米に輸出し、欧米の商品を中国市場に販売する大貿易港として発展した。さらに、東南アジア地域の物品が集積され、欧米にもたらされるという中継貿易地となり、同時にイギリス系銀行による金融が盛んになった。
 香港を外国貿易港として繁栄させたのは、中国人の海員・港湾労働者の安価な労働力であった。彼らはしばしばイギリスの海運業・貿易業者に対して労働条件の改善を要求したが、彼らを労働組合に組織し、ストライキに立ち上がらせたのは、1921年に結成された中国共産党であり、香港や広州の労働者がその活動基盤となった。1922年1月、海員の労働組合である中華海員連合会は労働条件改善と賃上げを要求してストライキに入り、そのため香港の港湾機能はマヒし、イギリス資本は打撃を受けた。イギリスは軍隊を上陸させて労働者に銃を向け、犠牲者が出たが、労働組合は屈せずにストを続け、8週間目にイギリスが要求を呑んで収束した。イギリス植民地支配に対する最初の抵抗運動でもあった。
1925年 省港スト 1925年5月、上海でイギリスの租界警備隊による中国人労働者に対する虐殺事件をきっかけに五・三〇運動が始まると、1925年6月には広州に飛び火し、イギリス・フランスの租界守備隊がデモ隊に発砲して52名の労働者が殺害された。香港の労働者もストライキに起ち上がった。国共合作下の広東軍政府は労働者糾察隊を組織して香港を経済封鎖した。省港ストといわれたこのストライキは、1926年10月まで16ヶ月にわたって続けられ、「東洋の真珠」といわれた香港は、「臭港」、「死港」と化すという事態となった。
 この上海に始まった五・三〇運動での広州・香港の省港ストは、帝国主義諸国の中国支配に対して、中国民衆が初めて示した本格的な抵抗運動であり、イギリスは大きく動揺した。外国資本とそれと結びつく中国の民族資本はその後、中国のナショナリズムと共産主義の結びつきを抑えるため、国民党内の右派に働きかけ、1927年に蔣介石による1927年の上海クーデタが実行されることになる。

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香港(2) 日本の占領とイギリス支配の復活

日本軍の香港占領

 日本は満州事変で中国への進出を開始し、1937年には日中戦争に踏み切り、中国各地に占領範囲を拡大していった。中国南部の香港はイギリス植民地であったので、攻撃を免れていたが、1941年12月8日、真珠湾攻撃から始まった太平洋戦争において、日本はイギリスに対しても宣戦布告を行い、12月25日に占領した。それ以後、香港は3年5ヶ月にわたり日本の軍政下に置かれた。

イギリス支配の復活

 1945年、日本の敗戦により日本軍は撤退、再びイギリス領にもどりイギリスは香港の「回収」に着手した。それに対して中国国民党政府はイギリスに対し、香港返還を要求したが、イギリスは応じなかった。中国本土で国共内戦が激化すると、本土から多くの中国人が共産党政権を嫌って香港に移住したが、中でも上海で綿業を営む資本家が資本と技術を持って香港に移住し、香港経済の成長の原動力の一つとなった。
 1949年10月、中華人民共和国が成立すると、その直後の50年1月、イギリス政府(アトリー労働党内閣)はいち早く共産党政権を承認し、アメリカなどととの違いを際立たせた。それに対して中華人民共和国側も、軍事力による香港回収を回避し、香港の現状を維持して、西側陣営との貿易や人的交流の窓口とする外交戦略を採用した。朝鮮戦争に伴ってアメリカは中国に対する経済制裁を実施したが、香港はそれにもかかわらず、冷戦体制下で中国本土と西側諸国の結節点として存続することとなった。<秋田茂『イギリス帝国の歴史━アジアから考える』2012 中公新書 p.250>
 中国がイギリス植民地であった香港を解放するチャンスは、日本軍の撤退の時か、国共内戦の終結時であった。特に国共内戦で勝者となった中国共産党にもその大義名分と実効力はあったと思われるが、なぜ香港は解放されなかったのか。そこには植民地支配を継続するために中華人民共和国をいち早く承認したイギリスと、香港の経済力を温存し、西側との窓口にしようとした中国共産党の思惑があったと考えられる。したたかな外交戦略であるが、その後の香港問題の始まりがここにあったとも言える。また日本のアジア進出はアジアの植民地を解放するためであったという言説を今でも見ることがあるが、香港がそうならなかったことは、その言説が誤っていることを示している。

