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ユダヤ人排斥/絶滅政策

ヒトラーのナチス=ドイツによるユダヤ人に対する排斥は、さらに絶滅政策に転化し、約600万人が犠牲となった。

 ヒトラーが青年時代を送った、オーストリア=ハンガリー帝国の都ウィーンは、多民族都市であり、その中で支配的立場にあったドイツ人は、ハンガリー人やチェコ人の民族運動に脅かされ、その反動でドイツ人の民族的優位を強調する民族主義が強まっていた。また、中世以来続く反ユダヤ主義も根強く、民衆の中に風潮として広がっていた。

ヒトラーのユダヤ人攻撃

 ヒトラーもその影響を強く受け、ゲルマン民族などのアーリア人種は、人類の中で最も優れた人種であり、それに反してユダヤ人は最も劣る人種であるという主張を繰り返した。ユダヤ人によってアーリヤ人種の純血が汚されることを恐れる、という宣伝を積極的に進め、第一次世界大戦中に始まったロシア革命を指導したボリシェヴィキはユダヤ人が多かったと宣伝して、資本家や中間層の恐怖をあおると当時に、大衆にはユダヤ国際資本が世界を征服しようとしているという「ユダヤ人陰謀説」をまことしやかに広めていった。
 ヒトラーの人種論は、何ら科学的な根拠はなく、またユダヤ人は人種ではなく民族的概念(ユダヤ教を信仰するという文化的共通性を持った人間集団)であることを見誤った主張であった。しかし、ユダヤ資本の支配に反発する民衆の心理を巧みに捉え、ナチス台頭を許す要因となった。

ナチスの人種政策

 ドイツ民族の優越を説くヒトラー・ナチス(ナチス=ドイツ)の思想は、「民族共同体」から夾雑物としてユダヤ人を排除するユダヤ人排斥・絶滅政策を推し進めた。1935年の国会で成立したニュルンベルク法によって公民権を奪い、ドイツ人との婚姻(さらに性交そのものをも)禁止し、「ドイツ人の血」を守ろうとした。このような立法措置の一方、1938年11月の「水晶の夜」を頂点とする迫害が続いた。1941年以降は占領地のユダヤ人を強制収容所に収容して大量殺戮をするというホロコーストを展開した。このような迫害によって多くのユダヤ人が亡命を余儀なくされ、約50万人いたドイツのユダヤ人のうち、第二次世界大戦勃発前に36万が亡命している。<芝健介『ホロコースト ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌』2008 中公新書>

ユダヤ人の大量殺害/ホロコースト

ヒトラーのナチス=ドイツは、1942年1月、ヴァンゼー会議でユダヤ人絶滅方針を決定した。強制収容所がアウシュヴィッツなどに作られ、約600万近いユダヤ人が犠牲となった。

 ナチス=ドイツで進められたユダヤ人排斥は、第二次世界大戦の開始に伴って本格化し、1942年1月にその「絶滅方針の最終解決」が決定された。
(引用)すでに開始されていたユダヤ人の絶滅作業を全ヨーロッパ規模で組織化、行政化するための会議は、1941年12月9日に開催される予定であったが、おそらくその前日に日本が真珠湾攻撃を行い、太平洋戦争に突入、ヒトラーも11日に対米宣戦を布告せざるをなったために延期され、翌年1月20日にベルリンのヴァンゼーで開催された。ナチ保安部長官ハイドリッヒが各省庁の代表者を召集し、演説した。其の議事録によると、ハイドリッヒは、ヒトラーの指示、認可によって強制輸送を西から東に始めたことを明言し、そのヨーロッパ・ユダヤ人の《最終解決》の対象は1千万人のユダヤ教徒ユダヤ人のみであり、ニュールンベルク法によりユダヤ人と規定される者は含まれないと述べている。東方に送られたユダヤ人は男女別に労働可能な者は道路工事などで使役し、そこで生き残った者は生存能力が高いので、それに対応する処置がとられること、ヨーロッパ各地からのユダヤ人の輸送には外務省が保安部とともに組織化にあたること、ユダヤ人混血者が強制輸送を免れるためには、不妊手術が義務づけられること、などが述べられた。会議参加者のアイヒマンの証言によれば、この会議で殺害の方法として毒ガス、チクロンBが使用されることとなった。<大澤武男『ヒトラーとユダヤ人』講談社現代新書 P.205-514>

ホロコースト

 ナチス・ドイツによるユダヤ人大量殺戮をホロコーストという。この言葉は、もとはユダヤ教神殿に捧げられる羊などの供物のことで、1978年にアメリカで放映されたナチスのユダヤ人迫害を描いたTVドラマの題名とされて広まった。ヒトラー・ナチスのユダヤ人政策は、1935年のニュルンベルク法制定から本格化し、はじめは公民権剥奪、国外追放という手段がとられたが、大戦開戦後はドイツの占領地域のユダヤ人に適用され、一時はヨーロッパのユダヤ人のマダガスカルへの強制移住が計画された。そして42年の1月にヴァンゼーで開催されたナチス首脳会議において、「最終的解決」がはかられることとなり、アウシュヴィッツなどの強制収容所でのガス室などによる大量殺戮が決定された。戦争が終わるまでに、ゲットーや各地の強制収容所で餓死、射殺、ガス殺その他の手段で殺されたユダヤ人の数は、560万から590万に上る。ユダヤ人以外にも、ドイツ人も含む精神障害者7万人の安楽死や、ロマ(ジプシー)約50万人が殺されている。<芝健介『ホロコースト ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌』2008 中公新書>

