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ゲルマン人

インド=ヨーロッパ語族に属し、現在の北西ヨーロッパに居住する民族。ローマと戦いながら、4世紀末から大規模な移動を開始し、フランク王国などの諸国をヨーロッパ各地に建設した。

 ゲルマン人は、インド=ヨーロッパ語族に属し、現在のイギリス(英語)、ドイツ語、オランダ語、デンマーク語、スウェーデン語などの共通の祖先である。身体的な特徴は、長身、ブロンドの髪、碧眼、高い鼻などがあげられる。

ゲルマン人の拡大

 彼らは、ヨーロッパの北部、スカンジナヴィア半島南部からバルト海・北海の沿岸で多くの部族に別れて牧畜と農耕を営んでいた。彼らの居住区はおよそ西はライン川、南はドナウ川がその境界となっていたが、しだいに東南部、西部に居住地域を拡大し、西ヨーロッパ地域全域に及んで先住民のケルト人(ローマではガリア人といわれた)を圧迫していった。

ローマ時代のゲルマン人

 紀元前5世紀頃からローマと接触しながらたびたびローマ領のガリアに侵入し、ローマ軍との戦いとなった。ユトランド半島を原住地としていたと思われるキンブリ人とテウトネス人は前2世紀にエルベ川に沿って南下を開始し、アルプスを越えてイタリア半島に入り、ローマ共和政の末期のローマ軍と戦い、大きな脅威を与えた。その一部はピレネーを越えてイベリア半島にも侵入した。前103年、マリウスの率いるローマ軍に敗れて後退した。
 前58年~前51年にガリア遠征を行ったローマの将軍カエサルがライン川を越えてゲルマン人と戦った。そのころのゲルマン人の生活と社会はカエサルの『ガリア戦記』に記されている。
 またアウグストゥスはローマのすべての権力を一点に集中させてローマ帝国の初代皇帝となったが、ゲルマン民族との戦いでは手痛い敗北を喫している。紀元後9年、彼は将軍ウァールスに3軍団をつけて、ライン川を越えさせ、アルミニウスという首長が率いるゲルマンの一派を攻撃させた。ところがトイトブルクの戦いで、ローマ軍は大敗を喫してしまう。
 その後もローマにとってゲルマン人は強敵であり、長くライン川とドナウ川を結ぶ線を国境として対峙していた。軍人皇帝時代の251年にはデキウス帝がドナウ川を越えたゴート族と戦い戦死している。ゲルマン人の中にはローマ領内に移住するものもあり、ちょうどローマ市民だけで軍隊を維持できなくなっていたローマは、ゲルマン人からの防衛をゲルマン人傭兵に依存するようになった。

資料 ゲルマン人とその社会

・紀元前1世紀のゲルマン人の社会に関する資料としてカエサルの『ガリア戦記』がある。そこにはガリアのケルト人社会とともにその外側にいたゲルマン人の社会についての報告が記載されている。
(引用)(前55年)ゲルマン人のウシペテース族とテンクテーリー族の大軍が海からほど遠くない地点でライン川を渡った。渡河の原因はながい間スエービー族に悩まされ、戦争を強いられ、農耕を妨げられたからである。スエービー族はゲルマン人全部の中でも最も大きくて好戦的である。百個のパグス(集団)があって、その各々は毎年、戦争をするために領地から武装したもの一千名ずつを出し、本国に居残るものが自分と仲間を養い、翌年になれば代わって武装し、前に出たものは本国に残る。こうして農耕も戦争も切れることがない。しかしスエービー族の間では個別の私有地がなく、居住の目的で一ヶ所に一年以上とどまることも許されない。穀物を余りとらず、主として乳と家畜で生活し、多く狩猟にたずさわっている。その食物の種類や、日常の訓練や、生活の自由によって、というのも少年時代から義務にも規律にもなれず、気にくわぬことは一切しないのが体力のある大型の人間を造っている。最も寒い地方でも獣皮以外の衣類は身につけず、獣皮も余りないので体の大部分は裸であり、河で水浴する風習があった。<カエサル/近山金次訳『ガリア戦記』岩波文庫 p.121-122 わかりやすいように一部を改めた>
・またゲルマン人はキウィタスといわれる小国家を形成していたが、そこでは戦争などの大事は構成員が直接参加する民会によって決定された。紀元後1~2世紀の歴史家タキトゥスが著した『ゲルマーニア』には詳細にゲルマン人の各部族や社会についての記載がある。

