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ネーデルラント

西ヨーロッパ大陸北西部。ほぼ現在のオランダ、ベルギーを中心とした広い範囲を指す地域概念であるが、その地域の国家主権は一定ではなく、時代によって異なるので注意を要する。狭い意味では現在のオランダを指すが、世界史用語としては広い意味で用いられることが多い。

  Nederlanden ネーデルラント(オランダ語。ランドではないことに注意)とは、現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクのベネルクス三国に北フランスを加えた広い範囲を指す地名であり、ライン川、マース川、スヘルデ川などの下流にあたるので「低地地方」の意味がある。現在ではネーデルラントは、より狭い地域に限定され、ホランド州を中心とした北部ネーデルラントのみを指し、正式国号の英語表記は Netherlands となっている。なおこの国を日本ではオランダといっているが、中心州の名前であるホランドが国号として通用していたので、それが江戸時代にポルトガル人によって伝えられてから、そのままになっているためである。南部はベルギー、東南部はルクセンブルクとして分離している。
 なお、 Nederland はオランダ語でヨーロッパ内の国土を意味し、 Nederlanden はその複数形で、現在の海外領土を含めてのオランダ王国を意味する。
・16世紀~18世紀の詳細についてはネーデルラント連邦共和国の項を参照。
・独立から現代の詳細についてはオランダの項を参照。

(1)ローマ時代~フランク王国

ローマ時代

 紀元前にはこの地の北部にはバタヴィア人(ゲルマン系)など、南部にはベルガエ人(ケルト系)などが居住していた。カエサルのガリア遠征によって、南部のベルガエ人はローマに服属し、前15年には属州ガリア・ベルギカが置かれた。こうしてネーデルラントの中間を流れるライン川がローマ帝国の境界となった。

フランク王国領

 ゲルマン人の移動の一環として、3世紀末にフランク人がライン東岸からネーデルラント南部に移り住みフランク王国を建国、次第にその領域を広げ、8世紀末のカール大帝はネーデルラント北部をサクソン人から奪い、ネーデルラントは全域がフランク王国に含まれることとなった。フランク王国はローマカトリックに帰依したので、この地にもキリスト教が広がった。

フランク王国の分裂

 843年のヴェルダン条約でフランク王国が三分裂した際は、大部分はロタール領となり、南西部のフランドル地方は西フランク領となった。870年のメルセン条約ではスヘルデ川(ベルギーの中部を流れる)を境として西フランク(フランス)、東フランク(ドイツ)が分けられた。

(2)毛織物業と干拓

毛織物産業の発展

 ネーデルラントはほぼ10世紀以降、北部は神聖ローマ帝国、南部はフランス王国領のフランドルとなった。実際にはブラバンド公、ホラント、フランドル伯などの諸侯領、ユトレヒト司教領などの封建諸侯が分立し、統一的支配者はいなかった。その間、ドーバー海峡を越えてイングランドから羊毛を輸入し、毛織物産業が盛んとなり、フランドル地方にはブリュージュ、ガン(ヘント)など商業都市も興った。
干拓の進行 産業の発達に伴って人口も増加し、土地が不足するようになったため、13世紀からは北海に面した低地を干拓する事業が始まった。→ オランダの干拓

ブルゴーニュ公国領

 14世紀末、フランドル地方は婚姻関係によってブルゴーニュ公(本拠はフランス南東部のブルゴーニュ地方)の所領となり、ブルゴーニュ公国は勢力をネーデルラント全域に拡大してフランス王と対抗する力を持つようになった。すでにフランドルの毛織物地帯に勢力を伸ばすことを目指したイギリスのエドワード3世がフランスに侵攻し、百年戦争が始まっていたが、ブルゴーニュ公はイギリスに協力しフランス王と戦った。

ハプスブルク家領となる カール5世の統治

 1477年、ブルゴーニュ公シャルル大胆王の王女マリアがハプスブルク家マクシミリアンと結婚したため、ハプスブルク家の所領となりなった。二人の間に生まれたフィリップ(美王)は、スペインの王女ファラと結婚し、カールが生まれた。二人の間でネーデルラントの都市ガンで生まれたカールは1516年にはスペイン王(カルロス1世)となり、19年には神聖ローマ皇帝に選出されてカール5世となった。つまり、ネーデルラントはハプスブルク帝国の中核として重要な地域となった。

