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ファタハ

パレスチナ解放機構(PLO)の主流派である武装・政治集団。アラファトが指導し、1970年代の対イスラエル・テロ闘争を主導した。パレスチナ自治行政政府での権力を握り、ヨルダン川西岸を治めている。近年ではイスラエルとの共存を拒否するハマスとの対立を強めている。

ファタハとは

 ファタハは1957年にアラファトが中心となって組織したパレスチナ・ゲリラの武装組織。ファタハ(Fatah)とは、「パレスチナ解放運動」を意味するアラビア語の語順を逆にしたものであるという。1964年にアラブ諸国の支援によりパレスチナ解放機構(PLO)が結成されたが、当初はイスラエルを非難するだけで何の行動も起こさなかったのに対し、1965年にファタハは明確にイスラエルに対する武装闘争を開始した。しかしアラブ各国はファタハをPLOの管理外にあったので危険視し、弾圧した。 → パレスチナ問題
 1967年6月第3次中東戦争が起こり、アラブ側はヨルダン川西岸(東イェルサレムを含む)とガザ地区、シナイ半島を占領され、多数のパレスチナ難民生まれると、ファタハは武装闘争によって自力でパレスチナ人の祖国を奪還するしかないと決意した。
(引用)ファタハは自らを「運動」と名乗るとおり、武装闘争と指揮系統の統一という以外には、何の綱領ももっていなかった。だからファタハには、パレスチナ人のあらゆる階層が思想を越えて参加してきた。ファタハは「ユダヤ人を海へ」というかつてのスローガンを排し、新しく「民主主義的・非宗教的パレスチナの建設」をスローガンに採択した。つまり、ユダヤ教徒もキリスト教徒もイスラム教徒も差別なく平等に生きられる社会を目指すというのである。この方針はのちに、PLOのスローガンとして採用された。<広河隆一『パレスチナ新版』2002 岩波新書 p.59>

PLOの主流派となる

 ファタハは1968年3月、ヨルダン川東岸のパレスチナ難民キャンプを攻撃したイスラエル軍を撃退して、一気にその存在を知られた。翌1969年2月にアラファトがPLO議長に選出されてから、ファタハが主導権を握り、PLOはゲリラ戦術を主体とするようになった。しかし、PLOの構成団体は闘争方針と思想を巡って対立と分裂を繰り返した。ファタハはイスラーム原理主義とは異なって宗教色は薄く、世俗的な社会主義路線に近い主張を持っていた。ただしマルクスレーニン主義に立つパレスチナ解放人民戦線(PFLP)とも異なっていた。
 第3次中東戦争の後、米ソの冷戦体制が続く国際情勢では、大国主導での中東和平が進められようとしていたが、PLO各派はパレスチナ人を抜きにした和平交渉に反発し、ハイジャックなどのテロ戦術を競って展開するようになった。それに対してイスラエル政府も激しく反応し、パレスチナ人部落を襲撃して集団虐殺が行われるなど、国際的な非難も沸き起こった。かつてナチスによる迫害を受けたユダヤ人が、非人道的なパレスチナ人迫害をするはずがない、と信じてていた国際世論の多くは、ファタハなどのPLOのテロ行為を非難する声が強かったが、次第にイスラエル側の過剰な非人道的報復も非難されるようになった。
ヨルダン内戦 1970年9月にはヨルダンのフセイン国王は、PLOの拠点の排除をはかり(ヨルダン内戦)、多数のパレスチナ人を殺害、PLOはヨルダンを追われ(黒い九月)、レバノンに移ったファタハのテロ部隊は報復として1972年にミュンヘン・オリンピック襲撃事件を起こすなどの悪循環が続いた。同年の2月にはPFLPに同調した日本の過激派がイスラエルのテルアビブの空港を襲撃するなどのテロが続いた。

