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スタンリー

19世紀後半のアフリカ、特にコンゴ探検で知られるアメリカ人。1871年、リヴィングストンを救出して有名となる。その後コンゴ川流域を探検、ベルギーのレオポルド2世のコンゴ自由国設立に協力した。

 イギリス生まれでアメリカの新聞の特派員としてアフリカに派遣され、1871年リヴィングストンを救出して有名になったアフリカ探検家。1873年にアフリカに戻り、タンガニーカ湖やヴィクトリア湖周辺を探検、1877年にはヨーロッパ人として初めてコンゴ川上流から河口まで下ることに成功し、コンゴ地方の状況を伝えた。1878~84年はベルギーのレオポルド2世に派遣されて再びコンゴ地方を探検。王の代理として首長たちと貿易独占条約を締結し、コンゴ自由国設立に協力した。1887~88年にはスーダンを探検し、19世紀の欧米人のアフリカ探検では、もっとも輝かしい実績を残した。
 しかし、彼が探検したコンゴ川流域に作られたコンゴ自由国はレオポルド2世の個人領という形態をとり、象牙やゴムなどを得るために現地の黒人を搾取したため国際的非難を浴び、1908年にベルギー領コンゴとしてベルギー政府が管轄する植民地となる。スタンレーの行為はアフリカ分割という帝国主義列強による植民地支配をもたらしたこととなる。

リヴィングストンを救出

 ヘンリ・モートン・スタンリー(1841~1904)は、イギリスのウェールズに生まれ、少年教護施設で成長、17歳で渡米し、アメリカ国籍を取得した。さまざまな職業を転転とした後、ニューヨーク・ヘラルド紙の発行者J.C.ベネットに見出されて記者に抜擢された。ベネットはスタンリーの行動力を高くかい、1869年にアフリカ奥地で消息を絶ったリヴィングストンの捜索、救出に派遣した。リヴィングストンはイギリスの宣教使兼探検家で、キリスト教の伝道と地理的探検のためにナイル川源流の探索などを行い、世界的に知られていたが、1869年にその行方がわからなくなってしまっていた。イギリス王室地理学協会も救出を試みたが不成功に終わっていた。

Episode リヴィングストン博士とお見受けしますが?

 スタンリーは190人から成る探検隊を組織して内陸に向かい、9ヶ月後の1871年11月10日、リヴィングストンが暮らしている村を発見、救出に成功した。スタンリーがリヴィングストンをみつけたとき、Dr.Livingston,I presume? (リヴィングストン博士とお見受けしますが?)といったセリフは、劇的な対面として欧米で広く喧伝された。

コンゴの探検

 1874年、スタンリーは再びアフリカ探検に出発、東岸のザンジバルから西に向かい、ビクトリア湖がナイル川の源流であることを確認し、さらに南西に向かい、大きな川が北に流れているところに遭遇した。スタンリーはそれがコンゴ川上流であると確信して船で下流を目指して北上、300km下って大きな瀑布地帯にぶつかった。後にこの滝はスタンリー滝と名づけられる。そこからゆるやかに西に流れを変えて約3000km、広い川幅の淵までがコンゴ川中流域に当たる。そこから河口までの間にはもう一箇所の大瀑布地帯があり、そこは陸上を踏破、再び航行できる流れに出て、1877年の夏、コンゴ川河口に到達した。

レオポルド2世に協力しコンゴを植民地化

 スタンリーはコンゴ川全流域をイギリスの植民地にして祖国に歓迎されることを期待していたが、イギリスは1877年当時は南アフリカ方面でのボーア人との対立が厳しくなっていたため、コンゴに関心を示さなかった。かわりにスタンリーのコンゴ探検成功のニュースに最も強い関心を示したのがベルギーのレオポルド2世だった。かねてヨーロッパの列強に対抗して植民地を獲得したいと願っていた国王は、スタンリーに急きょ接触し、1878年、協力を申し入れ、両者は緊密に連絡しながらコンゴ川流域の植民地化の可能性を探った。翌1879年からスタンリーはレオポルド2世の命令を受けて5年間の契約でアフリカに赴き、1880年には道路建設に着手した。難航時の末、道路を完成させ、船を分解して運び、瀑布の上流で組み立てて川に浮かべ、中流を航行出来るようにした。その後、スタンリーは現地で植民地化のためのインフラ整備につとめ、1884年までにレオポルド2世の命を受けて先住民の王や首長の450人以上との間で、この地をレオポルド2世が設立した「コンゴ国際協会」に委ねるという“条約”を締結していった。スタンリーは交渉に際して機関銃や大砲で武装した軍を編制し、威圧した。

ベルリン会議とコンゴ自由国承認

 このようなレオポルド2世のコンゴ川流域への侵出は、ようやく他の列強が強く警戒するようになった。1884年、ドイツ帝国の首相ビスマルクの調停により、ベルリン会議が開催されると、レオポルド2世はイギリスとフランスの対立を巧みに利用し、また他の列強も小国ベルギーの国王の私領としてであるならという意見に傾き、結局承認された。スタンリーもアメリカの世論を承認に導く上で働いた。その結果、コンゴ川流域を私領として支配することが認められたレオポルド2世は、1885年に「コンゴ自由国」とし自ら国王となった。
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