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コンゴ自由国

ベルリン会議の結果、1885年にベルギーのレオポルド2世の個人領として成立。「自由国」とはベルリン条約でコンゴ川流域を自由貿易圏とする、と定められたことからイギリスがそう呼んだ。実際にはレオポルド2世が象牙、ゴムの利益を独占し、苛酷な収奪が行われ黒人に大きな被害があった。その非人道的な搾取に対しては国際的にも批判が強まり、1908年、ベルギー政府が管理するベルギー領コンゴとなった。1960年、独立しコンゴ民主共和国となる。

コンゴ自由国
コンゴ自由国の黒人を苦しめる
レオポルド2世(『パンチ』誌)

ベルリン会議

 アフリカ大陸の中央部、赤道直下にあたるコンゴ川流域の広大な熱帯性雨林の地域がひろがっており、その河口一帯には、14~19世紀にコンゴ王国が栄えていた。15世紀にポルトガルが進出し、黒人奴隷の供給源となったが、16世紀に内陸部で激しい抵抗に遭い、その支配は海岸部にとどまった。
 19世紀後半になって新たにベルギーレオポルド2世が領有をこころみ、スタンリーに探検させ、内陸部に支配を及ぼした。このベルギーの西アフリカ侵出は先行していた帝国主義列強を刺激したため、1884年~85年にビスマルクの調停によりベルリン会議が開催され、その結果、レオポルド2世の個人領として承認され、それを機に1885年4月30日にコンゴ自由国と改称し、レオポルド2世を国王として成立した。

「自由国」の意味

 「コンゴ自由国」は正式には、L'Etat Indépendant du Congo である。公用語とされたフランス語で表記され、それは正しくは「コンゴ独立国」であり、「自由」という語句は含まれていない。それをなぜ日本では「コンゴ自由国」と言うのか。それは、イギリスでこの国を The Congo Free State と言い換えたからであり、イギリスの影響が強かった日本がそのまま「コンゴ自由国」と訳して定着したから、である。ではなぜイギリスが「自由国」と言い換えたか、また自由の意味は何か、ということになるが、それはイギリスがベルリン会議で締結されたベルリン条約第1条で、コンゴ川流域は自由貿易とすると定められていることを意識したためであった。つまりこの「自由」とは住民に自由が保障されたという意味ではなく、「自由貿易」が行われる国、を意味する。イギリスは、自由貿易圏であるコンゴ川流域・コンゴ盆地にも経済的な進出を意図していたのだったが、実際にはレオポルド2世が排他的に植民地経営を行い、イギリスは排除されたので、イギリスには強い不満が残った。
Cartoon by British caricaturist 'Francis Carruthers Gould' depicting King Leopold 2, and Congo Free State

「私有地 人道主義者立ち入り禁止 コンゴ国」と書いてある扉の前に立つレオポルド2世。扉の上にはドクロが置かれ、下には切りとられた手首が描かれている。イギリスの風刺画(1906年) Wikimedia Commons による

レオポルド2世の個人領

 レオポルド2世は、隣国オランダ王国が、1870年代までにジャワ島コーヒー政府栽培制度と呼ばれる方式で生産し、利益を得ていることに刺激を受け、コンゴ自由国を厳しく収奪し、特に象牙とゴムを現地人から取り上げ、自らの富としていった。コンゴ自由国の植民地支配はアフリカで最も残虐を極めたという。後に国際的な非難を受け、レオポルド2世はやむなく1908年8月にベルギー王国の国歌としての殖民地「ベルギー領コンゴ」とすることに同意した。 → アフリカ分割 アフリカ諸国の独立
国王の「個人領の国」とは 中世の封建社会ならまだしも、近代世界で国王が個人的に所有する国なんてありうるのか、理解に苦しむところであるが、ベルリン会議でのビスマルクの判断は、イギリスやフランスの植民地とすることは出来ないが、さりとてベルギー王国の植民地とするも出来ない、ならば、国王の私領と言うことを落としどころにしよう、と考えたのであろう。国家のもつ植民地と国王の私領ではどう違うのだろうか。このことはわかりにくいが、次のように説明されいる。
(引用)コンゴ自由国は奇妙な国家であった。レオポルド2世はベルギーとコンゴ自由国という二つの国家の元首を兼ねることになったが、立憲君主制をとるベルギーとは全く異なり、コンゴ自由国は彼の私有領としての性格をもっていた。彼はコンゴの「所有者」だと宣言し、1890年に公開された遺言状では、コンゴに対する「主権」をベルギーに遺贈すると述べている。王の所有物としての国家とは中世さながらの考え方であるが、コンゴ自由国は、ベルギー政府が何の責任も権限もない形で、1908年まで統治されることとなった。<『新書アフリカ史・改訂新版』2018 講談社現代新書 p.365>