ファタハの路線転換

 1973年エジプトサダト大統領は、イスラエルに占領された地域の奪還を目指し、第4次中東戦争を起こした。初戦では勝利したものの、反撃され実質的な敗北となったことから、エジプトは武力方針からイスラエルとの共存を図る和平路線に大きく舵を切った。1974年のアラブ首脳会議ではイスラエルの存在を認めた上でその非占領地にパレスチナ国家を樹立する構想が採択され、その前提としてPLOを唯一のパレスチナ人の代表と認定した。そかしそれは、PLOにとっても大きな試練を意味していた。
 国際社会では国連においてパレスチナ国家を承認する国が増えるなど、PLOに有利に動きはじめたことを受けて、ファタハは現実路線に踏み切り、イスラエル国家の容認と非占領地に限定したパレスチナ国家の樹立を認め、アラファトが国連総会で演説でその旨を明らかにした。それに対してPLO内のPFLPなど各派はイスラエルの容認には反対、またイスラエル占領地(ヨルダン川西岸、ガザ地区、シナイ半島)の返還を和平の条件としたため、ファタハとの対立を強めていた。
レバノン内戦 また、さらにPLOを苦難に陥れたのが、1975年4月からのレバノン内戦であった。PLOが拠点を移していたレバノンでは、キリスト教マロン派の民兵組織ファランジストがイスラーム教徒の排除を掲げてパレスチナ難民を襲撃、反撃したPLOは攻勢を強めたが、隣国のシリアアサド政権が介入、PLOを攻撃し、アラブ世界内の内紛となった。パレスチナ人はレバノン内でも自治権を認められ、民主的な政治・社会の実現を進めていたが、アサド政権はそのようなパレスチナ革命の動きがシリアに波及することを恐れたのだった。レバノン内戦は1976年11月までに約2万人の死者を出して終結した。

エジプト・イスラエルの和平

 1977年、イスラエルの右派リクードのベギン政権が成立、占領地でのユダヤ人入植地の拡大などを図るようになると、エジプトのサダト大統領は11月、電撃的にイスラエルを訪問、国会で演説し和平を訴えた。PLO抜きのパレスチナ和平構想は一気に進み、翌78年9月にはアメリカのカーター大統領の仲介でサダト大統領とベギン首相が会談、キャンプ・デービッド合意が成立した。その合意に基づき1979年3月エジプト=イスラエル平和条約が締結され、シナイ半島はエジプトに返還された。
PLOの苦難 PLO主流派ファタハは孤立を深め、1982年はイスラエル軍のレバノン侵攻(レバノン戦争)によってベイルートを追われ、本拠地をチュニスに移した。このときのイスラエル軍は、アメリカから購入した最新火器を投入し、PLOを排除するという名目でパレスチナ難民を殺戮した。PLO内部では、ベイルートからの撤退を巡る指揮系統の乱れから内部対立が生じ、反アラファト=ファタハの勢力も台頭していった。
 レバノンからの撤退によりパレスチナでの主導権を失ったファタハ首脳部は、次第に現実路線を強め、イスラエルとの共存を模索するにいたった。しかし、若い世代のパレスチナ・ゲリラはそのようなファタハに反発し、イスラエルの最新兵器に対抗する戦術として、自爆テロを開始した。こうしてイスラエル軍によるパレスチナ人への無差別攻撃、それに対抗するパレスチナ・ゲリラによる自爆テロという悲惨な悪循環が繰り返されることとなった。

第一次インティファーダ

 現実路線に転じたファタハに対して、現地パレスチナでは、1987年12月に特に状況が悪化していたパレスチナのイスラエル占領地区で民衆の反イスラエル闘争として第1次インティファーダ(投石闘争)が始まった。それに対してアラファトとファタハはテロの放棄とイスラエルとの二国共存路線への転換を表明、アメリカとの交渉に応じることを示唆した。イスラエル軍を撤退させることができるのはアメリカの力のみである、という現実を認めた形であったが、それは自分たちの戦いがテロであったことを認め、領土も最初の国連決議で認められたパレスチナ領土の4分の1に過ぎないことを認める大きな譲歩であった。何よりもイスラエル建国というシオニズムを最大の敵としていた戦いの目的を放棄することであった。しかし、アメリカはPLOのテロ放棄を信用せず、この交渉に応じなかった。PLOに代わって、パレスチナの現地で民衆蜂起を指導したのは、新たに勢力を増したイスラーム原理運動に近いハマスなどであった。

