洞穴絵画
旧石器時代のクロマニョン人が、洞穴などに残した絵画。スペインのアルタミラ、フランスのラスコーなどが知られている。
アルタミラとラスコーなど

洞穴絵画の所在地
最近では1994年に発見された、南フランスのアルデーシュ川の渓谷の洞窟が96年にマスコミに取り上げられ有名になった。発見者の名をとってショーベ洞窟と呼ばれるようになったこの洞窟は炭素14年代の測定の結果、3万7千年前という古さで注目されている。
クロマニョン人の芸術
明確な洞穴絵画が現れるのは、クロマニョン人の時代になってからであり、ネアンデルタール人には今のところ見つかっていない。現生人類の「芸術」活動の始まりがクロマニョン人の洞穴絵画であると考えられている。描かれているのは主にウマやシカ、バイソン(野牛)などの動物で狩猟技術の向上を示すと共に何らかの儀礼的、社会的な意味合いがあったものと考えられている。色には赤、黄色、茶がオーカー(ベンガラ)の濃淡で表され、炭や二酸化マンガンで黒、白陶土で白が彩色されて、複雑な技法が用いられている。なお、クロマニョン人の残した美術では洞穴絵画だけでない、「ポータブル・アート」とも言われている、象牙やトナカイの角などを材料とした様々な彫刻や装身具が多数出土しており、「芸術の爆発」とも言えるほど表現が豊かになった。<海部陽介『人類がたどってきた道』2005 NHKブックス p.122-135>
なぜ描いたのか
多くの洞窟壁画は、行くだけでもたいへんな洞窟の奥深く――時には入り口から1㎞以上も先の完全な暗闇の中である――に描かれている(入り口近くにも描かれているが、多くは風化で失われたのかもしれない)。クロマニョン人は暗闇の中に芸術を残したのだから、外から灯りを持ち込んだにちがいない。松明は痕跡が残らないので証明は出来ないが、洞窟から中央に窪みのある石製のランプと思われるものがみつかっている。このよう洞窟の奥に描かれている壁画には、何らかの意味が込められていたはずである。20世紀初めには呪術やトーテミズムなどと考えられていたが、描かれている動物は必ずしも狩猟の対象となったものだけではない。(引用)それでは壁画は一体何のために描かれたのだろうか。科学の精神に忠実にものを言えば、結局のところ、クロマニョン人が壁画を描いた本当の理由はわからない。しかし現在の研究者たちは長い間、壁画が描かれた唯一で普遍的な理由を探してきた。しかし実際には、そういうものは存在しないのだ。壁画を描いた理由は決して一つではなく、個々のケースによって、様々な背景があったと考えられる。<海部陽介『上掲書』p.129-130>
洞穴絵画が出現した時代と地域
(引用)最終氷期の最盛期だった2万5000~2万年前にかけて、フランス南西部からスペイン北部では、まったく異なった生活様式を編み出した人々が暮らしていた。気候がもっとも寒冷な時期には、ヨーロッパ北部は地域的に定住が放棄され、南部に人口が比較的集中していたらしい。
生活の基盤はここでも、フランス南西部のドルドーニュ地方やスペイン北部を移動するトナカイとアカシカの大群だった。だがこの地方では、動物の群れを追って移動しなくても、かなりの人口がそれなりの生活水準を維持できるだけの食糧を調達することが可能だった。それは、季節ごとに異なった場所を利用し、食糧としては動物の肉の他にサケなどの魚が豊富に川でとれたからである。
このような半定住状態から、フランス南西部のラスコーやスペイン北部のアルタミラの見事な洞窟壁画を生み出した高度に組織化された社会が誕生するのである(これらとほぼ同時代と見られる壁画と岩絵が南アフリカのアポロ洞窟やオーストラリアからも発見されている)。
ヨーロッパの洞窟壁画はなんのために描かれたのか、いまだにはっきりとはわかっていない。それが宗教的・祭祀的性格のものであったことには議論の余地がない。おそらく、共同体の生活基盤である動物の群れを無事に管理できるようにとの願いが込められていたのだろう。<クライブ・ポンティング/石弘之他訳『緑の世界史上』1994 朝日選書 朝日新聞社 p.50>