参考 「ゲルマン人」とは誰か

 ゲルマン人、あるいは「ゲルマン民族」は現代において特別の響きを持つこととなった。それはヒトラーの作り上げたナチスドイツにおいてドイツ民族を意味し、しかも他の民族に卓越した優秀な民族であるとされたためであった。しかし、ローマ時代にはギリシア語やラテン語の「ゲルマニアの人」という呼称は特定の民族集団を意味するものではなかった。ルネサンス時代にタキトゥスの『ゲルマニア』などの著作が発見されると事情が変わり、19世紀にドイツが国民国家として統一されるとナショナリズムの影響を受け、ゲルマン人とはスカンディナヴィアなどの故郷を出て長い移動の末にローマ帝国領に入り、帝国を滅ぼして自分たちの王国を建設したと考えられるようになった。さらにその間、ゲルマン民族として種族的な繋がりを保持していたと想定された。このように出来上がったゲルマン民族観は歴史研究から切り離されて、ゲルマン人至上主義としてナチスの政治イデオロギーの道具になってしまった。第二次世界大戦後はこうした過去の研究史の難点を克服するため、新しい観点で研究が進められている。「ゲルマン人」の捉え方は、現在では次のように言われている。
(引用)今日の学会では、「ゲルマン人」と呼ばれる集団は、固定的で完成された集団とは考えられていない。非常に流動性の高い集団で、その時々の政治的な利害によって離合集散を繰り返して、その構成員や集団のアイデンティティが形作られていったと理解されている。・・・歴史の説明として少なくともローマ人対ゲルマン人という二項対立図式が適切でないことは明かである。加えて言語学上の系統分類は別として、人物や人的集団に対して「ゲルマン」という名称を与えることも控えたほうがよいと考えられる。・・・<南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』2013 岩波新書 p.47-49>
 このような観点から南川氏は「ゲルマン人」「ゲルマン民族」という呼び名を使用しないと決断している。

大移動の開始とゲルマン諸国の建国

 ゲルマン人のローマ帝国領内への本格的な移動は、376年の西ゴート人のドナウ渡河に始まり、それ以後、6世紀まで続いたので、一般にゲルマン人の民族大移動といわれている。
 406年の大晦日には、現在のマインツあたりで、おそらく凍結していたであろうライン川を渡って、ヴァンダル人、スエウェ人、アラニ人らの諸集団が属州ガリアに侵入した。彼らはすでに定住しローマの同盟者となっていたフランク人を退けて西進し、一部は北へ、一部は南へと向かった。これがローマ帝国西部のがリアで始まった「大侵入」の始まりであった。しかし現在までの研究ではこの時の侵入は大軍の軍事侵攻といったイメージではなかったことが明らかになっている。しかしこの時、多くの都市や農園が破壊されたことも事実である。また、409年にはブリタニアのローマ兵も撤退し、帝国の西半分は事実上崩壊が始まっていた。<南川高志『同前書』 p.190-193>
 東南部に広がった東ゲルマン系では、東ゴート人西ゴート人ヴァンダル人ブルグンド人など、西部に広がった西ゲルマン系では、フランク人アングロ=サクソン人などが大移動を開始した。ヴァンダル人はイベリア半島から北アフリカに入り、カルタゴの故地に建国し、アングロ=サクソン人は大ブリテン島に侵入し、七王国を形成した。
 彼らは4世紀末のローマ帝国の衰退・分裂、西ローマ帝国の崩壊という混乱に乗じて、次々とローマ領内に移住して建国していった。教科書に出てこないゲルマン諸国にライン川・ドナウ川上流地位のアラマン王国、イスパニアの西北のスウェビ王国などがある。これらのゲルマン人の侵入を受けて、476年西ローマ帝国は滅亡するが、そのゲルマン人の移動の直接の被害を受けることが少なかった東ローマ帝国はその後も存続する。

民族大移動の終わり

 これらのゲルマン人は476年の西ローマ帝国滅亡の前後に、その領土にそれぞれ国を建てていったが、これらゲルマン諸国の多くはローマ文化を受容してローマ化し、また東ローマ皇帝の権威を認め、その同盟国となることで存続を可能にしていた。6世紀には東ローマ帝国のユスティニアヌス大帝によって東ゴート王国、ヴァンダル王国が滅ぼされ、一時ローマ帝国の地中海支配が復活する。しかし、大帝の死後、ランゴバルド人が南下を開始してイタリア半島に入り、568年に建国する。これが第1次民族大移動の最後の動きとされている。このランゴバルト王国はフランク王国に併合され、安定したヨーロッパ世界の段階に入る。なお、現住地に残った北ゲルマン系のノルマン人であり、彼らは11世紀にヴァイキングとして活発な海上活動を開始し、第2次の民族移動期を現出させることとなる。

