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東ティモール

小スンダ列島の東端の島で、1975年、ポルトガルからの独立宣言を行ったが、インドネシア軍が侵攻して併合した。激しい抵抗運動の結果、2002年にインドネシアから独立した。しかし現在も政情不安定が続いている。

東ティモール GoogleMap

東南アジア諸島部(島嶼部)の小スンダ列島の東端にあるティモール島の東半分(一部、西半分にも領土がある)を占める国家。ポルトガル領であった東ティモールは1975年に独立を宣言したが、インドネシアが介入して軍事侵攻して併合した。その後、インドネシアからの独立戦争(東ティモール紛争)が激しく戦われ、1999年8月には住民投票が実施されて独立派が多数を占めたが、独立に反対しインドネシアへの併合を主張する勢力が暴動を起こし、多数の独立派が殺害された。それに対して国際連合の多国籍軍が派遣されて治安が解決され、ようやく2002年5月20日に最終的に独立、21世紀最初の独立国家となった。なお島の西半分のオランダ領であったところはインドネシア独立時にその領土となっていた。人口推定約65万、公用語はポルトガル語とテトゥン語。カトリック教徒が約90%を占める。

ポルトガルとオランダによる分割支配

 ティモール島には、16世紀にまずポルトガルが到達、遅れてきたオランダとの間の争いとなり、交渉の結果、東経125度を境として東をポルトガル領、西をオランダ領とすることで妥協が成立した。ポルトガルはインド(ゴアなど)や中国(マカオなど)などアジアに点在する植民地の中で、東ティモールは特に重要ではなかったが、遠く離れた島であったことから政治犯などの流刑地として利用価値があり、長く支配を続けた。1942年から東インドに侵攻した日本軍が、一時的に占領したことがあったが、第二次世界大戦後、島の西半分のオランダ領がインドネシアの独立に伴ってインドネシア領となった後もポルトガル植民地として続いていた。

内戦と独立戦争

 第二次世界大戦後、東ティモールでの独立運動が強まり、東ティモール独立革命戦線(略称フラティリ)を中心に独立闘争を展開するようになった。1974年4月のポルトガル革命で、それまで植民地政策を堅持していた独裁政権が倒され、ポルトガルの民主化が進んだことによって、ポルトガルのティモール総督は住民投票で独立を選ぶか、インドネシア併合か、ポルトガルに留まるかの三者択一を宣言した。それによって、住民の間に、ポルトガル共同体の中での自治州を主張する「ティモール民主同盟」、ポルトガルからの完全独立と社会主義体制を求める「東ティモール独立革命戦線(フレティリン)」、インドネシア併合に好意的な「ティモール民主連合」の三組織が生まれ、三者の対立が始まった。混乱を避けたいポルトガル政府は、75年はじめに民族自決の方針を固め、76年に住民投票を行うことを約束した。しかし三組織の対立はかえって激化して内戦状態となり、ポルトガルは統治能力を失って多くの難民が本国に引き揚げた。内戦は完全独立派(フレティリン)が優勢になって、彼らは75年11月28日に独立を宣言したが、対抗するティモール民主連合は翌日、インドネシアとの統合を宣言した。
インドネシアによる武力併合と抵抗 1975年12月7日、インドネシア共和国スハルト大統領政権は、住民の要請を受けたという口実で、インドネシア軍を派遣して軍事制圧に乗り出し、1976年7月、東ティモールをインドネシアの第27の州として併合した。国連安保理はインドネシアによる併合を認めず、インドネシア軍に撤退を要求、国連総会もインドネシアの侵略行為として非難し住民自治兼擁護決議を可決したが、このときアメリカ、オーストラリア、日本は反対に回ってインドネシアの併合を承認し、国際世論も分裂した。東ティモールの完全独立派は山岳部に逃れてゲリラ闘争を開始、インドネシアに反発した住民組織による武装闘争はさらに激化し、東ティモール紛争でのスハルト政権による軍事行動で、人口約65万の東ティモールでおよそ10~15万人が死亡した。<白石隆『スカルノとスハルト』現代アジアの肖像11 1997 岩波書店 p.152>

住民投票と虐殺

 1998年にスハルト政権が倒れ、代わって成立したハビビ政権は住民投票を認め、1999年8月30日に実施された。この住民投票は投票率98.6%に達し、独立賛成が78.5%を占め圧勝した。住民の多数が将来の独立を選択したわけだが、それに対してインドネシア併合派(独立反対派)は間髪を入れず各地で民兵が暴動を起こし、全土で徹底的な破壊と虐殺を行った。インドネシア国軍司令官ウィラントは民兵の暴動を鎮圧しようとせず、一部では民兵を積極的に支援、少なくとも破壊活動を静観したため事態は悪化の一途をたどった。一連の騒乱事件で500~1000人が犠牲となったと推定され、インドネシア領西ティモールに逃れた難民は10万人にのぼった。<水本達也『インドネシアー多民族国家という宿命』2006 中公新書 p.141-142>
 国際社会はインドネシアに対する不信を強め、国連安保理は同年9月15日、多国籍軍の派遣を決定、20日にオーストラリア軍主導の国連多国籍軍が東ティモール入りした。治安を回復した東ティモールでは、2002年2月から国連平和維持活動(PKO)が実施され(日本の自衛隊海外派遣も行われた)、5月に独立を達成した。
 東ティモールの住民投票と反対派の擾乱、国軍の暴行といった出来事は、インドネシア共和国に強い影響を与えた。インドネシアの西の端のアチェでも分離独立の動きが加速、アチェ紛争が深刻になった。国軍の東ティモールにおける行動は強い非難を浴びることとなり、代わったワヒド大統領は、国軍改革とともに民主化を進める意図を明確に表明した。しかし、アチェ紛争の解決、国軍と政治の民主化も、メガワティ大統領、ユドヨノ大統領と大統領が交代する中、障害が大きく、解決はできなかった。

独立と続く紛争

東ティモール国旗

東ティモール国旗

 2002年5月20日に独立を達成したが、東ティモールはその後も内紛が続いた。2006年4月には軍隊内の東部出身者と西部出身者の対立から内紛が起こった。人事などで主導権を握る東部出身者に対して西部出身者の不満が高まったため、とされている。東ティモール政府は自力での治安維持が困難としてオーストラリアなどに軍隊の派遣を要請した。オーストラリア軍などの活動で治安が回復されたが、2008年2月にはラモス=ホルタ大統領(1996年度ノーベル平和賞受賞者)が反政府勢力に狙撃されて重傷を負うなど、紛争がつづいた。
ASEAN加盟問題 2020年現在、東ティモールは落ち着きを取り戻しつつあるが、課題のひつである東南アジア諸国連合(ASEAN)への加盟はまだ実現しておらず、オブザーバーの地位にとどまっている。東ティモール政府はASEANへの加盟申請を行っているが、インドネシアとの関係が完全に修復されていないことと、オーストラリアの影響が強まっていることを東南アジア諸国が警戒していることから、話が進まず、持ち越されている。
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水本達也
『インドネシア 多民族国家という宿命』
2006 中公新書