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ベルギー

ベネルクス3国の一つ。1830年にオランダから独立。オランダとフランスに挟まれ、両言語圏からなる連邦制をとる立憲君主政国家。小国であるが、現在はヨーロッパ連合の中心という重要な位置にある。

ベルギー GoogleMap

 中世ネーデルラントは毛織物産業で繁栄、16世紀からはスペイン領となる。その北部がオランダとして独立した後も南部10州はスペイン領として残り、後のベルギーの母体となる。17世紀にはフランスの侵略を受け、スペイン継承戦争の後、オーストリア領となる。フランス革命・ナポレオン時代にはフランスに支配されるも、1815年のウィーン会議の結果、オランダに併合された。ウィーン体制の時代、独立運動がおこり、1830年にベルギー王国として独立。独自の中立政策を維持しながら産業革命を達成、アフリカ進出を行うも、20世紀の二度の世界大戦でいずれも国土をドイツ軍に侵攻され、戦後はアフリカ植民地も失う。ベネルクス3国の一つとしてヨーロッパ統合の中心となるが、国内には深刻な言語の違い(フランデレン問題)を抱えている。


ベルギー(1)

古代から中世へ

 ベルギーという地名はローマの属州ベルギカによるが、国名となるのは1830年の独立以降のことである。カエサルの『ガリア戦記』によればこの地にはケルト人が居住していたが、カエサルのガリア遠征によって征服され、次第にローマ化・ラテン化された。
 3世紀ごろからゲルマン人の大移動が始まり、フランク人が作ったメロヴィング朝のフランク王国の領土となった。カール大帝死後の843年のヴェルダン条約では、フランドル地方西フランクに入れられたが、現在のベルギーの大部分はオランダと共にロタール領となり、次いで870年メルセン条約では現在のベルギーは東西フランクに二分される形となった。

中世のベルギー地域

 中世ではこの地はネーデルラントの南部であり、フランドル(オランダ語ではフランデレン、英語ではフランダース)地方と言われ、フランドル伯の所領となっていた。中世以来、毛織物業が発展しガン(ヘント)ブリュージュ(ブルッヘ)が中心都市として栄えていた。14世紀にはイギリスとフランスの間で争点となり百年戦争の一因となり、その間1384年からはフランドルはブルゴーニュ公領になった。1477年にはブルゴーニュ公シャルル豪胆公が死んで娘のマリーがハプスブルク家のマクシミリアン1世と結婚したためハプスブルク家領となり、さらに16世紀中ごろにはスペイン=ハプスブルク家が支配することとなった。

ネーデルラントの独立とベルギー

 また新航路の発見によって起こった商業革命で経済の中心が大西洋岸に移った結果、アントウェルペン(アントワープ)が国際的な商業港として重要になってきた。スペイン支配に対してネーデルラント北部がユトレヒト同盟を結成して独立運動を開始し、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)として独立を達成(1648年に承認される)したが、ネーデルラントの南半分であるこの地はスペイン領として残り、この南ネーデルラント(南部10州)が現在のベルギーの母体となる。オランダが独立を達成すると国際商業の中心地が首都アムステルダムに移り、アントウェルペンの繁栄は失われた。その後、スペイン継承戦争後の1714年ラシュタット条約(フランスと神聖ローマ帝国の講和条約)でオーストリア=ハプスブルク家の領地とされた。

フランス革命とベルギー

 オーストリア支配に対して、フランス革命に刺激されたブラバンド革命といわれる民衆蜂起が1789年に起こったが、抑えられてしまった。1792年には、フランス革命軍がプロイセン・オーストリアの干渉軍に反撃してベルギーに進撃して、ナポレオン帝政までフランスの占領がつづいた。その没落によって開催されたウィーン会議で、1815年6月に合意されたウィーン議定書では、この地はオランダ立憲王国に併合されることとなった。
 ベルギーを含めてオランダの独立を認めたのは、オーストリアのメッテルニヒやイギリスが、フランスが再び大国化しそうになったときに備えて、それを牽制する意味があった。

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ベルギー(2) 独立と中立化

オランダに併合されたベルギーで、1830年、フランスの七月革命の影響を受けて独立運動が起こり、立憲君主国として独立を達成した。1839年から永世中立国として周辺の列強の緩衝地帯の役割をになうこととなった。

