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ジェノサイド/ジェノサイド条約

民族間や宗教紛争から起こる集団殺害をジェノサイドという。国際連合総会で1948年に採択され、51年に発効した、ジェノサイドを防止し、処罰する条約。ナチス=ドイツによるユダヤ人大量虐殺の事実を反省し、人道に対する罪として集団殺害を防止するための国際法として承認された。

 ジェノサイド Genocide とは、種族集団を意味するギリシア語 genos と殺害を意味するラテン語 cide を組み合わせた造語。ジェノサイド条約は1948年12月9日に国連総会で採択された、正式には「ジェノサイド(集団殺害)の防止ならびに処罰に関する条約」。全文と19ヵ条からなる条約で、締約国は遵守義務を負う国際法として1951年に発効した。

ジェノサイド概念を作ったレムキンという人

 ジェノサイドという言葉は第二次世界大戦に際して作られた用語であり、ユダヤ系ポーランド人の法学者ラファエル=レムキンが最初に用いたという。レムキンはドイツで言語学を学ぶ間に、第一次世界大戦の最中にトルコによるアルメニア人虐殺があったことを知った。戦後の1921年に生き残りのアルメニア人ソゴモン・テフリリアンと言う男が、虐殺を煽動したトルコの前内務相メフメト・タラアトを暗殺するという事件が起き、テフリリアンは有罪となった。
(引用)やがてレムキンは、ライフワークとなるこの問題―大量殺害は法律で罰せられないという事実―に取り組みはじめた。あらゆる人がタラアトは有罪だと認めているにもかかわらず、なぜ告発できないのか?「テフリリアンは一人の男を殺して罪に問われたが、圧政者タラアトは百万人以上殺しても罪に問われない」のはなぜなのか、とレムキンは考えた。<ジェーン・スプリンガー/築地誠子訳『一冊でわかる虐殺ジェノサイド』2010 原書房 p.17>
 法律を学びはじめたレムキンはワルシャワで検察官として活動しながら大量殺害を禁ずる法律の草案を書き始めた。1933年には国際連盟の法律部会でその草案を発表したが、取り上げられることはなかった。1939年、ナチス=ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まると、レムキンはヒトラーがユダヤ人を標的としていることを知っていたので、ユダヤ人と家族にポーランドから出るよう懇願したが、彼らは「そんなことは起こるはずがない」といって信じようとしなかった。家族と別れたレムキンは中立国スウェーデンに逃れ、ついで1941年にアメリカに向かい、デューク大学で教鞭を執った。1944年、レムキンは『占領下のヨーロッパにおける枢軸国の統治』を発表し、「国民的集団の絶滅を目指し、その集団に不可欠な生活基盤の破壊を目的としたさまざまな行動を統括する計画」を「ジェノサイド」という一言で表した。戦後、レムキンは、兄以外の親族のすべてが殺されていたことを知った。
 レムキンは「ジェノサイド」を国際的に認知された犯罪にするため、各国政府に働きかけ戦後のニュルンベルク裁判で検察側がこの言葉を用いたことによって、広く知られるようになった。1950~59年、レムキンはノーベル平和賞候補になったが、受賞には至らなかった。1959年8月28日、ニューヨークで貧困のうちにこの世を去った。<スプリンガー『同上書』p.16-19 コラム>