湾岸戦争とPLOの危機

 1990年8月、イラクがクウェートに侵攻サダム=フセイン大統領は「パレスチナ問題とのリンケージ」を表明してアメリカとの交渉を行おうとしたが、アメリカは応じず、1991年1月、多国籍軍によるイラク攻撃に踏み切って湾岸戦争が始まった。このときサウジアラビアを始めとするアラブ諸国は、同じアラブのクウェートを領土的野心から攻撃したとしてイラクを非難し、アメリカに同調した。しかし、PLOの主流派ファタハとアラファトは、パレスチナ問題とのリンケージを掲げイスラエル攻撃を打ち出したイラクを支持、アラブ諸国間の共同歩調にのらなかった。そのことが、湾岸戦争後、PLOの国際的孤立を深めることになった。湾岸戦争と同年末のソ連解体によって、中東におけるアメリカの存在は絶大なものになったが、同時にアラブのアメリカに対する反発はイスラーム原理主義の台頭という新たな局面をもたらすことになった。

オスロ合意

 1991年10月、アメリカのブッシュ大統領の提唱によりマドリードで中東和平会議が開催された。そこにはアラブ諸国とイスラエルの代表が参加したが、肝心のパレスチナ代表はPLOを代表とすることをイスラエルが拒否したため、参加できなかった。マドリード中東和平会議は結局、成果なく終わることとなった。次に、アメリカ主導ではないイスラエルとPLOの直接交渉がノルウェーの仲介で秘密裏に行われ、イスラエルもPLOをパレスチナの唯一の合法的代表と認め、その成果がオスロ合意として結実、1993年9月にクリントン大統領が立ち会いイスラエルラビン首相とPLOのアラファトが握手、パレスチナ暫定自治協定が成立した。

パレスチナ暫定自治行政府の発足

 翌1994年5月にパレスチナ暫定自治行政府が発足した。この自治政府は、ガザ地区ヨルダン川西岸イェリコ(ジェリコ)地区を統治する主権を認められ、アラファトとファタハのPLO指導部はパレスチナに戻り、自治行政府を主催することになった。
 1994年にパレスチナに帰還したアラファトとファタハらPLO主流派は、イスラエルとの二国共存に舵を切り、パレスチナを代表する国家機構として統治を開始した。1996年の暫定自治政府の議会選挙が行われ、ファタハは絶対多数を獲得し、自治政府代表にはアラファトが就任した。

ハマスの台頭

 しかし和平の当事者の一方のイスラエルではラビン首相が1995年11月にユダヤ教徒過激派に暗殺され、代わったペレス首相(彼もノーベル平和賞の共同受賞者であったが)は「強いイスラエル」を見せるために、パレスチナ過激派ハマスの軍事部門指導者を暗殺した。ハマスは報復としてイェルサレムなどで自爆テロを実行しイスラエル軍はハマスの拠点を爆撃するなど、和平実現にもかかわらず憎しみの連鎖が続いた。パレスチナの民衆には自分たちのために戦っているのはハマスだ、という思いが強くなった。

PLO国家の失敗

 しかしPLOとその主流派であるファタハは、現地のパレスチナ人を軽視し、政権を独占、またアラファト自身の個人支配が色濃く、非民主的な腐敗が次第に目立っていった。その背景には、パレスチナに基盤を持たないPLOは、その資金を国外のクウェートやイラクで成功し、豊かな生活を送るパレスチナ人からの送金に依存していたことがあげられる。そのためPLOは民衆の期待を裏切る形となっていった。それに対してハマスは「二国家共存」を否定してパレスチナの完全解放(つまりイスラエルの消滅)を掲げ、同時にイスラーム教に基づいた宗教国家の建設を主張し、自治政府のもとで不十分だった貧民救済や医療などの活動を積極的に行って民衆の支持を圧倒的に受けるようになった。