Episode 「地獄の黙示録」のモデル『闇の奥』

 ポーランド生まれのイギリス人作家コンラッドは、彼自身が1890年頃のコンゴ自由国を船員として訪問した経験に基づいて『闇の奥』を書いた(1899)。鬱蒼としたジャングルの中で行われていた国王代理人の植民地支配者によるアフリカ人に対する苛酷な搾取、それを「文明」の名のもとに平然と強制するヨーロッパ人。しかし現地の支配者は、もはや理性を無くし国王のように振る舞いながら、精神の平衡を失っている・・・。この作品は当時のコンゴ自由国の現実をよく伝えているだけでなく、欲望や理性がジャングルの闇のなかに呑み込まれ、狂気に向かっていくという人間そのものを描いている。コンラッドが自らの体験を文学に昇華させた作品として高く評価されているが、コンラッドが見た闇の奥には何があったのか、という謎解きにもなっている問題作として、今も読み継がれている。翻訳では岩波文庫(中野好夫訳)、光文社古典新訳文庫(黒原敏行訳)、三交社版(藤永茂訳)、グーテンベルク版(石清水由美子訳)、新潮文庫(高見浩訳)などがある。
参考 このコンラッドの『闇の奥』をベースに、場所をベトナムのジャングルに変えて、コッポラ監督が映画化したのが『地獄の黙示録』(1979)である。その壮大かつ精密な戦闘シーンの映像は圧倒的で高い評価を受け、興行的にも大当たりしたが、かんじんの原作『闇の奧』の「闇」の本質に迫ることが出来たか、についてはさまざまな議論がある。コッポラ監督も満足いかない部分があったらしく、2020年にラストシーンを変更してファイナルカット版を発表している。この点に関して、文学『闇の奧』と映画『地獄の黙示録』について幅広い議論をしている<藤永茂『「闇の奧」の闇』2006 三交社>が参考になる。 → 後述