ベルギー王国の独立

 ウィーン議定書でオランダ領とされたベルギーはオランダ立憲王国の支配(保護貿易の強制、教育の統制、公用語オランダ語の強制など)に不満を強め、フランスで七月革命が起こると、ベルギー独立運動に飛び火し、オランダ国王ウィレムに対する自治要求となってあらわれた。国王はそれに対し、ブリュッセルに軍隊を派遣、1830年9月、3日間の戦闘となった。市街戦のさなか25日臨時政府を樹立、29日議会は分離を決定した。1830年10月4日に独立を宣言した。翌1831年1月、ロンドン会議でベルギーの独立が認められ、ドイツの領邦君主ザクセン=コーブルク=ゴータ公レオポルトがレオポルド1世として即位し、立憲君主国として国際的に承認された。
永世中立国  ベルギーに対するフランス、プロイセン(ドイツ)の野望を警戒したイギリスは、1839年にはベルギー永世中立化をねらい、列強との間に条約を締結し、オランダもベルギーを永世中立国として承認した。なお、これによってフランドル地方は北部がベルギー領(フランデレン)となり、南部がフランス領とされることとなった。ベルギーは以前から高い工業能力を有していたので、独立を契機としてイギリスに続いてベルギーの産業革命を達成した。

Episode ベルギーの1830年「音楽革命」

 フランスの七月革命が起こると、8月25日、ブリュッセルのラ=モネ劇場でスペインからのナポリの独立をテーマにしたオベール作曲のオペラが上演され、その最後の場面で「さよなら祖国愛よ、復讐をとげん、自由よ、わが宝、まもりてたたかわん‥‥」と唱われると、観衆が立ち上がってこれに唱和し、街頭に出た群集が暴動を起こした。独立運動はたちまち全土に広がり、ついに独立を勝ち取った。

押しつけられた君主制

 1830年に独立したとき、ベルギーは立憲君主政を採り、ベルギー王国となった。現在もベルギーは君主国である。これには次のような事情があった。「音楽革命」といわれる民衆蜂起から始まった独立運動だったが、上層の市民は市民軍を組織して暴動を鎮圧し、その代わりにオランダに行政組織の分離を認めさせようとした。しかし、オランダ国王が回答を引き延ばしているうちに急進派はブリュッセル市庁舎を占拠し、国王軍を撃退した。それを見た上層市民も合流し、臨時政府を樹立し10月に独立を宣言した。独立後、国民議会が臨時政府によって召集され、政体と憲法を定めることとなった。国民議会の大勢は共和制を望んだが、ベルギーの独立を認めるかどうかで12月に開かれた列強のロンドン会議では、君主制をとるようにという圧力が強く、ベルギーは列強による独立の承認といわば引き替えに、君主制という政体をのまされたのである。国王として誰を迎えるかについても、国民議会はフランスのルイ=フィリップの次男を希望したが本人に断られ、あらためてドイツの領邦君主ザクセン=コーブルク=ゴータ公レオポルトを推し、レオポルド1世として迎えた。翌1831年に制定されたベルギー王国憲法は、国民主権や国王大権の制限などが規定された、立憲君主政憲法の模範となるものであった。各国で復活した絶対君主の力がまだ強かった時代で、市民にとってぎりぎりの政体を選択したものといえる。<浜林正夫他『世界の君主制』1990 大月書店 p.75-84> → 立憲君主政

ベルギー(3) 産業革命と資本主義化

1830年代、独立したベルギーは同時にヨーロッパ大陸諸国で最初の産業革命を開始し、工業化を達成した。同時に言語地域の対立とからみ社会問題が深刻となる。1870年代には国王によるアフリカ植民地経営が開始される。

 1830年にベルギーの独立を達成すると同時に、イギリスに次いで産業革命を達成した。ベルギーが他の大陸諸国に先んじて産業革命を開始できたのはフランドル地方を中心とした古くからの商業都市を有し、中世以来の毛織物産業やアントワープ(現在のアントウェルペン)やガン(現在のヘント)、ブリュージュ(現ブルッヘ)などの商業都市において資本が蓄積されており、また南部にはリエージュを中心に石炭などの資源も豊富であったこと、イギリスに最も近く経済的関係が密接であったことがあげられる。1840年代には鉄道の普及もヨーロッパ大陸国家の中で最も早く進んだ。 → ベルギーの産業革命

