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アウグストゥス

前27年、ローマの元老院からオクタウィアヌスに贈られた称号で「尊厳者」を意味する。それ以後、彼はアウグストゥスとよばれ、実質的な初代皇帝とされる。彼はまたプリンケプス(市民の第一人者)とも言われ、ローマの共和政の伝統を残しながら実質的な専制政治である元首政で帝国を支配した。

 前27年にローマ元老院オクタウィアヌスにこの称号を贈り、以後は彼自身をアウグストゥスと呼ぶこととなった。またこれ以後の皇帝の称号ともなるので、ここからローマ帝政が始まるとされる。初代ローマ皇帝としてのアウグストゥスは、「ローマ帝国」の体制を作り上げた。

アウグストゥスの意味

 注意しなければならないのが、アウグストゥスという語は「皇帝」を意味する既存の称号ではなく、オクタウィアヌスに与えられた称号(厳密には、尊称あるいは異称)であったことである。前27年、元老院がオクタウィアヌスにアウグストゥスの称号を贈った事情を、同時代の歴史家スエトニウスは次のように伝えている。
(引用)彼(オクタウィアヌス)はガイウス・カエサルの、ついでアウグストゥスの異名を名のった。前のは大叔父カエサルの遺言状により、後のはムナトゥス・プランクスの元老院での提案(前27年)による。
 他の議員たちが、「彼も首都を創建したのだから、ロムルスと呼ばれて当然だ」と意見を述べたとき、「むしろアウグストゥス(至尊者)と称されるべきだ。それは清新であるばかりか、いっそう威厳のある呼称だから」というプランクスの意見が勝ったのである。
 じっさい、「神に捧げられた場所」や「そこである物が卜鳥官(アウグル)の占卜儀式で聖別された所」が「アウグストゥス」と言われ、その語源は「アウクトゥス(増大・繁栄)」に、あるいは「アウィム・ゲストゥス(鳥の飛び方)」か「アウィム・グストゥス(鳥のついばみ方)」に由来している。……<スエトニウス/国原吉之助訳『ローマ皇帝伝』上 岩波文庫 p.99-100>

アウグストゥスの様々な称号

 オクタウィアヌスは前29年に元老院からプリンケプス Princeps (元首の訳語を当てている)という称号を与えられていた。彼自身が自分のことをいうときに最も良く使ったものであるが、これも彼以前にそう呼ばれていた例もあり、共和政末期に「市民の中の第一人者」とか「国家における有力者」という意味で用いられていた称号であり、彼が最初だったわけではなく、しかも国法的な権限を表示するものではなかった。 → プリンケプスプリンキパトゥス/元首政
 前27年以降は、世界史の学習上も、オクタウィアヌスではなくアウグストゥスとい言っている。これは改名ではなく、新たに贈られた称号であるが、あたかも個人名のように使用されている。アウグストゥスは称号であるが、複雑なのは、彼の称号は他にもあることである。アウグストゥスの正式称号の冒頭には、Imperator Caesar Divi filius Augustus (インペラトル、カエサル、神の子アウグストゥス)とあり、さらにその後に歴任した官職名が続く。このインペラトル、カエサル、アウグストゥスはいずれも称号であって、なんらかの職務内容を含む国法的地位を表示するものものではない。
 インペラトルとは元来「命令権(imperium)を与えられた最高軍指揮官」の意味で、戦勝を得て帰国し凱旋式をおこなうことを許された軍指揮官への名誉称号である。カエサルとは、個人名ではなく、永続的なプロコンスル命令権を表示するため、すでに前45年の元老院決議でカエサルの子孫に相続しうることが決議された称号である。この二つはいずれもアウグストゥスが養父カエサルから相続したものであった。そして前27年に加えられたアウグストゥスも前述のように具体的な職務が定められている官職名ではない。
 初代「皇帝」としてのアウグストゥスの地位と権限(つまり権力)は、これらの称号とは無関係に発生したのだった。それでは、どのように、またどのような職務・権限が皇帝としてのアウグストゥスに与えられたのであろうか。

