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パルティア/アルサケス朝パルティア

前3~後3世紀まで、イラン系遊牧民がセレウコス朝シリアから自立し、イラン高原に建国した国家。シルクロード交易を通じて中国では安息国として知られていた。長期にわたりローマと対抗し、しばしばその侵攻を撃退したが、次第に国力が衰え、226年、農耕系イラン人のササン朝に滅ぼされた。

遊牧イラン人の建国

パルティア
パルティアの勢力範囲
 紀元前3世紀の中頃から紀元後3世紀初めまでの約5百年にわたり、イラン高原を支配した、イラン系民族の国家。アルサケス朝とも言い、パルティア帝国ともいう場合もある。パルティアはイラン西北部ホラーサーン地方の一部で、カスピ海南岸の地方にあたる。前3世紀にバクトリア王国に追われた中央アジアの遊牧イラン人パルニ族がこの地に定住、ヘレニズム国家の一つセレウコス朝シリアの支配を受けていた。
 前247年ごろ、パルティアはセレウコス朝から独立をはたし、さらに前238年、族長アルサケスが即位してアルサケス朝を開いた、とされている。
 都はいくつかを移動した後、イラン北部のヘカトンピュロスとされた。前2世紀のミトラダテス1世の時、セレウコス朝を圧迫してメソポタミアに進出し、ティグリス川河畔にクテシフォンを建設し、遷都した。紀元後1~2世紀には、西のローマ帝国、北のバクトリア、東のクシャーナ朝と争いながら、東西交易路を抑え、繁栄した。アルサケス朝パルティアの存在はシルクロードを経て中国にまで伝えられ、中国の歴史書の現れる安息国は、アルサケスのペルシア語表記アルシャクが転化したものと考えられている。
 紀元前から始まっていたローマとの抗争は、一時はローマ軍を破るなどの勢いを示していたが、中間地帯であるアルメニアの支配権を巡る長期にわたる抗争は次第に国力を消耗させ、226年に農耕イラン人のササン朝ペルシアに滅ぼされる。

アルシャク朝パルティア

 アルサケスという表記はギリシア語表記であるので、本来のペルシア語表記である「アルシャク朝」として説明する概説書も現れている。それによるとアルシャク朝パルティアの成立事情は次のように説明されている。
(引用)アルシャク朝とは、ダハエ州(クシャヤールシャン1世が何時の間にか、「帝国」に編入していた地域で、現在のトルクメニスタン付近)の周辺で遊牧生活を送っていたアーリア系遊牧民ダハエ族の一派パルニ族が、ニサー(現在のトルクメニスタンのアシハバード近郊)、ついでアサーク(現在のイランのクーチャーン市付近)を首都として、紀元前247年に建国した王朝である。彼らの始祖アルシャクの名を家名とし、誇らしくも「ハカーマニシュ朝の大王アルタクシャサ2世の子孫」と自称していた。(中略)紀元前238頃、彼らは現在のイランとトルクメニスタンの国境の山脈であるコッベ・ダーグを南に越えて、ホラーサーン州に進出し、ここに居付いたのである。この当時、この一帯は「パルサヴァ」と呼ばれており、イラン高原の他のアーリア人からすると、ダハエ州からやってきた人々はパルサヴァで遊牧をしている人々であると見做され、「パルティア人」と呼称された。<青木健『ペルシア帝国』2020 講談社現代新書 p.115>

セレウコス朝シリアから自立

 前247年ごろ、パルティアのサトラップであったアンドラゴラスが独立したが、それにはパルニ族を率いていたアルサケス(ペルシア語ではアルシャク。そのギリシア語表記がアルサケス)と弟ティリダテスが関わっていた。アルサケスは前238年、アンドラゴラスを破ってアサークで即位した。セレウコス朝シリアは遠征軍を送ってそれを阻止しようとしたが、追い返されアルサケス朝(パルティア)はまずイラン高原に確固たる支配権を確立した。

全盛期

 前2世紀のミトラダテス1世(前171~前138、ミフルダート1世とも表記)の時に強大となり、シリア・イラク方面に進出し領土を拡大した。前148年にはセレウコス朝の勢力を駆逐してメディア州(現在のイラン西北部)を占領、さらに前141年にはメソポタミアのセレウキアに入城し、セレウコス朝シリアのメソポタミア支配を排除することに成功した。
ギリシア風貨幣の鋳造 ミトラダテス1世のパルティアは独自の貨幣を発行するなど、帝国としての基盤を作った。この貨幣には王は「ギリシアを愛する」という銘を刻ませた。パルティア(アルサケス朝イラン)のもとでもギリシア人都市は繁栄を続けた。ミトラダテス1世以後のパルティアの諸王はギリシア人の工人を使って貨幣を鋳造した。その貨幣ではアフラ=マズダやミスラ神などイラン人の神がギリシアの神々(ゼウスやアポロ)の神々の姿で刻印された。<メアリー=ボイス/山本由美子訳『ゾロアスター教』2010 講談社学術文庫 p.167>