ジェノサイド条約の制定

 国際連合では発足以来、大戦前から大戦中に行われたナチス=ドイツの絶滅政策によるユダヤ人大量殺害(ホロコースト)を反省し、そのような非人道的な大量殺害であるジェノサイドを禁止方策について話し合った。ジェノサイドという概念はナチスの犯罪を裁くニュルンベルク裁判で用いられ戦争犯罪のひとつとして「人道に対する罪」にあたるとして確定した。1946年の第1回国連総会でまず、ジェノサイドを禁止する決議がなされたことを受け、ジェノサイドを特定の国民、人種、民族、宗教集団の絶滅のための集団殺害行為であると規定し、集団殺害行為とその共同謀議、教唆、未遂、共犯をも処罰することを主たる内容とする条約が、1948年12月9日の第3回の総会で採択された。翌日には世界人権宣言が採択されている。
 ジェノサイド条約では、集団殺害の行為者のみならず共同謀議、教唆、共犯に対しても、国内裁判所または国際刑事裁判所で審理のうえ、処罰されると規定された。1948年の国連総会では全会一致で採択され、その後締約国は増加し、152ヵ国にのぼっているが、日本は国内法が整備されていないという理由から締約国となっていない(2019年現在)。

過去のジェノサイド

 ジェノサイド概念が定着したことによって、その概念が生まれた第二次世界大戦以前の歴史的事例の中でユダヤ人大量殺害以外にも、それにあてはまる事実があるのではないか、という議論が多くなった。その主なものには、第一次世界大戦中のトルコによるアルメニア人虐殺、1932~33年のウクライナ大飢饉(ホロドモール)、スターリンによる粛清、日本軍による南京虐殺事件、ナチスのホロコースト、インドネシアの九・三〇事件東ティモール(1975~99)、グアテマラ内戦、イラクによるクルド人虐殺、などがあげられる。また論者によっては、関東大震災に於ける朝鮮人虐殺、中国の文化大革命、などもあげる場合がある。ただし、現行のジェノサイド条約の定義の中にはレムキンの当初の構想の中にはあった「政治的集団や社会的集団を故意に抹殺すること」は含まれなかったので、その適用に当たっては曖昧さが残されている。歴史をさかのぼれば、国家の抹殺を狙った行為は、ローマ帝国によるカルタゴ攻撃(ポエニ戦争)に始まってくりかえされている。 また、民族の抹殺とされてもいたしかたない歴史的事実として、主としてスペインによる新大陸インディオ征服、さらにはヨーロッパ各国による黒人奴隷貿易による黒人の被害、コンゴ自由国での現地黒人の虐殺などもあげらる。
 ベトナム戦争が長期化、泥沼化する中でアメリカ内外でのベトナム反戦運動が盛り上がった。1967年には著名なイギリスの哲学者であり平和運動家のラッセルが提唱し、ラッセル法廷と言われる非公式の国際法廷が開設され、そこでベトナムにおけるアメリカ軍によるベトナムの民間人に対する大量殺害の証拠が 出され、ジェノサイド及び捕虜虐待などの国際法違反であるという「判決」が出されたことがある。これは冷戦構造の中で、まだ国際刑事裁判所が機能していなかった時代の、注目すべき事例といえよう。

ジェノサイドの認定

 ジェノサイド条約締結後の国際紛争、地域紛争でいくつかの集団的な殺害が行われたが、当事国や関係する大国の思惑もあって、それを国際法上のジェノサイド条約違反と認定することは困難であったため、事例は多くなかった。また管轄に当たる国際刑事裁判所の設置が遅れた(ようやく1998年に設立された)ため、国際裁判となった例はなかった。一面では、冷戦時代には東西の二大陣営が絡む事例であったので、現実問題としてジェノサイド条約が効力を発揮することは困難だったと言える。
カンボジア内戦 冷戦時代のケースには、カンボジア内戦のポル=ポト政権による虐殺事件がある。1975~79年のポル=ポト政権(クメール=ルージュ)のもとで反政府的な市民、少数民族が多数殺害された事件で、政権が崩壊した後、国際連合の主導でカンボジア特別法廷が開設され、2018年までにポル=ポト派幹部にジェノサイドの罪が認定されて有罪となった。裁判が進行したのは冷戦終結に伴い、国際連合の調停能力が高まったことがあげられる。