皇帝権力の法的根拠

 アウグストゥスの国政上の地位と国法的な権限は、前27年・前23年・前19年の三度の改革を経て次第に結晶していった。
前27年 プロコンスル命令権の獲得 アウグストゥスは第2回三頭政治が決裂した後、前31年以降、連年コンスル(執政官)に選ばれている。この間の彼の権力の根拠はコンスルであったことにある。前27年に彼はこの権力を返上し、元老院との間で属州に対する命令権(これをプロコンスル命令権といい、属州駐屯軍の指揮権と属州統治権を併せた権限をもつ)を分けることで合意した。分け方は、治安が確立している属州は元老院が、治安が悪いか外敵に接している属州をアウグストゥスが権限を持つ。これによってアウグストゥスはガリア、ヒスパニア、シリアなど約半数の属州のプロコンスル命令権を得ることとになり、これまでのコンスルであることに加えて、元老院に優越する権力の法的根拠となった。そのかわりにアウグストゥスはそれまでの私的な軍事力を「国家の返還」したので、自らこの措置を共和政を再建した評価し、元老院はそれに応えて彼にアウグストゥスの尊称を贈ったのだった。これによってアウグストゥスの権力はローマ共和政の伝統の枠内で認められることとなった。
前23年 プロコンスル命令権拡大と護民官就任 この年、アウグストゥスは前31年以来続いていたコンスルを辞任し、代わって護民官に就任した。コンスルにとどまっている以上、共和政の枠組みに縛られるので辞任し、他の属州総督の持つプロコンスル命令権よりも上級の権限を認められた。さらに護民官となったことによって、その神聖不可侵性に加え、警察権・裁判権などの諸権限も獲得した。本来、護民官は市民共同体を守る任務であるが、同時に不可侵な最高権力にもなりうる官職である。アウグストゥスはプロコンスル命令権を拡大し、護民官となることで権力の国法的裏付けをさらに強化した。
前19年 コンスル命令権の獲得 23年以降、ローマで政情不安や疫病の流行などが続き、アウグストゥス自身も重病になるなど、その権力に黄信号が点った。元老院はアウグストゥスにコンスル就任を要請したが、彼はそれを受けず、そのかわりコンスル職に就くことなくコンスル命令権が付与される。しかもこれは終身の権限とされたので、アウグストゥスはコンスルに就任することなく、終身コンスル命令権を行使できることになった。危機をむしろうまく利用してかえって権力を強化した、といえる。こうして前19年以降は、アウグストゥスは護民官権限とコンスル命令権、プロコンスル命令権という本来は共同体原理のうちにあるべき権限を、支配の原理の具として利用し、ローマと属州に対する支配、統治の権限(権力)を獲得したのだった。またその権力を自己と自己の後継者のみに限定し、排他的に運用していく。  <以上、弓削達『ローマ帝国論』初刊1966 再刊2010 吉川弘文館 p.145-177 をようやく要約>
 アウグストゥスは、ローマ共和政の原理を見事に換骨奪胎して、実質的帝政をつくりあげた、といことになろう。アウグストゥスはさらにその後、前12年には大神祇官(公的宗教活動の全般を統括する神祇官の長)としてローマの宗教界に君臨し、さらに4年後には8月をアウグストゥスの名前で呼ぶことが決まり、前2年には元老院と騎士階級とローマの国民が「国父」の称号を贈る。これはロムルスに捧げられ、カエサルに贈られただけの尊称で、アウグストゥスも「自分の日頃の願いがかなえられた」といって感激したという。<青柳正規『ローマ帝国』1994 岩波ジュニア新書 p.79-80>

皇帝権力の実質的根拠

 以上は、主に古典的な学説にみっれる、皇帝アウグストゥスの権力(元首政)の根拠をローマ共和政の国法に求めようとする見方であった。それに対して、アウグストゥスの権力は法的根拠によるのではなく、「非制度的な社会関係」の中にあった、という見方がある。この新しい学説の主張の要点はこうだ。
 共和政期のローマには有力なノビレス(新貴族)が庇護民との間に結んだクリエンテーラ(庇護関係)がいくつも存在した。内乱の一世紀を通じて多くのノビレスは力を失い、アウグストゥスだけが元首として国内の住民とのクリエンテーラの頂点に立った。アウグストゥスは前32年、アントニウス・クレオパトラとの戦争を前にして、全イタリアの住民から忠誠を誓う宣誓を受けており、続いてガリア・ヒスパニア・アフリカ・サルデーニャの西方属州からの誓約も受けている。それ以降、宣誓は毎年おこなわれるようになる。このようにアウグストゥスの権力の根拠は国法ではなく、(カエサルの正統な後継者として、養父カエサルから受け継いだ)イタリアおよび属州の住民とのクリエンテーラにある。このような関係はパトロネージともいわれ、元首と住民の間には幾層ものパトロネージ関係があった。<島田誠『古代ローマの市民社会』世界史リブレット③ 1997 山川出版社 p.56>