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香港(3) 経済発展と中国への主権返還

戦後の経済発展

 その後、香港はシンガポールと並んでイギリス植民地としての遺産を引き継ぎ(ただしシンガポールは1963年にマレーシアの一部として独立)、金融・運輸・保険・情報その他のサービス産業での基盤を有し、英語が通用したことで他の東アジア諸地域に比べて世界経済での優位性があった。その香港は、1950年代から工業化を開始した。上海などから移住してきた綿工業経営者は、香港の銀行の融資を得て新界に工場を建て、広東から難民として移住してきた中国人の安価な労働力を用い、朝鮮戦争でアメリカとの貿易ができなくなった中国に向けて綿織物を大量に生産し、利益を上げていった。
植民地のままでの工業化 香港はイギリス植民地でありながら独自に工業化をすすめた。他のイギリス植民地であった地域は、独立することによって工業化を遂げたが、香港は例外であった。それがなぜ可能であったか、また中国が香港の工業化をどう捉えていたのか、について次のような指摘がある。
(引用)1949年以来、香港の政治的安定はイギリスと中国との暗黙の了解の上になりたってきた。イギリスならびに香港政庁は、中国政府を刺激する行動を慎重に避けてきた。そうしなければ、香港は中国の軍事力によって侵略されていたにちがいない。中国は1997年までは香港の独立権を認めており、また1984年には返還後50年間にわたり香港の資本主義制度と自治を保証することを決定した。香港は、外貨を獲得し、技術を導入し、国際ビジネスに関する情報を入手したいと願う中国にとってきわめて重要な場所であることをしてきた。香港工業化の成功は、中国にとって香港の価値を大きく高めたのである。<エズラ=ヴォーゲル/渡辺利夫訳『アジア四小龍』1993 中公新書 p.98-99>
 また香港は自由主義経済の成功事例とされることが多いが、実際には香港政庁の官僚による工業化計画・国内産業促進政策が大きな役割を担い、それに成功したとも指摘されている。背景には他のイギリス植民地が消滅したため、そこから有能な植民地官僚が香港にあつまったことが上げられる。また華人(中国人)社会にも国境の向こう側の中国社会と格差が広がるにつれ、香港政庁に対する支持が強くなっていった。香港政庁はそれに応えて、公共住宅の建設、義務教育の拡充や科学技術大学の設立などをすすめるとともに、腐敗防止に努めた。それらは香港政庁の成功と見ることができる。
NIEs こうして香港はアジアの金融や貿易の中心の一つとして繁栄し、1980年代には急成長を遂げた、大韓民国(韓国)・台湾・シンガポールとともに新興工業経済地域(NIEs、Newly Industrializing Economies)の一つに数えられるようになった。初めは新興工業経済国(NICs、Newly Industrializing Countries)と言われていたが、香港・台湾は国際的な独立国家とは承認されていないので、1988年からNIEsと言う言い方が用いられるようになった。

香港の返還

 その間、中国本土の中華人民共和国は文化大革命の混乱がようやく収まり、鄧小平政権のもとで改革開放政策がとられ、同時に東西対立の冷却化もすすんだため、サッチャー政権化のイギリスと中国間の交渉が行開始された。香港島と九竜地区はイギリスが領有権を譲渡されていたので変換の義務はなかったが、新界地区は99年間の租借とされていたので、その返還期限である1997年が迫ったためでもあった。
 1984年に開始された交渉では、イギリスは当初、返還期限を延長し、主権返還を先送りすることを要求したが、中国側は強硬に反発、妥協点として鄧小平は「一国二制度」による1997年の一括返還を提示した。一国二制度はすでに鄧小平が台湾統合に向けて提示してたもので、具体的な提案としてイギリス側も応じざるを得なくなった。その結果、九竜半島北部の租借期限の切れる1997年に、香港島・九竜地区も含め、全面返還することを約する香港返還協定が成立した。すでに一体化していた三つの地域を植民地香港として一括して対象とすることが現実的であると判断されたのだった。
一国二制度による返還 予定通り、1997年7月1日に中国に香港返還が実現した。それによって返還後50年間は資本主義体制を維持し、中国の社会主義と併存させる一国家二体制がとられることになった。
 しかし、一国二制度の運営には種々の困難が伴い、21世紀に入りって、香港の若者世代を中心とした民主化要求が強まった。中国は分離独立の動きを警戒して締め付けを厳しくし、香港内部にも独立を指向する勢力と中国への帰属を維持する派の対立が深刻になっている。 → 香港民主化運動

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書籍案内

秋田茂
『イギリス帝国の歴史―アジアから考える 』
2012 中公新書

エズラ・フォーゲル
渡辺利夫訳
『アジア四小龍―いかにして今日を築いたか 』
1993 中公新書

倉田徹・張彧暋
『香港―中国と向き合う自由都市 』
2015 岩波新書