カナート/カレーズ
アケメネス朝ペルシア時代のイランで広がった地下水路による給水・灌漑施設で、西アジアや中央アジアの乾燥地帯で造られている。イランではカナート、中央アジアではカレーズと言われる。
Source: Wikimedia Commons (CC BY-SA 4.0)Photo by Payam Azadi
Source: Wikimedia Commons (CC BY-SA 4.0)Photo by NAEINSUN
・ アケメネス朝ペルシア帝国では、駅伝制とならんで整備され、農業の耕作地、人々の居住地を拡げる上で大きな役割を果たした。
カナートの水源は山岳地帯の雪融け水で、地下の水を透さない層の上で地下水となっている。山岳部の麓で井戸を造りって地下水をくみ上げて、数キロ離れた村に水路で流しても、乾燥地帯なので干上がってしまう。そこでイラン人は途中の地下にも井戸状の穴を掘り、それを横につなげて地下水路をつくって村まで水が届くようにした。イランでは北部のエルブルズ山脈は多雨地帯であり、その水をカナートで山麓の乾燥地帯に導水して、米などの穀物を作ることが行われていた。このカナートというイラン人の知恵と労力は、その後も現在に至るまでイラン文明を支えているということも出来る。
アケメネス朝時代のカナート建設
カナートがいつ始まったかには諸説あるが、少なくとも紀元前700年代(前8世紀)には存在していたことが確認されている。カナートはアケメネス朝時代にイラン各地に広がり、ペルセポリスもこのカナートによって水が供給されていた。地方総督や将軍たちも農業を振興し、みずからの経済的基盤を整えるため、カナートを建設した。その数は現在3万本とも5万本とも言われている。<宮田律『物語イランの歴史』中公新書 p.44-45>トルファンのカレーズ
イランのカナートと同じような灌漑システムは、中国の新疆ウイグル自治区のトゥルファンにも見られ、こちらではカレーズと呼ばれている(宮田氏の本ではトルファンのカリーズとされている)。こちらはウイグル人独自の開発という説もあるが、イランなどの西方から伝わった技術という見方が有力である。トゥルファンではブドウの栽培などで用いられ、観光名所にもなっていてカレーズにカンする博物官もある。<宮田『前掲書』p.45>カナートとバザール商人
乾燥地のイラン人はカナートと呼ばれる地下灌漑施設を建設して農業を可能にしてきた。カナートは壮大で精緻な設備である。ヘロドトスは「エジプトはナイルの賜物」と表現したが、カナート研究の世界的な権威である大阪外国語大学(現大阪大学)の故岡崎正孝名誉教授は「ペルシアはカナートの賜物」と指摘している。このカナートの建設と維持には莫大な投資と高度な技術が必要となる。イランでカナートに投資してきたのは富裕なバザール商人であった。バザール商人は大土地所有者でもあり、商売から上がる利益を土地の買収に投資する例も多い。歴史的にはバザール商人が農村を「開発する」例も多く、開発にはカナートの設備がなければならなかったからだ。「農村」の農民は初めからそこにいたのではなく、バザール商人の資本によって雇われた小作人であった。地主は水主でもあったのであり、水と土地を所有する地主の力は強く、小作人は徹底して搾取された。
パフレヴィー朝のイランで、パフレヴィー2世が1963年3月19日に宣言した白色革命の柱は農地改革であり、地主・小作人制度の廃止を目指すものであったが、地主層であるバザール商人や宗教勢力の反対で強い抵抗に遭った。宗教勢力の指導者層もまた広大な大土地所有者であった。<高橋和夫『イランとアメリカ、そしてイスラエル』2026 朝日選書 p.212-214>
蛇足 2025年6月と2026年3~5月、イランはアメリカ軍とイスラエル軍の激しい空爆を受けた。アメリカ・イスラエルの目標はイランの地下深くに建設されている核施設を破壊することで、バンカーバスターという大型爆弾が投下された。さて、これでイランの地下核基地は破壊されたのだろうか。どうやらそのすべてを破壊することは出来ず、アメリカは6月19日に和平に応じた。この地下に潜ったイランの抵抗は、彼らが営々と紀元前からカナートを作り続けていたことを知れば、納得できる気もする。トランプ氏はイラン文明の強靱さを知らなかったようです。<2026/6/22記>
