印刷 | 通常画面に戻る |

シリア

現在は中東のアラブ諸国の一つとして、トルコ、レバノン、ヨルダン、イラクに囲まれた内陸国家であるが、世界史上のシリアは、それら周辺諸国を含む広大な地域を意味していた。つまり、シリアという地名は、世界史上での範囲と、現在の国家としての範囲とが異なることに注意する必要がある。

・ページ内の見だしリスト

英仏によって画定された国境線

 現在の国家としてのシリアは、東地中海岸の北部から内陸のユーフラテス川流域いたる地域に位置する小国であり、中東のアラブ諸国のひとつであるが、現在の国境線は、第一次世界大戦後にオスマン帝国領をイギリス・フランスが分割して委任統治領としたときに線引きされて縮小された領域である。いわば、両国の都合のよういように画定したものであって、自然の地形や現実の民族や宗教、文化的伝統、経済関係などを無視した、「人為的に線引き」した国境ものであり、実際にそこに住んでいた人々のあずかり知らぬものであった。現在のシリア、イラク、レバノン、ヨルダン、そしてイスラエルなどはいずれもそのような西欧列強によって定められた国境線を強いられている。それはアフリカ諸国でも同様であり、帝国主義時代の負の遺産であると言わなければならない。

シリア(1) 古代の大シリア

東地中海岸の北部から内陸のユーフラテス川流域いたる地域。歴史上のシリアは現在のシリアより広い地域をさしている。

 シリアは本来は現在のシリアだけでなく、レバノン・ヨルダン・パレスティナを包括する広い地域をさしていた(「大シリア」、あるいは「シャーム」地方とも言う)ので注意を要する。

メソポタミア文明からローマ時代へ

 いわゆる「肥沃な三日月地帯」の一角を占め、生産力が豊かであり、かつ南に隣接するパレスチナとともに、メソポタミア文明とエジプト文明の双方の影響がおよび、東地中海世界とも結びついたオリエント世界の十字路の役割を果たした。
 ミタンニがこの地に国家を形成したが、前15世紀にはさらに小アジアからのヒッタイト、エジプトからのエジプト新王国が進出して抗争するようになった。前13世紀には、エジプト新王国のラメセス2世はヒッタイトとシリア・パレスティナの覇権を争い、交易の要衝カデシュで衝突、カデシュの戦いとなった。両国は引き分け、戦後、世界最古と言われる平和条約を締結している。その後、シリアにはセム系民族のアラム人が陸上交易活動を展開するようになり、ダマスクスを建設した。オリエントの統一期を迎え、アッシリア、次いでアケメネス朝ペルシア帝国に支配された後、前333年にアレクサンドロス大王に征服され、その死後はヘレニズム三国の一つセレウコス朝の支配を受けた。前2世紀にはローマの勢力が東地中海にも及び、小アジアのポントス王、アルメニア王などとともに抵抗したが、前64年に、ローマの将軍ポンペイウスの攻撃に敗れ、ローマの属州シリアとなった。

ローマとササン朝の抗争

 3世紀にはイラン方面からササン朝ペルシアの勢力が伸びてきたため、シリアはローマ帝国とササン朝の争奪の対象となったが、間隙をついて隊商都市パルミラが女王ゼノビアのもとで繁栄した。しかしパルミラは272年にローマ帝国の攻撃を受けて破壊された。ローマ帝国の東西分裂後は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配を受け、エジプトと並んでその重要な穀倉地帯となった。この間、ネストリウス派と単性派のキリスト教がこの地域に広がった。