コンゴ自由国の植民地支配

 「闇の奥」であるコンゴ川の奥地で展開されいたのは、一握りの白人支配者が、黒人を何日もジャングルを歩かせてゴムと象牙を集め、量が少ないと激しい拷問を加えるという実態だった。この有様はイギリス人のモレルが1906年に『赤いゴム』という本で暴露し、国際的なスキャンダルとなった。その世論がベルギー政府を動かし、「コンゴ自由国」を政府によるベルギー領コンゴの植民地支配に転換させた。
コンゴ自由国でのゴム コンゴの熱帯雨林ではゴムの木が自生していた。コンゴ自由国は、現地人の間には土地所有の概念がないことにつけこみ、ジャングルを国有地とし、現地人から徴収する人頭税をゴム原液で納めさせた。つまり対価を払うことなくゴムを手に入れたのだった。南米大陸原産で、イギリスによって東南アジアにもたらされたゴムの木は真っ直ぐ伸びる立木であり、ゴム畑を作ることが出来たので採集は容易だったが、アフリカのジャングルに自生するゴムの木は蔓性で高く伸びた大木に絡まっているので採集は困難で命がけだった。しかし、コンゴ自由国にとって好都合だったのは、自転車の車輪に使われていたゴムが19世紀末に自動車用のタイヤとして用いられるようになったことで、爆発的に需要が伸びたことだった。1890年には100トン程度であったコンゴ自由国のゴム輸出量は、1896年には1300トンに、1901年には6000トンに拡大し世界総生産量の10分の1を占めるに至った。ヨーロッパ、アメリカでの自動車の急速な普及を支えたゴムのかなりの部分は、コンゴ自由国の黒人の無償労働で生産されたものであった。<『新書アフリカ史・改訂新版』2018 講談社現代新書 p.366-368 などによる>
「闇の奥」での大虐殺 レオポルド2世のコンゴ自由国では、黒人が強制的に象牙やゴムの採集、運搬に使役されていた。黒人集落から働ける人間を狩り出し、逃亡させないため「公安軍」が作られていた。公安軍は白人が指揮官となり、コンゴ以外の黒人が兵士に採用された。公安軍は常に黒人の抵抗を恐れ、反抗する者は容赦なく撃ち殺した。しかし銃火器の使用は、白人側に黒人の反撃だけでない、もう一つの悩みをもたらした。それは銃弾が盗まれることだった。銃弾の数を厳しく管理するため、公安軍幹部は人を殺すのに使った弾の数に見合う証拠として、死人の右の手首を切り落として提出することをを黒人兵士に命じた。銃弾一発につき切断した手首一つ、というわけだが、この「おぞましくも卓抜なアイディア」はどんな結果をもたらしたか。黒人兵士は銃を使わずに、生きたままの人間の手首を切りとって提出し、その分の銃弾をせしめたのだった。「わざわざ殺さずとも、過労から、飢餓から、病気から、人々は死んでいった。生きたまま右手首を切り落とされる者も多数に上った。銃弾と引き換えるための手首に不足はなかったのだ。」<藤永茂『『闇の奥』の奧』2006 三交社 p.77-78>
 コンゴ自由国でこのような残虐行為が行われていることは、ベルギー本国でも、ヨーロッパ各国でも知られることはなかったが、1900~03年、イギリス人宣教師ジョン・ハリスの妻アリスが、当時普及するようになって間もないイーストマン・コダック社のカメラで秘かに撮影し、1904年にアメリカで発表したため白日の下にさらされることになった。右手首のない黒人、さらに切り取った右手首を持つ黒人兵士の写真は、衝撃を与え、コンゴ自由国での残虐行為や強制労働の実態が次々と明らかにされ、レオポルド2世に対する非難が高まるきっかけとなった。
(引用)レオポルド2世のコンゴ自由国の公安軍の実体がコンゴの原住黒人たちを、現地で、想像を絶する苛酷さの奴隷労働に狩り立てる暴力組織であったことはすでに述べた。これに加えて、レオポルドに収益の5割を差し出すという条件をのんでコンゴの冨の搾取に加担した一群の民間会社も、それぞれに同じような子飼いの武装集団を持ち、それを各地に送って、集落を襲わせ、人質を取り、男たちに奴隷労働を強いた。コンゴ自由国という名の私有地を持つベルギー国王レオポルド2世の私腹と彼と結託した各民間会社の金庫はいやがうえにも膨れ上がり、それに反比例して、コンゴの先住民社会は疲弊し、荒廃し、その人口は激減していった。……正確な数字の決定は望めまい。しかし、1885年から約20年の間にコンゴが数百万の規模の人口減を経験したのは確かであると考えられる。<藤永茂『『闇の奥』の奧』2006 三交社 p.81>
 『『闇の奥』の奧』を書いた藤永茂氏は、この章の終わりで、コンゴ自由国での大量虐殺について、驚くべきことにアフリカ人以外の人はほとんど知らないという事実こそ、もっとも異様なことに思われる、と書き、この惨劇からわずか40年後に生起したユダヤ人の受難が誰にでも知られているのに比べて「コンゴ人の受難がほぼ完全に忘却の淵に沈んでしまった理由を、今こそ私たちは問わなければならない。」と締めくくっている。 → ジェノサイドの項を参照