参考 前27年のアウグストゥスの権力

 アウグストゥスの皇帝権力=元首政をどう捉えるかには上述のような新旧の二学説の流れがあるようだが、歴史の理解としてはそのどちらかだけでなく、二つの側面――国法上の根拠と社会的な関係――が同時にあったと捉えるのが正しいのではないだろうか。
(引用)アウグストゥスは、カエサルの養子として強力な政治的党派をうけつぎ、従属国の王侯にまで拡がった巨大なクリエンテラを従え、ローマ市のプレブスをもクリエンテラとしてカエサルから受け、さらにアントニウスに対する決戦にさいしては全イタリアの都市からの忠誠の誓いをとりつけ、戦後エジプトの事実上の王として君臨し、多くの兵士に私財で支給できるほどの資力を手中にしていた。アウグストゥスは、事実上ローマ市民共同体の最大の実力者であり、今や単一のピラミッドと化した大クリエンテラ群の頂点に立っていた。しかしながら、かれは共同体の頂点に位置する共同体最大のその実力を、新しい国法的秩序に結晶させることなく、今や伝統的な共和政的国法秩序の中に自己を限定したのである。これが前27年の改革の客観的意味である。<弓削達『ローマ帝国論』初刊1966 再刊2010 吉川弘文館 p.159>
 弓削氏は、クリエンテラをピラミッドに喩え、それまで有力なノビレスが沢山のピラミッドを築いていたが、アウグストゥスによってそれが一つのピラミッドに統合された、と説明している。

アウグストゥスの業績

 彼は各地に「業績録」の碑文を残している。自画自賛の部分を差し引いて次のようなことが彼の実績および失政とされる。 → 元首政の時代参照
  • 内政では身分制の確立に努めた。元老院身分(セナトーレス)は100万セルテルティウスの財産を持ち、生まれながらローマ市民で、財務官職に就いたことのあるもの。幅の広い緋色の縁取りの上衣(トガ)、赤皮の靴を着用することが出来る。騎士身分(エクイテス)は40万セルテルティウス以上の財産をもつ生まれながらのローマ市民であること。金の指輪、狭い緋色の縁取りの上衣を着ける。この層がアウグストゥスの政治を支える官僚層となった。それ以外の市民は平民(プレブス)とされたが、この身分は固定ではなく能力によって変動した。
  • また、帝国の首都にふさわしい都市としてローマの整備に努めた。「私はローマを煉瓦の町として引き継ぎ、大理石の都として残すのだ」と自慢している。その他、警察力の強化、結社の禁止など治安の維持をはかり、内政につとめた。何よりもローマ市民からは平和を実現したことがアウグストゥスを皇帝として指示した最大の理由であった。
  • 対外的には属州を拡大させ、穀物供給を増やした。特にエジプト(古代)は皇帝直属地(実質的な属州)として皇帝権力を支え、ローマへの穀物供給地となった。また獲得した属州の辺境にケルン(植民地を意味するコロニアが地名の起源)、マインツ、トリアー、アウクスブルク(アウグストゥスの名による)などの植民都市を建設した。しかし、ゲルマン人との戦いではゲルマニアとの国境をエルベ川まで拡大しようとしたが、紀元後9年のトイトブルクの森の戦いで大敗を喫し、失敗している。

Episode 8月(August)の名前

 アウグストゥスは、カエサルが定めた暦が無視され混乱していたので、以前の暦法に戻した。この時の暦法の調整で8月を自分の称号にちなみ「アウグストゥスの月」と名付けた。彼は9月生だったが、執政官に就いたのが8月だったことなどから、と弁明した。これが August という月の名の起源である。<スエトニウス『ローマ皇帝伝』上 岩波文庫による>