17章3節 用語リストへ

シリア(2) イスラーム化以後

イスラーム教の勢力が及び、シリア総督ウマイヤ家がダマスクスを都にウマイヤ朝を建てる。

イスラーム化とウマイヤ朝

 7世紀初めにアラビア半島に興ったイスラーム教勢力が聖戦(ジハード)を展開して急速に勢力を拡大した。636年にはシリアに進出し、ビザンツ帝国のヘラクレイオス1世の軍隊を破って後退させた。イスラームの勢力圏に入ったシリアは、シリア総督としてウマイヤ家が統治、661年にはダマスクスを都としてウマイヤ朝が成立した。750年にアッバース朝が成立するとイスラーム世界の中心はダマスクスからバグダードに移り、シリアは興亡したいくつかのイスラーム王朝の支配を受けた後、11世紀にはエジプトに起こったファーティマ朝の支配を受けることになった。しかしまもなく、中央アジアから進出してきたセルジューク朝がシリアに入り、さらにパレスチナも征服、それに対して十字軍運動が始まった。

アイユーブ朝とマムルーク朝

 セルジューク朝が衰退してダマスクスにはザンギー朝という地方政権が生まれたが、その配下にあったクルド人のサラーフ=アッディーンはエジプトにわたり、アイユーブ朝を建て、1171年にファーティマ朝を倒し、さらにシリアにその勢力を及ぼしてダマスクスを征服し、エジプト・シリアを共に支配した。サラーフ=アッディーンは1187年、ヒッティーンの戦いで十字軍に大勝し、さらに第三回十字軍も撃退した。しかし、13世紀中頃にはエジプトに起こったマムルーク朝に取って代わられた。そのころ、モンゴル帝国のフラグの征西軍が1260年、シリアにも進出して、ダマスクスは占領されたが、エジプトへの進出はマムルーク朝に阻止された。フラグはイラン西部のタブリーズを都にイル=ハン国を建国、シリアも支配したが、次第にイスラーム化していった。

オスマン帝国の支配

 小アジア西部に起こったオスマン帝国が、16世紀にシリアに進出した。古来から交通の要衝にあたっていたので、様々な民族、文明が交錯する地域であった。形式的にはオスマン帝国の一州であるが、実質的にはほぼ独立したシリア総督が統治していた。平野部の大都市ダマスクス、アレッポ、ベイルートなどではアーヤーンと言われる地方名望家が後背地の農村部を支配していたが、中央権力の及ばないレバノン山岳地帯には、イスラーム教ドルーズ派とマロン派キリスト教徒(共にアラブ人)などが特異な信仰・慣習をもつ集団が有力家系の下で結束していた。

用語リストへ 4章1節7章3節

シリア(3) 近代のシリア

19世紀、オスマン帝国領のもとでアラブ人の自覚が高まる。第一次世界大戦後にイギリス・フランスによって分割され、シリアはフランスの委任統治領となった。

 19世紀に入ると、オスマン帝国の無力化が表面化し、イギリス、フランス、ロシアなどのヨーロッパ列強は、西アジアのオスマン領を分割し、勢力下におこうとして互いに争い、いわゆる東方問題が深刻となる。シリアもその対象とされ、分割の危機にさらされ、現在のシリア地域の混迷が始まることとなる。

アラブの覚醒

 1832~40年、第2次エジプト=トルコ戦争でオスマン帝国と戦ったエジプトのムハンマド=アリーシリア総督となった間は、シリアの近代化の転機となり、生糸・繭の生産が増加して商品経済が発展した。しかし、シリアの内部矛盾はレバノンにおけるイスラーム教ドルーズ派とマロン派キリスト教徒の宗教的対立となって現れ、さらにフランスがマロン派キリスト教徒を支援し、イギリスが対抗上、ドルーズ派と結び、さらにロシアがギリシア正教徒の保護に乗り出すという列強の介入が始まり、国際問題化した。このような外国勢力の進出という危機の中から、シリアのアラブ人マロン派キリスト教徒の中から「アラブの覚醒」と言われるアラブ文化復興運動が起こった。