ゲルマン諸国のローマ文化への同化

 これらゲルマン人諸国は、政治的にはローマ人を支配したが、文化的にはローマ文化を取り入れざるを得ず、独自の社会を維持しながら、ローマ文化を同化いていった。東ローマ帝国の要請でイタリア半島に入り、オドアケルの国を滅ぼして493年にイタリアに東ゴート王国を建国したテオドリックも、みずからもローマ風のフラウィウスという名を名乗り、率先してローマ化を進めた。このあたり、ほぼ同じ時期に東方の中国で華北に侵入して国を建てた五胡の諸国や北魏漢化政策をとったのと非常によく似ている。北アフリカに建国されたヴァンダル王国も、征服者のゲルマン人は全体の1%台にすぎず、大部分のローマ人を支配していたが、役人にはローマ人を用い、その文化力を利用せざるを得なかった。ローマ化はゲルマン諸国に共通の傾向であった。ゲルマンらしさを失うとともに弱体化し、東ゴートとヴァンダルは東ローマ帝国のユスティニアヌス大帝によって滅ぼされてしまう。西ゴートとフランクは比較的ゲルマン的な特質を維持していたので、独立を保った。

ゲルマン諸国とアリウス派の信仰

 しかしゲルマン人は宗教の面では独自性を貫いた。それはゲルマン人の多くがいずれもキリスト教アリウス派を信仰したことである。アリウス派はニケーア宗教会議で異端とされ、ローマ領内での布教が出来なくなったので、北方のゲルマン人への布教に努めたのである。その契機は、4世紀の中ごろ、西ゴート人のウルフィラという人がコンスタンティノープルでアリウス派に改宗し、聖書のゴート語訳をつくってゴート人に布教したことに始まる。アリウス派の信仰はゲルマン人の土俗的信仰と結びついて、特にゴート人に近い東ゲルマン系の間に広がったが、西ゲルマン系のフランク人とアングロ=サクソン人はその影響を受けなかった。

フランク王国の大国化

 ゲルマン人のアリウス派とローマ人のアタナシウス派(ローマ=カトリック)との信仰は相容れなかったので、両者が結婚することを妨げ、両者の同化は表面にとどまり、結局多くのゲルマン諸国が短命に終わった理由である。それに対してクローヴィスの改宗以来、カトリック教会と提携したフランク王国では、ローマ系の人間との混血も進み、ラテン系の文化が形成され、ローマ系の官吏の登用によって安定した国家となり、800年のカールの戴冠によってゲルマンの世俗権力とローマ=カトリック教会の聖界の権力の提携が成立し、ヨーロッパ世界を作りあげることとなる。
注意 ゲルマン人? ゲルマン民族? 旧課程の世界史教科書の多くは、「ゲルマン民族」と表記していた。現在は山川出版の詳説世界史を初め、「ゲルマン人」としている場合が多い。これは、「民族」概念には多くの問題が含まれており、最近そのとらえ方が揺らいできていることの影響であろう。「民族」を固定的に考え、そこに何らかの価値を付与してしまうと、たしかに誤解のもととなる。ある「民族」に能力的な優越性を認め、その連帯感を強調する「民族主義」の行き過ぎは「ドイツ民族」「日本民族」などが呼号された例でも記憶に新しい。そのような民族観は一方で「ユダヤ民族」や「アイヌ民族」という劣等民族レッテルを貼って差別する構造を生み出した。このような民族観はすでに克服されたと思われるが、戦後は殖民地の被抑圧民族の解放をめざす、新たな「民族主義」が台頭した。さらにソ連崩壊に伴い、ヨーロッパでも民族問題が吹き出している。現在は「民族」概念を幻想であり虚構であると見なす考えも出されている。そのような混乱の中で、安易に「民族」という用語を使用しない方がいいという判断が生じているのであろう。山川教科書では、「ゲルマン民族」や「ゲルマン民族の大移動」といった表現は無くなっている。それに伴って、「東ゴート族」とか「フランク族」など、○○族という表現も無くなった。(暴走族と混同されるとでも考えたか?)それにかわって「○○人」と表記されるようになったのだが、それでは個別の人を指すようで、集団としてのイメージがうすれ、なじめないところがある。もっとも「モンゴル民族」という用語は残っており、統一性はない。今のところ、「民族」表記は慎重にしよう、ということか。

Episode パンとワイン、肉とビール

 ゲルマン人がローマ世界に持ち込んだものに、肉食とビールという食習慣の違いがあった。
(引用)地中海性の気候と植生を持つ地域に住む農民が大半であったローマ時代のヨーロッパは、パンとワインのヨーロッパでした。新来者(ゲルマン人)は狩猟をし牧畜を営み、肉食でした。彼らは発酵させた蜂蜜酒を飲んでいましたが、定住するとビールを好むようになりました。小麦の文化はすべてのヨーロッパ人にパン食をもたらしました。コメを食べるアジア人、キャッサバを食べるアフリカ人、トウモロコシを食べるインディオとは違っています。しかし、ヨーロッパじゅうでさまざまな飲み物が流通しているにもかかわらず、今日なお、北と東のヨーロッパではビールを飲み、南と西のヨーロッパではワインを飲んでいます。パン同様、肉はヨーロッパの日常食になりましたが、最貧の人々はなかなか口にすることは出来ません。<ジャック=ル=ゴフ/川崎万里訳『子どもたちに語るヨーロッパ史』2009 ちくま学芸文庫 p.54>