ベルギー資本主義の抱えた問題

 ベルギーの1830年代に始まる産業革命は、急速にその社会の資本主義化を進めた。それは、ベルギーにとって二つの問題と結びついて、大きな課題となっていく。一つは国内の言語対立が激しくなったことと、一つは小国ベルギーが広大な植民地を抱えることになったことである。
言語問題の深刻化 産業革命は特に南部に工業地帯を生み出したため、リエージュを中心とする地域が経済的にも先進地域となっていった。ところがこの地域はフランスに近く、フランス語系のワロン語を使用する地域であった。ベルギー全体では北部のフランデレン(フランドル)地方のオランダ語系のフラマン語を話す人々が多かったが、産業革命で南部が経済的に優位に立ったこともあって、ベルギーではフランス語系言語が実質的公用語とされた。政治的・経済的に二次的な立場に置かれたオランダ語系のフランデレンの人々の不満が次第に強まってゆき、いわゆるベルギーの言語問題が深刻になっていった。 → ベルギーの言語戦争
植民地問題の深刻化 また、急速に資本主義かが進むとともに、労働者が増加し、労働問題・社会問題も深刻になってきた。そのようなときに国王レオポルド2世が積極的に植民地獲得に動きだし、当初は議会や政府と関係のない、国王個人の事業として始まったものの、その非人道的な植民地支配が国際的な非難を浴びることとになり、ベルギーも国家としての植民地経営に切り替える必要が出てきた。この植民地問題も国内の社会問題と並んで、ベルギーの新たな問題となった。

ベルギー(4) アフリカ侵出

19世紀後半、レオポルド2世はアフリカのコンゴ地方に侵出し、国王私有地としてコンゴ自由国とした。その苛酷な収奪が国際的に非難され、1908年に国家の植民地としてベルギー領コンゴに改められた。その後、第一次世界大戦後に旧ドイツ領を引き継ぎ、植民地大国となる。

 19世紀後半のベルギー国王レオポルド2世は、1878年以来、議会や世論の反対を押し切り、植民地獲得を進めた。ベルギーがアフリカ中央部のコンゴ地方に進出すると、他の列強と利害が衝突したため、1884年~85年、ドイツ帝国のビスマルクがベルリン会議を開催、その結果、レオポルド2世の私的な所有地としてコンゴ自由国の設立が認められた。 → アフリカ分割

コンゴ自由国からベルギー領コンゴへ

 コンゴ自由国は、形式的にはレオポルド2世を元首とする国家であるが、実態は彼の個人領として存在し、現地の黒人に対する過酷な収奪が行われたため、国際的な非難が起こった。そこでベルギーは1908年、コンゴを国家管理に移譲させ、ベルギー領コンゴとして植民地支配を行うこととした。そこではコンゴ自由国のような無法な収奪は禁止され、本国の植民地評議会を通じてコントロールされ、また民間資本による銅資源やパーム油の生産が進んで植民地経済は順調に成長した。
植民地大国ベルギー こうしてフランス・オランダに挟まれた小国にすぎないベルギーが、アフリカに本国の約40倍の領土を有する植民地帝国となった。第一次世界大戦後には、さらにドイツ領であったルワンダ・ブルンジを委任統治領として継承し、アフリカ植民地を拡大した。これらのベルギー領アフリカは、第二次世界大戦後の民族運動の勃興に伴い、激しい独立運動にさらされていくこととなる。コンゴは1960年、ルワンダは1962年に独立するが、植民地支配の“後遺症”は、独立後も民族対立として続くこととなる。 → ルワンダ内戦