パルティアの宗教・文化

 パルティア王国の諸王はイラン人の伝統的宗教であるゾロアスター教を国教とすることはなかったが、他の宗教に対するのと同様に寛容であったので、前代のアケメネス朝時代に王権と結びついていたゾロアスター教は、パルティアにおいても存続し、その伝統を維持することができた。ゾロアスター教以外にも、伝統的な太陽神信仰であるミトラ(ミスラ)神への信仰であるミトラ教も盛んであったようで、ミトラダテスという王名もミトラ神によって生かされる者、の意味であった。なおミトラ教は西方にも伝わり、一時期はローマで大流行した。
ヘレニズム文からイラン文化へ パルティアの文化は、当初は基本的にセレウコス朝シリアのヘレニズム文化を継承していた。王の発行する貨幣にはギリシア語が鋳造されていた。つまり、イラン人が建てた王朝であったが、ヘレニズム的な要素を強くっもっていたので、アケメネス朝のイラン文化の伝統は低調となった。次のササン朝はイラン文明の復興をかかげたので、その立場からはパルティアの文化は軽視された。しかし、そのパルティアでも都がメソポタミアの中心地のクテシフォンに移されてから、じょじょにヘレニズムの影響から脱していった。紀元後1世紀頃に鋳造された貨幣の文字はパルティア語で表記されるようになる。

アルサケス朝パルティアの特色

 アルサケス朝時代の現地史料は極端に少ないので、明確なことは分からないが、その国家機構、政治体制はアケメネス朝ペルシア帝国と比較して、大きく異なっていたようだ。まず、パルティアは北方の遊牧民の影響を受けたイラン人の国家であったことから、軍事的統率力を持つものが王となる軍事国家であり、それを有力部族が支える連合国家という性格が強く、アケメネス朝のような整然とした中央集権体制は取られていなかった点が上げられる。サトラップ制は行政の骨格としては残ったが、規模は縮小されていた。有力部族の中にはアルサケス王家と同等な力を持つスーレーン家やカーレーン家、ミフラーン家などがあり、彼らからパルティアの統治者を出すこともあった。これらの有力部族は大貴族として次のササン朝時代にも生き残っている。またパルティアの支配下にはイラン人以外の多くの民族が含まれていたのでパルティア帝国といって間違いは無いが、その支配下の民族はそれぞれ王国を称し、かなりの自治を許されていた。特にコーカサスからメソポタミアにかけては土着の王国がいくつか存在していた。しかしこれらの王国はササン朝時代にはほぼ姿を消す。ヘレニズム時代の都市はパルティアにおいてもそのまま自治体として残り商人は貨幣経済に馴染んでいた。<青木健『ペルシア帝国』2020 講談社現代新書 p.117-119 などによる>
 要約すると、パルティアは遊牧イラン人の部族社会を根幹とし、先行するアケメネス朝の中央集権体制やヘレニズム(ギリシア)的な都市を通じた統治を融合させていたと言えるようだ。またパルディアではセレウコス朝の関税制度を継承し、東西交易に対する課税が国家収入を支えていたのも特徴の一つと言える。

ローマとの抗争

 共和政ローマはポエニ戦争に勝利し、さらにギリシアを征服して東地中海を手中に収めた。その過程で共和政は危機となり、私兵を抱えた有力な閥族が覇を競う内乱の一世紀となった。有力者はそれぞれ外征軍を起こしその勝利を国内政治での政権獲得のテコにしようとした。その一人ポンペイウス前64年にセレウコス朝の都セレウキアを占領し名声を高めた。セレウコス朝シリアは消滅して属州シリアとなり、その結果、ローマはさらに東方のパルティアとユーフラテス川を挟んで対峙する形成となった。
 ローマとパルティアは、まずアルメニアをめぐって対立し、パルティアのミトラダテス2世は、前62年にスラと交渉してユーフラテス川を両国の境界と定めた。前1世紀中頃のオロデス2世は、ティグリス川に面したクテシフォンに遷都し、メソポタミアからシリアにその勢力を伸ばし、たびたびローマ軍と戦い、前53年のカルラエの戦いでは、カエサルのライバルの一人であったクラッススの率いる4倍以上の大軍を破り戦死させた。