アウグストゥスの時代

アウグストゥス
 アウグストゥス統治下のローマは、文化の黄金時代の到来を思わせるような、その治世を高らかに称揚する文学作品が現れた。それはウェルギリウスホラティウスの二人の活躍であり、二人ともアウグストゥスの側近のマエケナスの保護を受けていた。マエケナスはアウグストゥス政権の文化担当といった存在で二人のパトロンとして経済的な援助をおこなった。それに応えてウェルギリウスは『アエネイス』でローマ建国からの民族叙事詩を綴り、ホラティウスは詩人として多くのラテン語詩文を残した。

出題

立命館大 2010年 右図は、イタリアのプリマ=ポルタというところで出土したアウグストゥス立像で、紀元後、14~29年頃に製作された大理石像である。アウグストゥスとは「尊厳者」という意味で、内乱の1世紀と呼ばれたローマ共和政の末期に第2回三頭政治に参加し、紀元前31年にアクティウムの海戦でカエサルの部下であった( A )とプトレマイオス朝エジプトのクレオパトラとの連合軍を破って権力の頂点に立った( B )に対して、紀元前27年に贈られた称号である。これ以降、ローマは帝政時代に入り、いわゆる「ローマの平和」を現出させることとなる。この図のアウグストゥス立像の鎧の表面は、天空の神々のもと、紀元前53年にローマの将軍( C )がパルティア王に敗北した際に奪われたローマ軍の軍徽章(軍の目印)が紀元前20年になって返還された様子を表しており、過去の敗北の汚名を返上し、光り輝く治世が実現したことを象徴している。この文の空欄を埋めよ。

解答

アウグストゥスの火葬

 アウグストゥスは紀元後14年8月19日、75歳の生涯を終えた。遺体は黄金と象牙による棺台に乗せられ、紫の衣を被せられてフォルム=ロマヌムに運ばれた。妻リウィアをはじめとするアウグストゥスの一族、元老院議員たち、騎士階級の人間、親衛隊兵士、外国からの弔問客など多くの人々が喪服を着て後に続いた。その葬儀は業績、権力、市民の悲しみの大きさにくらべれば簡素なものだった。追悼演説もティベリウスとドルススの二人だけだった。
 遺体はアウグストゥス墓廟の東脇にある火葬場で荼毘に付された。高く積んだ薪の上に遺体が置かれ、百人隊長たちが松明で薪に火をつけた。一羽の鷲が放たれ、空高く舞い上がると、人々はアウグストゥスの霊が天上にのぼったことを確信して家路についた。しかし、リウィアだけは5日間もその場を離れなかったという。荼毘に付された遺骨を拾ったのは騎士階級の代表者たちである。彼らは下着のトゥニカだけをまとい、裸足のままであった。アウグストゥスによって重用され、社会的地位を高められた人々の、虚飾を捨てた真の哀悼の姿である。彼らが集めた遺骨は、火葬場の隣にある壮麗なアウグストゥス墓廟におさめられた。<青柳正規『皇帝たちのローマ』1992 中公新書 p.175,179>