ベルギー(5) 世界大戦とベルギー

ベルギーは中立国であったが1914年の第一次世界大戦と、1939年の第二次世界大戦でいずれもドイツ軍の侵攻を受け、その軍事支配を受けた。

永世中立の危機

 ベルギーは1830年に独立を周辺諸国から承認されたが、周辺諸国はいずれもベルギーを緩衝国家として中立化しておくことに期待していた。つまり、フランスとオランダのいずれかがこのフランドル北部を併合して直接国境を接することになると、特にイギリスにとって脅威であると考えられた。そこでイギリスはベルギー独立を認めたが、その条件として立憲君主政であることとベルギー中立化を、いわば押しつけたのだった。
 その後の現実の推移では、中立維持がいかに困難であるかを示す事態が続いた。1870年の普仏戦争でナポレオン戦争以来の戦場となったことに始まり、それ以降は、常にドイツとフランスという二大国間の戦争勃発におびえることとなった。中立を維持するといってもこの二国の戦争となれば、その国土はいずれかの軍隊が侵入することは目に見えていたので、ベルギーも国境での要塞建設や兵員の確保に踏み切ったが、「予算と兵員不足で十分な防衛戦を築くことはできなかった。」そして「1913年には一般徴兵制によってすべての青年に兵役義務を課すことになった。」<『スイス・ベネルクス史』世界各国史14 1998 山川出版社 p.401>

第一次世界大戦

 第一次世界大戦が開始されると、ドイツはシュリーフェン計画にもとづき、フランスに侵攻するため、8月4日、まずベルギーに侵入した。永世中立国ベルギーを侵犯したことは、それまで静観していたイギリスを参戦に踏み切らせた。ベルギー中立化が自国の安全保障上、不可欠であると考えていたイギリスは、もはや対岸の火事とはとらえられなくなったのである。
 ベルギーはドイツ軍の侵攻を前に無抵抗ではなく、国を挙げて迎え撃つ態勢を固めていた。8月4日、ドイツ軍はベルギーに侵入、リエージュに迫り、大量の砲撃と飛行船ツェッペリン号による空爆を加えた。それでもリエージュは16日まで持ちこたえた。<このベルギーの戦いは、バーバラ・タックマン『八月の砲声』1962 山室まりや訳 ちくま学芸文庫 上 に詳しい>
 しかしドイツ軍の装備、兵力は想定を遙かに超えて圧倒的であり、ベルギー軍は海岸近くまで追いやられ、政府はフランスのルアーヴルに避難した。国王アルベール1世は無条件降伏を拒否し、ベルギーはドイツ軍の軍事占領下に置かれることになった。ドイツ軍はベルギー支配のため二言語の対立を利用し、ベルギー政府に対する不満をもつフランデレン地方の独立勢力と手を結んだが、オランダ語の公用語化などの彼らの要求は実現されることはなかった。

第二次世界大戦

 ナチス=ドイツは、1940年5月10日、同時にオランダ・ベルギー侵攻を開始した。国王レオポルド3世は徹底抗戦を決意し、自ら総司令官として指揮を執ったが、わずか18日でドイツに無条件降伏し、捕虜となった。ピエルロを首班とする政府は降服を拒否し、国王の権利を剥奪してロンドンに亡命政権を立て、国内のレジスタンス運動を指導した。ドイツ占領は1944年まで続き、8月から9月にかけて解放された。戦後、レオポルド3世の復位を認めるかどうかは国論を二分する大問題となった。

国王の戦争責任問題

 レオポルド3世は、政府から国王としての権利を剥奪され、ドイツ軍の捕虜の身でありながらヒトラーを訪問し、ナチスに対して好意的な態度をあらわした。44年にベルギーが解放されたが、ドイツ軍は撤退にあたってレオポルド3世を連行し、オーストリアに軟禁した。45年5月、ようやくアメリカ軍によって解放されスイスに移されたけれども、ベルギー国内世論は彼の復帰をめぐって二つに分裂した。北部農民層はカトリック教徒のフラマン人が多く、国王の復帰を支持し、南部鉱工業地域のワロン人は国王の退位を要求した。1950年、国王の復帰を認めるかどうかの国民投票が行われ、57.6%で復帰が支持された。7月に6年ぶりに国王が帰国したが、ブリュッセルの街には「国王万歳」と「国王打倒」の声が入り交じり内乱の危険さえ生じた。その状況を見たレオポルドはついに退位を決意し、翌年に皇太子ボードウァンに王位を譲った。<浜林正夫他『世界の君主制』1990 大月書店 p.81-83>

