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スハルト

1965年、インドネシア軍を指揮して左派クーデタを鎮圧し、スカルノに代わって実権を握り大統領となる。1967年には東南アジア諸国連合(ASEAN)結成を主導した。60年代後半~90年代に開発独裁政策を展開、経済成長を実現したが、長期政権による政治の腐敗を招き、1998年に退陣した。

 インドネシアの第2代大統領(1968~1998)。30年にわたり大統領にとどまり、一貫して「開発」を掲げて独裁政治を展開した、典型的な開発独裁の一例。ジャワの中農の家に生まれ軍人となり、独立戦争に参加し功績を挙げる。独立後も昇進を重ね軍を掌握する。  インドネシアの独立を主導したスカルノ大統領が、インドネシア共産党の協力をバックにナサコム体制を作り上げると、軍内部には共産党勢力の台頭を喜ばない勢力が台頭した。こうしてインドシナ国郡の中に、スカルノ支持=左派と反スカルノ=右派の対立が生じるようになり、その右派のなかで国防相スハルトが次第に力をつけてきた。

九・三〇事件

 1965年9月30日、突如、軍左派の軍人が反スカルノ派を排除するとして右派の軍人6名を殺害するという九・三〇事件が起きると、スハルトはすばやく軍を掌握してこのクーデタ未遂事件を鎮圧すると、クーデタ未遂の背後にはインドネシア共産党が関与しているとしてその排除をスカルノに強く迫った。それまでも共産党の支持を基盤としていたスカルノはそれを拒否したが、軍の大勢はスハルトについたため次第に孤立していった。

権力掌握と共産党員の虐殺

 徐々にスカルノ大統領から権限を奪っていったスハルトは1966年3月11日にクーデタでスカルノ大統領に権限移譲を迫り、それを認めさせた。このとき、「3月11日命令書」(スプル=スマル)という秩序回復のための一切の権限を与えられ、共産党を非合法化し、実質的な権力を獲得した。この時点ではスカルノはまだ名目的な大統領であったが、その実質的権限はすべて奪われてしまった。権力を掌握したスハルトは、狙いであったインドネシア共産党を撲滅することに踏みきり、そのためインドネシア全土で共産党員、その協力者が次々と逮捕され、裁判なしに処刑されるという大虐殺が始まった。

インドネシア大統領に

 翌1967年3月12日にはスカルノの大統領職は解かれて、スハルトが大統領代行に就任、ついで1968年3月27日、スハルトは第5回暫定国民協議会で第2代大統領に任命された。国民協議会とはインドネシア各会の職能代表が参加するもので、議員は国民が選挙で選んだ者ではないので、スハルトは直接国民から選出された大統領ではなかった。

開発独裁

 スハルト大統領は「新秩序」と「開発の時代」を掲げ、外国資本の積極的な導入による石油資源の開発をはじめとする開発優先の政策を展開し、強大な陸軍の指示を背景に独裁体制を築いた。それまでのインドネシア建国の理念は「多様性のなかの統一」と、より国家統合を強めたパンチャシラ(建国五原則)があったが、スハルトの時代は後者が強調されるようになった。

ASEANの結成

 またスハルトは、スカルノの反マレーシア政策を改め、1967年8月8日東南アジア諸国連合(ASEAN)の結成に動き、反共主義を掲げてベトナム戦争での共産党勢力の南下を阻止するアメリカの国際戦略を支援した。1975年には東ティモールを武力併合した。

政治腐敗

 この間、インドネシア経済は急速に発展したが、その反面、貧富の差は拡大し、人権は抑圧され、政治・社会の矛盾が深化した。形式的には憲法に基づく大統領選挙で選出されていたが、軍隊や官僚、外国企業と結びついた政治腐敗が次第に明らかになり、特にスハルト夫人とその一族による不正が問題となった。1997年にタイで始まったアジア通貨危機がインドネシアに波及すると国民の中に民主化運動が起こり、1998年5月に退陣に追い込まれた。
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