後継者ティベリウス

(引用)アウグストゥスの遺書はすでに一年前以上も前の13年4月3日に作成されていた。その管理を託されていたウェスタの巫女が保管所の神殿から元老院に運び、そこで封印が確認されたあと開封され、アウグストゥスの解放奴隷ポリュビオスが朗読を始めた。相続人の筆頭に記されていたのは、後継者であるティベリウスとリウィアで、遺産の三分の二をティベリウスに、その半分をリウィアに贈るとあり、両者にアウグストゥスの名前を使用するよう命じていた。……
 アウグストゥスが生前から唱えていた「共和政の復興」と市民の第一人者、最善の市民による元首政の原則からすれば、アウグストゥスの後継者は市民のなかから選ばれるべきであった。しかし、もし選挙となれば、買収、策謀、誹謗が横行し、ふたたび昔の混乱状態に戻ることは必死だった。そればかりでなく、アウグストゥスは権力を掌握したときから、近親者へ権力を継承させたいと考えていた。つまり世襲制の王朝樹立を考えていたのであり、そのことはフォルム・ロマヌムの造営事業においても明白である。したがって後継者と目した人間に生前から護民官職権と執政官相当職権を付与して後継者問題が混乱をもたらすことのないよう十分な準備がなされていた。都のなかにあっては護民官職権が、その保持者の神聖不可侵性を保障し、都の外にあっては執政官相当職権で最高権力をふるうことができるからである。その最終的な後継者に指名され、養子に迎えられていたのがティベリウスである。アウグストゥスと同じように慎重細心な人間であるばかりか、「常勝不敗の人」と呼ばれるほどの優れた軍人でもあった。安定した時代を迎えてから、あまり日のたっていないローマを託すにふさわしい人間だった。そして、ティベリウスはその期待を裏切ることはなかった。<青柳正規『同上書』p.179-180>
 アウグストゥスと后リウィアの間には子供がなかった。アウグストゥスの姉オクタウィアの産んだ甥のマルケルス、先妻と間の娘ユリアが盟友アグリッパとの間に産んだ孫のガイウスとルキウスが後継者と目されていたが、何れも若くして死んでしまい、血を引く身内がいなくなった。残ったのが后リウィアの前夫との間の子で、アウグストゥスの娘ユリアの三人目の夫となっていたティベリウスだった。名門貴族クラウディウス家に生まれたティベリウスだったが、すでに55歳になっており、妻ユリアの浮気に悩まされ、一時はロドス島に隠棲してしまうほどだった。
 皇帝となってからのティベリウスも不幸だった。後継者として指名されていた甥のゲルマニクスは才気煥発で人気もあったが赴任先のシリアで変死し、ティベリウスの息子ドルススも怪死する。その他裏切りや告発が相次ぎ、ティベリウスはローマの政治に嫌気がさし、27年以降はカプリ島に隠棲してしまう。皇帝不在となったローマでは親衛隊長セイヤヌスが権勢をほしいままにし、帝位簒奪まで企てたことを知って、ティベリウスはその一味を捕らえ、拷問にかけて自白させ、ようやく実権を回復した。そのティベリウスが37年に死去するとゲルマニクスの子ガイウスが後継者となった。この第三代皇帝が暴君として名高いカリグラである。アウグストゥス→ティベリウス→カリグラ→クラウディウス→ネロの五代をユリウス=クラウディウス朝という。=ローマ皇帝
 ティベリウスが皇帝だった時代、ローマの統治は比較的安定し、皇帝権力は揺るぎないものとなったが、帝国の東方辺境のパレスティナのナザレでイエスという男が説教を始めていた。<本村凌二他『ギリシアとローマ』世界の歴史5 1997 中央公論社 p.327-331>

NewS アウグストゥスの別荘発掘、新たな手がかり

 東大の調査団が20年以上にわたって発掘を続けていたイタリア南部ポンペイ郊外の初代ローマ皇帝アウグストゥスの別荘とされる遺跡で、そのてがかりとなる新たな層位が発見され、アウグストゥスの別荘でかる可能性が高くなった。
 『朝日新聞』2023年12月18日の夕刊が報じたところによると、この遺跡はタキトゥスなどの伝える文献からアウグストゥスの墓である可能性が高いとされており、2002年から東大の青柳正規名誉教授らによる発掘が続いていた。ところが遺跡のある地層は紀元後79年のベスビオ火山噴火後のものであることが分かり、紀元後14年に死んだアウグストゥスの別荘である可能性はなくなった。発掘プロジェクトは終了も検討されたが、発掘地点を変えて調査を続けることになった。その結果、今年の夏、当初の発掘とは別な建造物の中から灰色がかった高さ数十センチの層位が見つかり、ベスビオ火山の噴火で埋まった建物であることが判明した。これよって「アウグストゥスの別荘があるかもしれない」という振り出しに戻った。この建物からは円形の構造物がみつかり、青柳さんは浴場の焚き口ではないか、とみている。<朝日新聞 2023年12月18日 夕刊の記事による
 見出しを見たら「アウグストゥスの別荘が発掘された」と思ったら、そうではなく、一時は諦めたが、発掘を続けたら、別な地点から後1世紀の地層がでてきたので、「アウグストゥの別荘かも!」という期待がまた出てきた、というニュースでした。
 → 朝日新聞デジタルニュース 2023/12/18

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