第一次世界大戦後のシリア分割

 もともと「シリア」は地中海東岸の広い地域を示し、現在のシリア・レバノン・ヨルダン・パレスチナ(以上を大シリアとも言う)を含んでいた。第一次世界大戦が勃発すると、メッカのハーシム家の首長フセインは、イギリスの支援を受けてオスマン帝国からの独立を宣言してヒジャーズ王国を建国、1918年にその子ファイサルがダマスクスを占領し都にした。この「アラブの反乱」に協力したのがイギリス人のロレンスだった。
大シリア立憲王国 ダマスクスにアラブ政府を樹立したファイサルは、1919年のパリ講和会議に出席し、大戦中にフセイン=マクマホン宣言で約束されたアラブ国家の承認を求めたが、イギリス・フランスはそれを拒否し、ウィルソンの民族自決の原則もアラブには適用されなかった。イギリス・フランスは、大戦中のサイクス=ピコ協定の密約を優先し、シリアの分割にのりだした。ファイサルは「大シリア立憲王国」の独立を宣言し、20年3月に自らシリア王となった。しかし、4月イギリス・フランスなど戦勝国はサン=レモ会議で大シリアを分割してイギリス・フランスの委任統治とすることで合意し、7月にフランス軍はダマスクスを攻撃してファイサルを追い出すことに成功した。
 ファイサルは後にイギリスに保護されてイラクの国王となる。ヒジャーズ王国は、さらにアラブのもう一つの勢力、ワッハーブ教団を背景としたサイード家のイブン=サウードとの争いに敗れ、1924年に王国は倒れ、ロレンスが構想したハーシム家によるアラブの統一と独立は実現石無かった。 → オスマン帝国領の分割

フランスの委任統治

 1920年8月にイギリス・フランスはセーヴル条約をオスマン帝国と結び、大シリアのうち、狭い意味のシリア(レバノンを含む)はフランスの、ヨルダンとパレスチナはイギリスの委任統治領とされることになった。ダマスクスのファイサルを軍事力で追放したフランスのシリア委任統治は、22年7月に国際連盟で承認された。
 フランスは、委任統治に当たって、多数派のスンナ派イスラーム教徒を抑えるために、シーア派やドゥールーズ派のイスラーム教徒、マロン派キリスト教徒などの少数派の宗教対立を利用した。ヨーロッパ近代主権国家(それらは宗教的な対立を克服していた)が、中東やインドは宗教的な「モザイク社会」であるという偏見を持っていたが、フランスがシリアに持ち込んだのもそのような偏見から来る「分割統治」であり、それまで共存していた様々な宗教のあいだに、宗派対立から内戦に発展する構造を持ち込んだのはフランスだったということができる。

用語リストへ 12章2節15章2節

 ◀Prev Next▶ 


シリア(4) シリアの独立

フランス委任統治に対する反発強まり、1936年に事実上の独立が認められ、戦後の1946年に正式に独立。

 このようなフランスの委任統治に対する反発から、1925年にはドゥルーズ派による都市部での反乱が起きる。それを受けてフランスは28年に軍政を廃し、制憲議会選挙の実施に応じる。シリア内の体制派はフランスとの協調を主張し、フランスもそれに応じて1936年にはフランス・シリア同盟条約を締結して独立を事実上認めるところまでいった。
 その後、フランスは1941年にキリスト教の一派マロン派の多いレバノンをシリアから分離させた。
 第二次世界大戦末期の1945年3月にはエジプト王国などとともにアラブ連盟(アラブ諸国連盟)を結成した。
 1946年にシリア共和国として正式に独立が認められたが、パレスチナは一部をシオニズムに与えてユダヤ人国家イスラエル(1948年)とされることとなり、レバノンもすでに分離していたので、このシリアはかつての大シリアから大幅に国土面積を減少させた。

シリア(5) シリア=アラブ共和国

1958年にエジプトとのアラブ連合共和国となったが、1961年に解消した。63年に民族主義政党のバース党がクーデターで政権を奪取、指導者アサドが権力を握り、独裁的体制を樹立した。その体制はその子に継承されたが、2011年のアラブの民主化の動きが及び、反体制派が蜂起した。しかし、両派の内戦は長期化し、さらに2014年には「イスラム国」がその勢力を拡大させ、シリア情勢は混沌としている。