参考 イランのカナートについて知る
イランのカナートについての日本に於ける数少ない紹介書、<岡崎正孝『カナート イランの地下水路』論創社 2000>から、よく知られていないカナートの実際と、世界史との関連する部分について抜粋して紹介します。どうやって掘るのか
- カナートの規模はさまざまで、長さ50㎞、竪坑最深部300mに及ぶものから、長さ50~500m、最深部3~20mという小規模のものまである。全国的に見れば5~10㎞が標準的規模と考えられる。掘鑿されるのは「砂」砂漠ではなく比較的硬い土壌で表面が乾燥した「岩」砂漠である。<p.14>
- まず地下水のある場所を特定する必要がある。11世紀のイラン人数学者キャラジーがアラビア語で書いた『地中に潜在する水の開発』(1966年に最も基本的文献としてペルシア語で刊行された)には、地下水探索法として(1)後背の山の形、(2)地質、(3)植生を見ることをあげ、さらに地中の湿気を調べるための試掘の方法が述べられている。<p.68-75>
- 井戸を縦横に掘り進めるには正確な測量法が必要である。イランでは指や手を基準にした独自の標尺があった。また計測には様々な種類の水準器が用いられた。精緻な測量と三角法を用いた計算で、試掘の場所を特定した。<p.79-80>
- 実際の掘削作業で横穴の方向を決めるには、竪坑から下げた二本の紐を正しい方向で見ると重なるようにして吊り下げ、縦穴の底で片目で見通して正しい方向を見定めた。また二本の紐が地下水路に接する点にそれぞれカンテラを置き、掘り進んだ地点に別なカンテラを置いて、三つのカンテラが一線上に重なっているかどうかで掘り進む方向を確かめた。<p.96>
- ガスの発生も掘削の障害になる。カンテラには良質のオリーブ油などを使った。地上から皮製の長い管を降ろし、フイゴで新鮮な空気を送り込んだ。少量のガスであれば、酢を入れた容器とスイカを地下水路に置くと消えた。堀子自身がガスを出さないことが肝要で、そのため堀子は胃にもたれない柔らかい食物をとり、ニンニクやタマネギなどガスのもとになる食物は控えなければならない。<p.99>
- カナートの掘削は古代には奴隷や捕虜によってなされた。アケメネス朝ではエジプトなどの技術的先進国からの捕虜を使役した。現在はモカンニーといわれる専門職人が、親から子に受け継がれた技術で掘削している。掘削は、土砂を坑内から出すための巻上機(チャルフ)単位で4~5人の職人で組織され、最深部をツルハシで掘るコラング・ダール、掘り出された土砂を小さなシャベルでかき集め革袋に詰めるゲル・バンド、革袋を竪坑の巻上機まで運ぶラーシェ・キャッシュ、地上で巻上機を操作するチャルフ・キッシュと革袋から土砂を周囲にあけてからになった革袋を綱に結びつけるダルヴ・ギールの分業で行われる。<p.101-104>
- カナートは作ることも大事業であるが、その維持・管理にも配慮が必要だった。山間部の降雨量の急増で増水すると、カナートは大量の土砂に埋まってしまう。イランは地震地帯なので、時折起きる地震で導水路の壁が崩落する。そのたびに浚渫が必要となるが、「カナート浚い」はその所有者が専門のカナート職人を雇って行わなければならない。普段の浚渫(ラールビーという)も必要で、それを怠るとカナートは潰れ、耕作も人々の生活も出来なくなってしまう。放置されたカナートで使えなくなっているものも多い。<p.107-111>
(カナートの掘削方法について同書は他に多くの情報を掲載しているが引用はこのぐらいでとどめておく。詳しくは同書をご覧下さい。)
- カナート建造の工期と工費は地質によって異なるが、一日の平均掘進速度は1.6mとすると、6㎞(母井の深さ40m)のカナートで10台のチャルフ(巻上機)を使ったと仮定して、2年近くかかると考えて良い。したがって長大なカナートだと20年以上かかることもあった。その費用は時期、地質の条件によって大きく異なるが、1955年から建造が始まったケルマーンの3kmのカナートでは、1kmあたり工費は150万リアルと計算された。この金額は50人の農民の年収の総額にあたる。このような巨額な建設費用に毎年の維持管理費用もくわわり、とうてい農民には調達できない。<p.115-117>