冷戦後の適用例

 冷戦終結後は、米ソの縛りがなくなり、かえって地域的紛争が多発することとなったが、同時に、国際連合が紛争解決に当たるケースが生まれ、その中でジェノサイド条約がようやくその機能を発揮できるようになったとも言える。冷戦終結後のジェノサイド条約適用の主なケースには次のようなものがある。
ユーゴスラヴィア内戦 1991年にユーゴスラヴィア連邦が解体し、旧構成国間に激しい対立が始まった。特にボスニア=ヘルツェゴヴィナ独立にからんで起こった1992~95年のボスニア内戦では民族間の殺し合いが続き、国際的な解決が迫られていた。そのような中、1995年7月スレブレニツァ虐殺事件と言われる事件がおこった。それは民族浄化を叫ぶセルビア人勢力が7000人におよぶボスニアのボシュニャク人を殺害した事件として、紛争終結後、旧ユーゴスラヴィア国際刑事裁判所と国際司法裁判所がジェノサイド条約を適用し、セルビア人指導者ミロシェヴィッチに有罪の判決を下した。
ルワンダ内戦 1994年、アフリカのルワンダで対立するツチ族とフツ族が衝突する民族紛争であるルワンダ内戦が起こった。その中でフツ族によるツチ族に対する襲撃事件が相次ぎ、80~100万という犠牲者が短期間にでるという悲惨な事件となった。国際連合はPKF活動を行い、沈静後にルワンダ国際刑事裁判所を設置して、フツ族によるジェノサイドであると認定した。

21世紀のジェノサイド

スーダン内戦 2003年2月~2008年、アフリカのスーダンで、アラブ人と非アラブ人住民の対立からダルフール紛争が起こった。このときスーダンの軍事政権バシル大統領が非アラブ系住民の多数を虐殺し、2009年に国際刑事裁判所(ICC)はバシル大統領に逮捕状を発し、告発した。これは国際刑事裁判所が初めてジェノサイドの容疑で現職の大統領に逮捕状を発行したものとして注目を集めた。ダルフール紛争は2003年以降だけでも約40万の死者と多数の難民を発生させ、民族浄化を名目とした最悪の人道危機となった。
ロヒンギャ問題 事実上の戦争、紛争、内戦が起こり、多数の犠牲者が出ており、ジェノサイドと認定すべきではないか、という深刻な事例も起こっている。2017年頃から深刻化したミャンマーのロヒンギャ問題は、少数派イスラーム教徒に対する迫害がエスカレートし、多くの難民が隣国バングラデシュに逃れる事態となり、2019年には国連人権理事会が調査団を派遣、ミャンマー軍の残虐行為をジェノサイド条約違反と告発したが、2021年に軍によるクーデタが発生してアウンサンスーチー政権が倒されたため、事態解決と裁判の見通しは立っていない。
ウクライナ戦争 2022年2月24日に始まったロシアのウクライナ侵攻は、プーチン大統領は特別軍事行動と言い、ロシア系住民の保護のためという大義名分を掲げて行われているが、事実上のウクライナ戦争の様相を呈し、侵攻されたウクライナの東部諸州では多数のウクライナ人が犠牲となっている。この事態は、国際連合憲章に違反する軍事侵攻であり、それに伴って行われた虐殺行為も、不当なジェノサイド条約違反ではないか、という声が国際社会に起こっている。実際、国際司法裁判所がその証拠集めを開始しているとの報道もある。これらは現在進行中の事例なので、確定はしていないものの、ジェノサイド条約違反として認定されるかどうか、注目される。<2022/7/14記>

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ジェーン・スプリンガー
石田勇治解説/築地誠子訳
『一冊でわかる虐殺ジェノサイド』 2010 原書房

ジェノサイドという言葉はよく聞かれるようになったが、日本の高校の授業ではこの条約があることは無視されているなか、その概念から条約の内容、歴史的な事例などを紹介する好著。2010年の刊行なので最新情報ではないが、ジェノサイド条約を知る上では示唆に富む一冊。