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フランドル地方

現在のベルギーとフランス北部にまたがる地方。羊毛・毛織物の産地で、長く英仏の抗争の対象となる。

 フランス語表記ではフランドル、オランダ語表記ではフランデレン。英語ではフランダースという。より広く言えばネーデルラントの南部地域に当たる。ローマ時代には属州ベルギカとなり、5世紀以降はフランク人が支配、フランク王国のなかのフランドル伯領となった。 → 南ネーデルラント

毛織物産業の繁栄

 古くから羊毛の産地であり、毛織物が生産されていたが、11世紀以降はイングランド産の羊毛を原料とするようになって、毛織物産業が大いに栄えた。その中心地がブリュージュ(現在のブルッヘ)で、ハンザ同盟の商館も置かれた。またガン(現在のヘント)も商業都市として栄えた。後の大航海時代の商業革命によってヨーロッパ経済の中心が大西洋岸に移るとフランドル地方の北部のアントウェルペン(アントワープ、アンベルス)はその一つの貿易港として栄えた。

英仏抗争の地

 1328年には、フランス王の重税に反撥した都市の商工業者の反乱が起き、フィリップ6世による厳しい弾圧が行われた。そのため、毛織物業者がイギリスに移り、イギリス毛織物業が盛んになる原因となった。また百年戦争直前にはガン(ヘント)の大商人ジャック=ファン=アルテフェルデが中心となってイギリスと同盟する動きがあり、フランスは強く警戒した。このようにフランドル地方はイギリス・フランス間の抗争地となり、1339年に始まる百年戦争の一因となった。
ブルゴーニュ公の領地となる 1384年にフランドル伯が死去すると、娘マルグリットの夫のブルゴーニュ公(本領はフランス中東部のブルゴーニュ地方)であるフィリップとの共有地となり、ブルゴーニュ公の支配がフランドルにも及ぶことになった。百年戦争が進行していく中でフランドルを領有するようになったブルゴーニュ公は、フランドル地方と結びつきの強いイギリスと組んで、ヴァロワ朝と対抗するようになっていった。

ハプスブルク家領となる

 ブルゴーニュ公はフィリップ(豪胆王)―ジャン(無畏王)―フィリップ(善良王)―シャルル(大胆王)  しかし、ブルゴーニュ公シャルル(豪胆公)が死ぬと男子が無く、1477年公女マリーが北部のネーデルラントとともにフランドルを相続、そのマリーがハプスブルク家マクシミリアンと結婚したため、ハプスブルク帝国領となった。その後はマクシミリアンとマリーの子のフィリップが相続、フィリップがスペイン王女ファナ(フェルナンド5世とイザベルの娘)と結婚したので、その子カルロス1世(神聖ローマ帝国皇帝カール1世)に受け継がれた。カルロス(カール)の引退後、ハプスブルク家がオーストリアとスペインに分かれると、ネーデルラント・フランドルはともにスペイン・ハプスブルク家のフェリペ2世領となった。15~16世紀はルネサンスの時期に当たっており、フランドル地方は絵画で革新的なフランドル派といわれるファン=アイク、ブリューゲルなどが輩出した。

オランダの独立に加わらず

 フランドル地方はカトリック信仰心が強く、1568年に北部のネーデルラントで独立運動が起こり、最終的に1648年に独立が承認されネーデルラント連邦共和国(オランダ)が成立してからも、スペイン領に留まった。南ネーデルラント(ベルギー、ルクセンブルク含む)は、スペイン継承戦争後の1714年ラシュタット条約(フランスと神聖ローマ帝国の講和条約)でオーストリア=ハプスブルク家の領地となった。

オランダへの併合とベルギー独立

 ナポレオン時代にはフランスに編入されたが、ウィーン会議によるウィーン議定書でオランダに併合される。オランダの一部となったベルギーでは民族主義の高揚という19世紀の機運の中で1830年にオランダからベルギー王国として独立して、はじめて独立国家となった際、ほぼフランドルは北部をベルギー、南部をフランスに分割された。 → 現在のベルギー王国   ベルギー言語戦争  フランデレン


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フランドル派

14世紀にフランドル地方で興った、美術史上の一つの傾向。ファン=アイク兄弟が油絵技法を発明し写実的な画風を確立、16世紀にブリューゲルが現れ、17世紀のバロック美術時代にルーベンス、ファン=ダイクが活躍した。

 ルネサンス期の14世紀末にフランドル地方(ネーデルラントの一部。現在のベルギー)で起こった絵画の一派。フランドル地方は毛織物業が発達し、ヘント(ガン)ブリュージュなど商業都市が繁栄していたことが、職業的な美術家が輩出した背景にあると考えられる。ルネサンス絵画というとフィレンツェを中心としたイタリア絵画がまず思い出されるが、それ以外にも、このネーデルラントやフランス、ドイツのいわゆる北方ルネサンスが同時期に展開していたことを忘れないようにしよう。

フランドル派の三巨匠

ファン=アイク兄弟 まず14世紀末から15世紀にかけてファン=アイク兄弟(ファン=エイクとも表記)が油絵技法を改良し、独自の写実的な画風を確立し、イタリア絵画にも大きな影響を与えた。作品には兄弟の合作の『ヘントの祭壇画』(1435) がよく知られている。弟のヤン=ファン=アイク(1390?-1441)の『アルノルフィニ夫妻の肖像』1434 はブリュージュ(ブルッヘ)に派遣されたメディチ家の商人夫妻を描き、ネーデルラントの毛織物業の繁栄を伝えている。
ヒエロニムス=ボッス 15世紀末から16世紀初頭に活躍したヒエロニムス=ボッス(1450?-1516)はフランドル派画家のなかでもファン=アイクや次のブリューゲルと並んで三大巨匠と言われるが、最も個性的で異色の画家として知られる。オランダの地方都市で生涯をすごし、その絵は一見して忘れられないような、奇怪で寓意に充ちている。彼が描いたのは怪物がうごめく地獄世界であり、キリスト教の人間の悪徳に対する懲罰というテーマに基づいているが、徹底的に写実から離れたその画風は、20世紀のシュールリアリズムを予告しているとも見ることができる。
ブリューゲル 16世紀にはブリューゲル(1525/30-1569)が現れた。イタリア旅行の後にフランドルに戻り、アントワープとブリュッセルで活躍した。ボッスの寓意画を継承しながら、より写実的な描写で、豊かな農民生活に題材を求め、『冬の景色』、『子どもの遊び』、『結婚祝い』、『百姓の踊り』などフランドルの人びとを描き、後の風景画にも大きな影響を与えた。また寓意画としては大作『バベルの塔』が知られている。ブリューゲルは、北方ルネサンスの最後を代表する画家ともされている。

フランドル絵画その後

 フランドル絵画以外の北方絵画(北方ルネサンス)にはドイツのデューラー、クラーナハ、ホルバインなどがいる。また、オランダでブリューゲルが活躍していた頃、イタリアではルネサンス絵画に代わりマニエリスムと言われる様式が起こり、さらに17世紀からはバロック美術の時代となる。バロック絵画の時代、ネーデルラントにはルーベンスとその弟子ファン=ダイクが活躍している。
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