- 『コーラン』などのイスラーム法では、泉や井戸、そしてカナートの所有者は、旅人やその家畜が使うのを拒んではならないと定めている。同時に「ハリーム」(ハーレムと同じ聖域を意味する)の概念があり、第三者が井戸やカナートの周辺で同じようなものを造ることは禁止されている。つまり井戸・カナートはその建造者の権利が守られている。1928年の民法ではハリームの範囲は、軟土では500m、硬土では250mとされている。ハリームが設定されているので、カナートのすぐ隣にカナートを作ることは出来ず、どうしても水量を増やしたければ、カナートを2層、3層にしなければならず、実際そのようなケースも見られる。<p.119-123>
- イスラーム法ではカナートの用水を利用する者に平等に配分すること定めている。カナートの給水は時間で区切られており、管理するためには水番が置かれている。水番の報酬は水利権者が支払う。水利権者(地主)は用水配分のため住民をいくつかのグループに分けるが、そのグループをボネといい、ボネのメンバー(4~6人程度)は一種の共同体を構成する(ボネ制)。地主はボネごとに組長を置き、用水を配分し、耕作する作物を指定する。つまりボネ制では農民の耕作地、耕作物はすべて地主が決め、耕作道具(シャベルや鎌)も地主の所有するものを使う。イラン東部のターレババードという村で見られたボネ制はその一例である。<p.138-151>
- ターレババードのボネ制農村では、その収穫の3分の2は地主のものとなり、残りが農民の取り分となるが、そこから地主が立て替えた分や諸経費を差し引かれた取り分をメンバーで分配する。ある村では地主の収入総額は年392万リアルで、これから諸経費113万リアルを差し引いて279万リアルの所得となる。ボネの農民の一人あたり所得は平均3万リアルだった。このようなボネ制の農村はイラン東部では広く見られた。<p.152-155>
- カナートを必要としたのはイランでも東部の乾燥地帯である。カスピ海沿岸地方のような水田地帯では、開墾者の斧と鉈が大きな役割を果たしたので、地主は農民に永小作権を与えた。しかし、イラン東部の村では地主がカナートを開設し、村の周壁を造って農民を集めてきて開いた村、つまり100%地主の力で作り出された村だった。
(引用)地主は農民に何の権利も与える必要はなかった。無権利な状態に農民をおき、農民に農業経営の自由を与えず、直営地とボネに村民を配置し、彼らを将棋の駒のように動かして経営してきた。村はまさに地主の所有物であり、村民は地主のために働く労働者に過ぎなかった。「土地保有の欠如」「流動性」が、「東」のボネ制の村の特徴をなしていた。<p.172-173>
- ボネ制の起原はすでにサファヴィー朝(1501~1722)で見られる。ガージャール朝(カージャール朝)成立に伴う政情不安の中から、19世紀前半には地主による土地開発が急速に進んだ。ボネ制が近代以前に「植民村」の形で新田開発が進む過程で、地主によって最も効率的な経営利益を追求できる方法として採用されたと見なすことはごく自然なことと思われる。<p.180-183>
- カナートの脆弱制は洪水や地震などの自然災害だけでなく、政情不安に晒されていることだった。カナートは戦乱の際に恰好の攻撃対象であったからだ。カナートの水を引いている町を攻めるにはカナートをつぶせばよい。古くはセレウコス朝シリアのアンティオコス3世の攻撃を受けたパルティアのアルシャク2世がカナートを壊して東方に退却したという話が伝えられている(前209)。さらに古く、前714年、アッシリアのサルゴン2世がウラルトゥ王国治下のイラン西部ウルミエ地方を攻めたとき、同地のカナートをつぶして征服したという。1793年にガージャール族のアーガー=ムハンマドはケルマーン地方を征服した時、この地の有力者が逃げ込んだ城に通じたカナート二本を埋め、水不足に追い込んだ。このような例は枚挙にいとまがない。<p.190-191>