ベルギー(6) ベルギー領アフリカ植民地の独立

1960年にベルギー領のコンゴが独立したが、その後ベルギーが介入し、コンゴ動乱が深刻化した。

コンゴの独立

 第二次世界大戦後の民族主義の台頭の中でベルギー領コンゴにも独立運動が起こると、ベルギーはフランスのアルジェリアにおける武力統治の失敗を見て、武力による抑圧をあきらめ、独立を承認してその後も経済的関係を維持する方針をとり、1960年に独立を認めコンゴ共和国(現在のコンゴ民主共和国)が成立した。

コンゴ動乱

 しかし、この「早すぎた独立承認」によって生まれたルムンバを中心とした独立政府は、広大なコンゴを統治することに苦慮し、直ちに政治的不安定が始まり、またコンゴの鉱産資源の支配を維持しようとする大資本の後押しを受けたベルギー、アメリカの軍事介入によって、5年にわたるコンゴ動乱に突入することになった。

ベルギー(7) 統合と分離の相克

立憲君主政のもとで言語別の連邦制国家となっている。ベネルクス3国の一つとしてヨーロッパ石炭鉄鋼共同体に参加して以来、ヨーロッパの統合を推進、首都ブリュッセルは現在のヨーロッパ連合の中心となっている。しかし国内にはオランダ語圏とフランス語圏の言語戦争とも言われるフランデレン問題を抱えてている。

ベルギー国旗

ベルギー国旗
黒・黄・赤の三色旗

 現在のベルギー王国 国土は約3万平方キロで、人口は約1000万人。政体は立憲君主制の連邦制。宗教はカトリックが多い。言語はオランダ語・フランス語およびドイツ語の多言語主義を採っている(ベルギー語というのは無い)。ベルギーは1830年に独立したとき、ウィーン体制下で周辺の各国の君主制国家は、独立の条件として君主制であることが強制された。その時、国王として迎えられたのが神聖ローマ皇帝の血統をひく、ザクセン=コーブルク=ゴータ家のレオポルド1世だった。それ以来、ベルギー王家は2014現在のフィリップ1世まで、同家が世襲している。

ヨーロッパ統合

 第二次世界大戦後にはベネルクス三国の一つとしてヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)に加盟し、首都ブリュッセルヨーロッパの統合の中心地となり、1993年発足のヨーロッパ連合(EU)の行政機構である欧州委員会が置かれている。それはこの地がヨーロッパのさまざまな国家に領有されてきたという歴史的な位置にあることに意味がある。また北大西洋条約機構(NATO)本部も1966年にパリからブリュッセルに移され、現在に至っている。

ベルギーの言語戦争、フランデレン問題

 ベルギーが抱える最大の問題は、多言語国家であることである。フラマン語(オランダ語系)地域とワロン語(フランス語系)地域のベルギーの言語戦争が起こり、対立を抱えている。ブリュッセルはフラマン語地域にあるが、住民はワロン語が多かったため、最も熾烈な言語戦争の舞台となった。北部はフラマン語圏(フランデレン地域)でヘントなど商工業が発達した都市が多く、南部はフランス語圏であるがドイツに近接しているのでドイツ語を話す人びともいる。当初はフランス語圏が優勢であったのでフランス語が公用語とされたが、フランデレン地域の住民がオランダ語の公用語化を強く要求するようになったので、フランデレン問題とも言われた。

言語別の連邦制となる

 長い対立を経て、ようやく1993年は「オランダ語共同体」「フランス語共同体」「ドイツ語共同体」の三言語共同体の存在が公認され、ベルギーは
・「フランデレン地域」:オランダ語公用語とする。
・「ワロン地域」:フランス語とドイツを公用語とする。
・「ブリュッセル首都地域」:オランダ語とフランス語を公用語とする。
の三地域がそれぞれ地域政府を持つ連邦制となった。立憲君主国でありながら連邦制という珍しい国家形態をとっているが、ベルギー憲法では、首相を除いた閣僚はフラマン語系とワロン語系を同数とするなどが規定されており、統一維持の工夫がなされている。一応の決着がついた形になっているが、現在でも分離を主張する勢力が活動しており、予断を許さない状況が続いている。
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書籍案内

松尾秀哉
『物語ベルギーの歴史』
2014 中公新書

バーバラ・タックマン
『八月の砲声』
1962 山室まりや訳
ちくま学芸文庫

浜林正夫他
『世界の君主制』
1990 大月書店