 シリアでは1947年、首都ダマスクスにアラブ民族の完全な統合を目標とするバース党が生まれ、スエズ戦争後のエジプトのナセルの提唱するナセル主義(アラブ民族主義)の隆盛とともに力をつけていった。

アラブ連合共和国の成立と解消

 バース党はアメリカの圧力を避けるため、ナセルの率いるエジプトとの合同を働きかけ、1958年に両国は連合体を構成してアラブ連合共和国が成立した。しかしエジプトの統制が及ぶと、シリアでは反ナセルの動きが出てきて、61年に連合は解消された。

バース党アサド政権

 1963年にはバース党クーデターによってバース党政権が成立し、70年からはアサド将軍(ハーフィズ=アサド)が権力を握り(71年から大統領)、独裁政治を始めた。また第3次中東戦争以来、ゴラン高原をイスラエルに奪われており、1973年の第4次中東戦争ではエジプトともにイスラエル占領地奪還をめざしたが、ゴラン高原の奪還には失敗した。1975年から西隣のレバノン内戦に介入し、レバノンの実権を奪った。
 アサド大統領はアラブ民族主義の立場に立ちながら、巧みな外交で中東の力のバランスをとり、独裁権を維持し、2000年に子のバッシャール=アサドにその地位を継承させた。現在はシリア=アラブ共和国と称している。

(6)シリア内戦

2011年、アラブの春と言われた民主化運動がシリアに波及したが、アサド政権はロシア、イランなどの支援を受けて体制を維持、反政府軍との激しい内戦となった。混乱の中から「イスラーム国」が台頭、クルド人勢力も蜂起して複雑な対立関係がうまれ混迷している。

「アラブの春」の波及

 2011年のアラブの民主化の動きであるアラブの春がシリアに及び、反体制派が蜂起した。3月18日、南部ダラアで市内の壁に「アサド体制打破」と落書きした学童15人が逮捕され、それに抗議する市民集会に治安警察が発砲して三人が死亡し、翌日の葬儀に市民2万人が参加、「自由と民主主義」を叫んで決起し、政府機関や与党本部、アサド大統領の従兄弟が経営する携帯電話会社などを襲撃し、運動は全国に広まった。

反政府勢力の形成

 アサド大統領(バッシャール=アサド)自身はシーア派に近いアラウィ派に属しているが、シーア派はシリアでは国民の13%にすぎず、アサド政権は74%をしめるスンナ派を強権支配してきた。スンナ派が結束すればアサド政権は早期に倒れると思われたが、他の「アラブの春」の諸国と異なり、アサド政権は2019年段階でも存続している。その背景には、ロシア・中国が経済的関係の強いアサド政権を支持しており、国際的な包囲網が作れなかったことがある。
反体制勢力 アサド大統領を非民主的な独裁政治と批判する民衆運動の支持を受けて国軍の一部が分離して自由シリア軍を組織、反政府軍の中核となった。しかし、反政府勢力には様々な勢力が加わり、アラブ原理主義のアルカーイダ系(ヌスラ戦線と称した)も加わり、統一がとれない実情があった。また、以前からアサド政権を支持しているロシアと、シーア派として親近感を持つイランはアサド政権軍を直接支援したのに対し、アメリカは民主化を支持する立場から反政府軍を支援した。また近隣のサウジアラビアやトルコはそれぞれの思惑から反政府勢力を支援している。その結果、アメリカとアルカーイダが同じ陣営に含まれてしまうという現象が生まれ、アメリカ軍の直接支援も歯切れの悪いこととなった。
 2012年7月には反政府軍が北部最大の都市アレッポを掌握した。その戦闘に巻き込まれ、8月20日に日本人ジャーナリスト山本美香さんが死亡した。国際社会は政府軍による化学兵器の使用を疑い、非難を強めた。内戦の長期化、拡大に伴って多数の「シリア難民」(現在まで400万人に及ぶと言われている)が発生、トルコやヨルダン、レバノンに逃れている。
イスラム国の出現 両派の内戦が長期化するなか、2014年には過激なイスラーム教スンナ派集団がイラクとまたがって「イスラム国」(ISISまたはISIL)の樹立を宣言、その勢力を急速に拡大させた。「イスラム国」はイギリスなどが線引きした国境を認めず、新たなイスラーム国家を樹立するとしてその指導者はカリフを称している。アメリカのオバマ政権はシリアのアサド政権に民主化を迫っているが、その一方でイスラーム国をテロ集団と認定して空爆に踏み切り、結果としてアサド政権を助けているというシリア情勢の混迷の要因となっている。2015年1月には日本人ジャーナリスト後藤健二さんら二人がISに拘束され、殺害されている。
クルド人勢力 シリア・イラク・トルコの国境地帯に居住するクルド人は、この内戦を独立の機会と捉えて活動を活発にしたが、シリア政府軍と反政府軍の戦闘に対しては中立の姿勢を採った。またシリア政府軍も急速に勢力を拡大した「イスラーム国」に戦力を集中したので、クルド人の支配地域での自治区設立にたいしては黙認している。クルド人の独立運動が波及することを恐れるトルコ政府は、そのようなシリア政府を非難した。