参考 国際ホロコースト記念日 1月27日

 2005年11月1日、国際連合総会(第60回総会)は、ナチス=ドイツによる、ユダヤ人、ロマ人、同性愛者などに対するホロコーストの記憶を忘れないために、1月27日を「国際ホロコースト記念日」とすることを決議した。この日は、1945年にソ連軍がアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所を解放した日である。
 国連総会の決議文には、加盟国に対し、集団殺害の将来の行為を防止するのを助けるためホロコーストの教訓を将来の世代に教え込む教育プログラムを策定することを促すとともに、第3項で、
”全部または一部のいずれかであれ、歴史的出来事としてのホロコーストの何らかの否定を拒絶する。”
としている。ドイツの一部などでホロコースト否定論者の、いわゆる“歴史修正主義”の動きがあることを想定し、国際連合レベルでユダヤ人絶滅政策=ホロコーストの記憶を継承しようというものである。 → 国連広報センターのホームページより 2005/11/1総会決議「ホロコーストの追憶」

ユダヤ人の救出

 ナチス=ドイツによるユダヤ人絶滅政策として行われたホロコーストであったが、戦後になってユダヤ人を危機から救出する動きがあったことが明らかになってきた。それらはホロコーストそのもの阻止する運動ではないので過大に評価することは出来ないが、ヒューマニズムに基づく抵抗によって救われた命もあったことは歴史の事実として記憶すべきことである。
 大きな脚光を浴びたのが1992年にスピルバーグによって『シンドラーのリスト』として映画化されたオスカー=シンドラーの活動であろう。シンドラーは実業家としてユダヤ人を安く雇用しようという動機からではあるが、その立場を利用して1200人のユダヤ人を救った。事実に基づくて映像化されたスピルバーグの作品は、ポーランドのユダヤ人がクラカウのゲットーとプワシェフ強制収容所で受けた想像を絶する苛酷な迫害の実態、思わず息を呑むナチス将校や兵士の蛮行を余すところなく描いており、その再現力にただ敬服するばかりである。
 日本の外交官杉原千畝リトアニアの首都カナウス日本領事館領事代理として、1940年にナチスの迫害を逃れようとしたユダヤ人に日本経由で外国に亡命できるよう、本国の指示に反してビザを発行した。彼は1969年、イスラエルから「建国の恩人」として表彰されたことで日本でも広く知られるようになり、今や教科書でもとりあげられる人物となった。

キンダートランスポート

 1938年11月の「水晶の夜」でドイツにおけるユダヤ人迫害の事実が明らかになった。それをきっかけに、イギリスでユダヤ人の少年少女を救出しようという動きが起こった。この活動は「キンダートランスポート」と言われ、17歳までの子供たちをユダヤ人から預かり、イギリスの里親のもとに送ろうというもので、ドイツ以外にもオーストリア、チェコなどに広がり、ユダヤ人の子供たちが引きとらていった。1939年9月1日、ナチスドイツ軍のポーランド侵攻によって戦争が開始されるまで、約1万人のユダヤ人の子供たちがそれによって救われた。この運動は宗教団体や慈善団体によって行われたが個人の協力も大きかった。戦争が終わり、成人した子供たちは養父母から真相を明かされ、別れ離れになった両親を探しにドイツ、オーストリア、チェコなどに行ったが、そのほとんどは消息がつかめなかった。多くは強制収容所で殺害されたのであろう。
 この事実は戦後長い間忘れられていたが、運動に携わった人たちが高齢化していく中で、すこしずづ事実が明らかになってきた。そのときに子どもで救出された実体験者であるヴェラ=ギッシングや、約600人を救ったイギリス人のニコラ=ウィントンの本が出版されたことで、広く知られるようになっている。<ヴェラ・ギッシング/木畑和子訳『キンダートランスポートの少女』2008 未来社>
 日本でも知られるようになり、実教出版『新訂版世界史B』のコラムで取り上げているが、他の高校世界史教科書では紹介されていない。

NewS ベルリンでキンダートランスポート記念式典開催

 2017年11月23日、ドイツ連邦外務省のリヒトホーフで、いわゆるキンダートランスポートを忍ぶ記念式が行われた。ベルリンのフリードリヒシュトラーセ駅前には、キンダートランスポートによって助かった子供と、後に強制収容所に送られて殺害された子供とを対置させた印象的な記念碑「生への列車−死への列車」が置かれている。同じような式典は、イギリスでも行われている。NewsDigest ドイツの町のレポートより

ジェノサイド条約

 ナチス=ドイツによるユダヤ人絶滅政策は、ニュルンベルク裁判において組織的な犯罪行為として断罪された。その時はじめて、ジェノサイドという言葉が用いられた。ジェノサイド Genocide とは、種族集団を意味するギリシア語 genos と殺害を意味するラテン語 cide を組み合わせた造語で、ユダヤ系ポーランド人法学者ラファエル=レムキンが最初に用い、集団殺害を意味する用語として定着することとなり、1948年12月に、国連総会で「ジェノサイド(集団殺害)の防止ならびに処罰に関する条約」(ジェノサイド条約)が締結され、1951年に発効した。これは、ユダヤ人虐殺という歴史的事実を認定し、反省するとともに二度と同じようなことが起きないように国際法として制定されたものであった。
 ジェノサイド法は冷戦下ではなかなか実効あるものとはならなかったが、20世紀末の地域紛争の多発の中で実際に適用されるケース(ボスニア内戦ルワンダ内戦ダルフール紛争など)が出ている。