Episode パルティアに奪われたローマの軍徽章

 紀元前53年、ローマの将軍クラッススはパルティア軍の奇襲にあって敗れ、自身が殺されただけでなく、ローマ軍の軍徽章も奪われた。「栄光あるローマ軍にとって、また比肩する国とてない大国ローマにとって、唯一とも言える汚点だった。(後にローマの覇権を握った)アウグストゥスは、大軍出兵を示唆しながらパルティアに圧力をかけ、同時に、偶然ローマに身を寄せていたパルティアの王子を人質として利用し、軍徽章の奪還に成功する。紀元前20年5月12日、軍徽章をパルティア王フラアテス4世から受け取ったのはティベリウスである。」アウグストゥスはこの軍徽章奪還記念の凱旋門をローマに建設したが、現在はのこっていない。<青柳正規『皇帝たちのローマ』1992 中公新書 p.137>

Episode パルティア騎兵の“捨て台詞”

 ローマ兵を悩ませたのは、パルティア弓騎兵の戦法だった。もともと遊牧民であったパルティアの騎兵は、騎馬で弓矢をかまえて近づくと一転して後ろ向きの姿勢のまま、矢を放って逃げ去る。後ろ向きになって矢を放つパルティア騎兵を見てローマ兵はビックリした。後を追っても追いつけない。諦めるとまた襲ってくるという繰り返しで、ローマ兵は消耗していった。この戦法はトルコ人やモンゴル人など遊牧民に共通してみられるが、ローマ兵がはじめて出会ったのがパルティア騎兵だったので、この戦法は「パルティア人の射法」としてヨーロッパに伝えられ、恐れられ、現在も Parthian Shot という言葉が残っている。もっともそれは現在では俗語で、“捨て台詞(せりふ)”の意味らしい。

衰退と滅亡

 しかし、その後は王位をめぐる有力氏族間の争いやローマの干渉もあって次第に内紛が激しくなり衰退した。紀元後2世紀の114年~117年にはローマ皇帝トラヤヌスの東方遠征が行われ、ローマ軍に都クテシフォンを占領されている。このとき、アルメニアとメソポタミアは一時ローマに割譲したが、その後奪回した。さらに2世紀中ごろアルメニアをめぐってマルクス=アウレリウス=アントニヌスの時にもローマと戦い、このときも敗れてクテシフォンを占領されている。このローマ帝国との抗争は次第に国力を消耗させ、次の3世紀に衰退し、替わってペルセス地方で有力となったササン家のアルデシールによって226年に亡ぼされた。アルサケス朝パルティアがもともと北方の遊牧部族を主体とした国家であったのに対し、このササン朝ペルシアはペルセス地方の定住する農耕民を主体とした国家であり、アケメネス朝ペルシア帝国を復興させるという意識を持っていた。

Episode ローマ軍がパルティアから持ち帰ったもの

 ローマ帝国の五賢帝の一人、マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝の時、義弟で共同統治者であるルキウス=ウェルスは、パルティアと戦うために東方遠征を行い、165年にクテシフォンを占領する大勝利を挙げた。翌年、ローマに凱旋した兵士たちはクテシフォンで掠奪した戦利品を携えて入城したが、彼らが持ち帰ったものはそれだけではなかった。得体の知れない疫病(腺ペストではなかったらしいが)がローマにもたらされたのだった。168年に疫病は帝国全土に蔓延し、ローマや他の都市で無数の犠牲者を出した。ローマが衰弱しはじめたのを見抜いたのか、このころからゲルマン人の帝国領への侵攻が激しくなり始める。マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝の時代はローマ帝国の絶頂であるとともに、その最後の時が忍びよりはじめた分水嶺でもあった。

中国資料でのパルティア

 パルティアは中央アジアを経由して中国とも接触があったらしく、中国の史料(『史記』)で「安息」という名で出てくる。この名はアルサケス(ペルシア語でアルシャク)の音がなまったものといわれている。漢の武帝が匈奴を抑えるために大月氏国に派遣した張騫は、前120年代のこの地域について、大月氏国の南方に大夏、西方に安息があると伝えている。安息についてはその習俗は大宛に似ているが、多くの都市をその中に領する大国で、商売往来が盛んであること、とくに通貨には王面が鋳され、王が変わればその王面を変えること、書き物に革を用い(羊皮紙か)、文字は横書きであることを特記している。張騫が大月氏国に到達した頃は、大月氏がバクトリアを占領して遊牧生活から離れて定住した時期であり、その一つの部族であったクシャン族が後に有力になり、西北インドに入ってクシャーナ朝を起こす。クシャン朝は1世紀頃、パルティアの東方で国境を接する大国となっていく。<足利惇氏『ペルシア帝国』世界の歴史9 1977 講談社 p.212>
 さらに後漢の時代には西域都護班超の部下の甘英が大秦国(ローマか)に派遣される途中、この国に到達したという。