シリア内戦の混迷

 シリア政府軍と戦闘中の反政府軍の中に、民主化と世俗化を掲げる勢力と、イスラーム主義を掲げるイスラーム国、ヌスラ戦線などが入り乱れて内戦が繰り返されることになった。その中でイスラーム国(IS)はカリフ制樹立を掲げたスンナ派国家の樹立を標榜し、シリア政府軍だけでなく、シーア派系組織、クルド人とも敵対しながら、最も勢力を拡大した。ISは占領地域で非スンナ派住民を迫害し、さらに2015年8月にはパルミラを占領、後にその歴史的遺産を破壊するなどの行動によって国際的な批判を浴び、アメリカのオバマ政権も空爆に踏み切った。

ISの崩壊

 2017年に登場したアメリカのトランプ政権は、アサド政権打倒という方針を転換、全面的なIS殲滅を宣言した。しかし、4月、政府軍が化学兵器を使用した疑いが強まると、政府軍基地を爆撃した。このころまでにISの支配領域は最大に広がったが、そのころからシリアの反政府勢力軍とクルド人勢力が共同して設立したシリア民主軍が攻勢に出て、同年10月にはISが首都としていたラッカが陥落し、ISは急速に解体に向かった。

シリアの混迷続く

 ISはほぼ後退したが、政府軍と反政府軍の戦闘はさらに続いた。しかし、2018年4月、反政府軍の拠点であった首都ダマスクス近郊の東ダーク地区が政府軍に制圧され、反政府勢力は大きく後退し、内戦は事実上鎮静化している。しかし、政府が直接支配するのは国土の西南部を中心としたほぼ3分の1ぐらいで、北東部のトルコ・イラクとの国境地帯ではクルド人の自治政権が事実上成立し、また他にも反政府勢力の一部が抵抗を続けている。また、隣接するトルコとイスラエルは常に軍事介入の姿勢を崩して折らず、情勢は依然として不安定である。さらにISの残党と思われるテロリストが世界に拡散したのではないか、と見られている。
 2011年のアラブの春の民主化運動から始まったシリア内戦であるが、アサド政権が世襲の独裁政権でありながら存続出来ている最大の理由は、アメリカとロシアの対立、アラブのスンナ派・シーア派・キリスト教などの宗教対立、クルド人などの民族問題など、あまりににも複雑な対立関係の中で、シリア人の真の自由と主権が確立出来ないでいると言うことによるのであろう。
印 刷
印刷画面へ