Eoisode アラファトは“墜ちた偶像”か

(引用)「アラファト? アラファトはブルジョワだわ。あの人はメルセデス(ベンツ)を乗りまわしている。彼は難民の苦しみを感じていないわ。ファタハ(アラファトが率いるPLOの主流派)の指導者は全員、シリアや湾岸諸国に家をもっています。ここにはアラファトの支持者はいません。私たちを代表するのは私たちだけです」
「じゃあ、もしアラファトが政治解決に成功したら? いまも知っての通り国際会議についての話し合いが進んでいるでしょう」
「分かってます。私たちはアラファトに反対です。アラファトは平和を求めているからです。私たちは力による解決を求めています。力で奪われたものは力で取り返すのです。これしかありません」<デイヴィッド・グロスマン/千本健一郎訳『ヨルダン川西岸 アラブ人とユダヤ人』双書・20世紀紀行1992 晶文社 p.34>
これは1992年に日本語の翻訳が出た、イスラエル人ジャーナリストのデイヴィッド・グロスマンがヨルダン西岸のパレスチナ難民キャンプでインタビューした若いパレスチナ人の幼稚園の先生との会話である。日本ではパレスチナ解放の指導者として圧倒的な人気があると思われていたアラファトが、和平路線に転換した頃からパレスティナ人の支持を失っていたことがこの会話から分かる。どうやらアラファトはすでにパレスチナ人にとって“墜ちた偶像”になっていたようだ。

第2次インティファーダ

 2000年9月にはイスラエルの強硬派リクードの党首シャロンイェルサレムのイスラーム教のモスクに侵入したことに反発して、パレスチナ人による第2次インティファーダが起こり、その前線に立ったハマスが、パレスチナにおける主導権を握ることとなった。同時にハマスは投石だけの戦術の限界を意識し、でイスラエルに対抗するミサイルなどで武装する方向に転じていった。

アラファトからアッバス議長へ

 2001年、9.11同時多発テロが起きると、アメリカはイスラーム過激派のテロとの戦いを宣言、テロ組織アルカーイダを壊滅するとしてアフガニスタンに侵攻、世界の耳目がアフガニスタンに集まることになった。その間、イスラエルはテロとの戦いの一環と称して2002年2月、PLOへの攻勢を強め、ヨルダン川西岸にいたアラファト議長を事実上の軟禁状態に追い込んだ。アラファトはパレスチナ人のPLO離れが進む中、2004年には失意のうちに死去した。PLO議長にはアラファトの片腕であったファタハのアッバスが就任した。アッバスは国際社会に承認された、「二国共存」によるイスラエルとの和平を継承し、秩序の回復を目指した。
ガザ地区の返還 2003年3月からのイラク戦争を進める前提としてパレスチナの安定を図ったアメリカのブッシュ(子)大統領は、中東和平を仲介してロードマップの作成を進め、2005年、それに合意したイスラエルのシャロン首相はガザ地区からの軍隊の撤退に応じた。

ガザ地区のハマス政権

 ガザ地区ではイスラエル軍は撤退したものの、ユダヤ人の入植地は存続し、パレスチナ難民地区と隣り合っていることから、紛争が絶えず、パレスチナ人の中にはヨルダン川西岸にいるPLO・ファタハの政府に対する不信感が強まっていった。その中からハマスは着実に民衆の支持を取り付け、2006年1月のパレスチナ総選挙でハマスはファタハを押さえてガザ地区で第一党となった。両派の対立は、2007年6月に武力衝突に発展、その結果、ハマスはガザ地区を制圧し、PLO(ファタハ)の統治はヨルダン川西岸のみとなり、パレスチナは分裂状態となった。
 ガザ地区を統治するハマスはイスラエル及び国際社会の大勢からはテロ集団と見なされて孤立し、経済封鎖を受けることとなったが、なおもイスラエルに対するロケット攻撃を続け、それに対するイスラエルの報復も激しさを増し、実質的な戦争状態が続いている。 → パレスチナ問題/中東問題(1990年代~現代)
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広河隆一
『パレスチナ(新版)』
2005 岩波新書

マロン派民兵による残虐事件を現場で目撃した著者が、写真とともにこの本で詳しくレポートしている。