大航海時代・ルネサンス・宗教改革

 カール5世の時代は大航海時代が始まっていたが、スペイン領は新大陸・アジアに広がり、それらから運ばれる物資はポルトガルのリスボンを経てネーデルラントの南部のアントウェルペン(アントワープ)に運ばれた。そのためネーデルラントの諸都市は北イタリアの諸都市に代わってヨーロッパ経済圏の中心地となった(商業革命)。
 商工業の発展を背景として、この地はルネサンスの一つの中心地として重要であり、美術や思想界で新しい動きが生まれた。また商工業の発展を背景に宗教改革がこの地にも浸透し、16世紀中期からは商人層にはカルヴァン派の新教徒が増えてきた。


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(3)スペインからの独立運動

スペインからの独立運動

 1556年にハプスブルク家がスペイン系とオーストリア系に分かれてからは、スペイン=ハプスブル家の領土となった。本国のスペインのフェリペ2世は旧教政策を採って新教徒に対する弾圧を強めた。それに対して、経済的自立と宗教の自由を求めるネーデルラントの人びとは1568年に独立戦争を開始した。これはカルヴァン派の多い北部7州のオランダ独立戦争に転化していった。スペインとの妥協を望むカトリックの多い南部に対して、北部諸州が対立し、内戦状態となると、スペインはこの分裂に乗じて南部を懐柔、南部はアラス同盟を結成してスペイン国王への服従を誓った。

北部7州の独立

 これに対して北部7州はユトレヒト同盟を結成、オラニエ公ウィレムを総督として1581年ネーデルラント連邦共和国の独立を宣言した。ネーデルラント連邦共和国はオラニエ公が世襲の総督となった。1609年に12年間の休戦協定を成立させて事実上の独立を達成した。その後戦闘は再開され、三十年戦争の終結時の1648年ウェストファリア条約で国際的に独立が承認され、八十年戦争とも言われる長い戦いが終わり、北部は独立と信仰の自由を獲得、その首都となったアムステルダムが国際商業の中心地として繁栄するようになった。南部10州はスペイン領にとどまり、後のベルギーへとつながっていく。 → オランダ


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南ネーデルラント/南部10州

ネーデルラント南部地域の10州は、オランダ独立戦争の際に分離してスペイン領にとどまった。1714年にオーストリア領となり、ナポレオン時代にフランスに併合された後、ウィーン議定書でオランダに編入された。1830年、独立運動によって現在のベルギー王国が成立した。

 ネーデルラントの南部(フランドル地方ともいう)は北部と違ってカトリックの勢力が強く、北部7州が1581年にネーデルラント連邦共和国の独立を宣言しても加わらず、1648年のその国際的な独立承認後も、スペイン=ハプスブルク家の領地にとどまり続けた。

フランスのネーデルラント侵攻

 17世紀後半になると、ブルボン朝絶対王政のもとでフランスが次第に強大となり、その脅威を受けるようになった。ルイ14世は1667年に南ネーデルラント継承戦争、1672年からのオランダ侵略戦争で南ネーデルラントに領土を少しずつ拡大していった。しかしオランダ侵略戦争はオランダ総督ウィレム3世の抵抗を受けて、オランダの独立を承認しなければならなかった。

南ネーデルラント、オーストリア領になる

 スペイン=ハプスブルク家が断絶したことに乗じ、ルイ14世が孫のフェリペ5世をスペイン王としたため、南ネーデルラントもスペイン領となった。しかし、反発したオーストリアやイギリスとの間で1701年にスペイン継承戦争となった。この戦争ではフランスは劣勢に陥り、1714年のユトレヒト条約と並んで締結したオーストリアとの講和条約ラシュタット条約で、スペインが南ネーデルラントを放棄し、オーストリア=ハプスブルク家へ譲渡することを認めた。

オランダに実質併合される

 その後、この地はオーストリアの支配が続いたが、ナポレオンがイタリア遠征でオーストリア軍を破ったことにより、1797年カンポ=フォルミオの和約によってフランスに併合されることになった。
 しかし、ナポレオン没落後のウィーン会議で成立したウィーン議定書では、オランダに編入されてオランダ立憲王国が成立した。これはオランダとの連合王国とされたが、主権はオランダにあったので、南ネーデルラントは次第に反発を強めて独立運動を起こすようになった。

ベルギー独立運動

 ウィーン体制下の自由主義と民族主義の高揚をうけてベルギーの独立運動が激しくなり、フランスで七月革命の起こった1830年ベルギー王国として独立を達成した。これが現在のベルギー王国である。なお、1867年にはネーデルラントの一部であったルクセンブルク公国が成立した。
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書籍案内

ペーター・リートベルゲン
肥塚隆訳
『オランダ小史』
先史時代から今日まで
2018 かまくら春秋社

桜田美津夫
『物語オランダの歴史
大航海時代から「寛容」国家の現代まで』
2017 中公新書

佐藤弘幸
『図説オランダの歴史』改訂新版
フクロウの本
2019 河出書房新社