『赤いゴム』による告発

 レオポルド2世はコンゴ自由国での惨状を隠蔽するため、厳しく情報を統制し、マスコミを操縦して、自らの責務はコンゴを文明化し、人々を豊かにすることであり、人道的な行為であると宣伝した。しかし、少しずつ実情が明らかにされ、コンゴ自由国に対する非難が強まっていった。レオポルド2世を非難する声をあげたジャーナリストは何人かいるが、その中で最も厳しい批判を展開したのはイギリス人のモレルだった。彼はアントワープでベルギーとコンゴ自由国の貿易を調べるうちに、異様なことに気がついた。コンゴ自由国はベルギーに厖大なゴムを輸出しているのに、輸入はごく少量で、しかもそれは銃と銃弾などがほとんどだった。このような貿易の極端な不均衡がどこから来ているのかを調べるうちに、コンゴ自由国でのゴム生産が、現地黒人が税という名目で対価が支払われることなく、強制的に収奪されている、という事実だった。モレルは虐殺行為は表面に現れた問題であり、問題の本質はレオポルド2世が編み出した実質的な現地黒人奴隷制度というシステムにある、ということに気づいたのだ。モレルはそれを「赤いゴムのシステム」とよび、他のジャーナリストの助けも借りながら、1900年7月から『コンゴ・スキャンダル』と題するシリーズ記事として発表した。それによって「赤いゴム」がレオポルド2世のコンゴ自由国における非人道的な搾取を意味することばとして用いられるようになった。
 そのころ、イギリス政府も、レオポルド2世がベルリン会議で約束した自由貿易を履行せず、ベルギーの特許会社だけにゴムを扱わせて冨を独占していることへの批判を強めていた。イギリス領事としてコンゴ自由国に派遣されたケースメントは、妨害にめげず調査を行い、モレルと同じように問題の本質は現地徴用の奴隷制度というレオポルド2世が編み出したシステムにあると見抜いた。ケースメントは帰国して詳細な報告書を提出、その中で手首切断の事実もとりあげ、それが野蛮な故の行為ではなく、政府軍のルールからうみだされたことに問題があることも指摘した。この報告書の過激さに驚いたイギリス政府は、内容を薄めて発表したが、それに対してもレオポルド2世は虚偽であると抗議してきた。
コンゴ自由国の終わり モレルとケースメントは協力し合い、レオポルド2世の虚言を次々と明らかにし、追い詰めていった。1906年にはモレルは『赤いゴム』を出版し、それはベストセラーになった。イギリス議会もレオポルド2世に対する非難決議を採択した。国際的にも非難が広まったことを受け、1908年、ベルギー議会も問題を取り上げざるを得なくなり、国王レオポルド2世にせまり、ついにコンゴ自由国は国王の私領から国家が管理する植民地として経営されるベルギー領コンゴへと転換することに同意させた。

参考 『闇の奥』をめぐって

 通常、コンゴ自由国に対する告発の書の一つとして、1899年に発表されたイギリスの作家コンラッドの『闇の奥』があげられる。しかし藤永茂氏は『『闇の奥』の奧』(2006)でそれに疑義を表明した。コンラッドの作品は悲惨なアフリカの実体とその中で理性を無くしていく白人を描いているが、本質的な植民地支配の問題を捉えていない、という指摘だ。それは1975年にナイジェリアの作家アチュベがアメリカのマサチューセッツ大学での講演で、コンラッドの『闇の奥』には人種差別主義が根幹にある、という批判をしたことをもとに展開し、『闇の奥』を高く評価するドイツの哲学者ハンナ=アーレントや、それをモチーフに映画『地獄の黙示録』を作ったフランシス=フォード=コッポラにも底流として人種差別意識が存在している、と指摘した。藤永氏はヨーロッパ人の意識の根底にあるアフリカ人やアジア人に対する差別感を問題にしているのだ。氏は1926年生まれの原子物理化学者でカナダのアルバータ大学教授を長く務めながら、アメリカのインディアンの歴史と現状を知り、1974年に『アメリカ・インディアン悲史』を発表している。実に息長く、そして差別された人々を歴史家以上に鋭い分析を加えている。詳しくは同書を読むか、氏のブログをご覧下さい。 → 私の闇の奥 藤永茂ブログ
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書籍案内

宮本正興/松田素二
『新書アフリカ史改訂新版』
2018 講談社現代新書

ジョセフ・コンラッド
高見浩訳
『闇の奧』
2022 新潮文庫

藤永茂
『闇の奧』の闇
2006 三交社

著者はカナダのアルバータ大学名誉教授で原子化学が専門。インディアンの歴史研究でも知られている。『闇の奧』論だけでなくコンゴ自由国とは何だったか知る上でも参考になる。