- 土地は農民にとって、自らの生活の糧を稼ぎ出してくれる手段である。土地に執着するのは自然の理であるが、イランの高原地帯にはこのような土地への執着はない。ボネ制の下で毎年、耕作できるかどうか分からない土地に、水が涸れ、消えてしまうかもしれない土地に執着のしようがない。「定着」よりは、よりよい条件と見られるのが「移動」である。このようなイランの農民の「遊牧性」「流動性」は、農民の抵抗形態にも現れている。農民は常に搾取されていたにも拘わらず、ほとんど反乱を起こすことがなかった。カナート農民の抵抗形態は集落を捨て、移動することだった。<p.198-199>
- ササン朝ペルシア(226~641)の初代、アルダシールはイラン高原東部のバルチェスターンからの部族民の侵入を防ぐため、防衛都市としてケルマーンの町を造った。このような地方都市の建設が進められ、そこに軍人や役人が派遣され、彼らは町の郊外にカナート掘削などの水利事業を進め、砂漠の中に多くのオアシス都市が生まれた。ササン朝の財務官アーザル=マハンは潤沢な資金をもち、ケルマーンの郊外を切り開き、自分の名を付けた集落をおこした。ハマンは井戸掘り職人や測量士、労働者を連れてきてカナートや井戸や住居、周壁を造らせた。当時、ローマ人捕虜や奴隷でこれらの技術を持つものが使われたという。<p.203>
- 古代のイラン高原ではこの例のように、軍事都市の造営が地方発展を刺激し、これがカナート集落の契機となった。都市が農村を造ったのである。イランでは商人は危険分散のために、農業投資をする例が多く、都市在住の商人の中には、カナート投資を行い、地主になるものがきわめて多かった。商業の発展もカナート投資・新田開発を促進する一つの要因だった。<p.203-204>
- カナートはその所有者に、どれだけの利益をもたらしたか。規模、耕作形態の違いはあるが、研究者による推計を平均すると、カナート所有者が毎年獲得する純益は、建設費の25%ほとどみなされる。カナートは不安定性を伴ってはいたが、数年で投資額が回収されるとなれば、障害とならない。カナート投資のもつ高収益性、これが富者によるカナート投資を促した最大の要因であった。<p.205-207>
- 1965年、パフレヴィー朝の農地改革(白色革命といわれたパフレヴィー2世が主導した地主・小作人制度を廃止する近代化改革)がターレババードでも行われた。地主には108ヘクタールの保有が認められただけ、ボネ農民60人に210ヘクタールの土地が配分された。農民は一人に分配された土地が少なかった(3.5ヘクタール)から、従来のボネ制度下の4区画を組合せ4人の農民による共同経営を始めた。しかし、生産性は低く、小作料の負担はなくなったが農業収入は増えなかった。成員間に不和が生じ、早くも翌年から共同経営は崩れ始め、1973年には共同経営は3人組2経営、2人組9経営に見られるだけで、他はすべて個別経営に変わってしまい、共同経営は成功しなかった。ボネ制は共同労働組織であっても、共同体的性格を持つものではなかった。「地主によって、地主のために作られたもの」と結論づけることが出来よう。<p.178-180,214-215>
- しかも農地改革法は、分益小作制によらず、地主が農業労働者を雇用し、農業機械を利用して経営する機械化農業は認められていたため、地主たちは主として未利用可耕地で新農場を開設し、化学肥料による綿作に転換して収益性を上げていった。その際、彼らは深井戸を掘鑿して用水を調達する方法をとった。さらに農業協同組合による深井戸開削も進んだ。深井戸は近代的農業のシンボルであり、国は融資を与え、掘削を奨励した。1976年の統計によると、深井戸は全国で1万6626本におよび、その用水供給量は74億7000㎥に達し、カナートにほぼ匹敵する水量を供給するに至った。農地改革により、地主のカナート建設・維持意欲は大きく減退した。おまけに地主たちが新設した深井戸ではモーターを用いて大量に地下水をくみ上げたので、地下水位が低下し、使用不能となるカナートが続出した。<p.253-254>
(引用)しかし、イランの歴史を通して一様に認められることは、「王による用水の生産・支配」ではない。むしろ、カージャール朝下でみられた、地主、商人、官吏、宗教家などの「小権力」のカナート掘削による、「用水の生産・支配」が、農業水利の中で大きな役割を占めてきていた。<p.254>