印刷 | 通常画面に戻る |

ユスティニアヌス

6世紀の東ローマ帝国の皇帝。ヴァンダル王国、東ゴート王国を滅ぼし、地中海世界を再統一、大帝といわれる。ローマ法大全を編纂するなど帝国統治に努めたがその死後、領土は縮小され、ビザンツ帝国といわれるようになる。

ユスティニアヌス帝
随臣を従えたユスティニアヌス帝
ラヴェンナのサン=ヴィターレ聖堂のモザイク画

(トリップアドバイザー提供)
 6世紀の東ローマ帝国皇帝で、一時期、地中海世界にかつてのローマ帝国領をほぼ回復した。その後、東ローマ帝国はビザンツ帝国といわれるようになり、15世紀まで存続するが、その基礎をつくったといえる。527年に即位し、ローマ帝国の領土を回復をめざし、当初はそのための重税政策がコンスタンティノープル市民の反発を受け、532年にはニカの乱といわれる反乱が起こり、危機に陥ったが、皇后テオドラの励ましもあって切り抜け、その後は安定に努め、565年までの約40年に渡って帝国の統治を行った。
 その間、領土拡張に努め、武将のベサリオスを西地中海に派遣し、533年にはヴァンダル王国を征服させ、さらに535年にはイタリア半島の東ゴート王国とのゴート戦争を開始、555年にはそれを滅ぼしイタリア半島支配を回復した。さらに西ゴート王国を攻撃してイベリア半島南部を占領、かつてのローマ帝国の地中海域の全域に対する支配を再現した。イタリアにはラヴェンナに総督府を置いて支配した。東方ではササン朝ペルシアホスロー1世と戦い、領土は拡張できなかったがその侵入をくい止めた。

ユスティニアヌスの帝国統治

 国内産業の保護に努め、東方からの知識である養蚕を奨励した。帝国の支配機構を整備するため法典の編纂を命じ、『ローマ法大全』を完成させた。そして、東ローマ帝国の繁栄を象徴するハギア=ソフィア聖堂537年にコンスタンティノープルに再建した。ハギア=ソフィア大聖堂にはギリシア正教コンスタンティノープル総主教座が置かれた。
 彼は専制君主としてキリスト教を統治の理念としたため、教会の教義論争を自ら裁断し、異端(エジプトのコプト教会派やシリアの単性論者など)を厳しく取り締まり、領内のユダヤ教とユダヤ人の権利を制限して迫害を加えた。またアテネでプラトン以来900年以上続いていたアカデメイア529年に閉鎖した。このときギリシア人哲学者の多くは国外追放となり、ホスロー1世統治のササン朝ペルシアに逃れ、中世ペルシアの文化に大きな影響を及ぼした。
 ユスティニアヌスの時にかつてのローマ帝国が再現されたため、「大帝」と称賛されるが、彼の死後は、財政の逼迫もあって、獲得した領土は次々と失うこととなり、再びギリシア・小アジア・バルカン半島を中心とした「ビザンツ帝国」となっていく。

Episode ユスティニアヌス大帝の皇后テオドラ

 皇后テオドラは動物の調教師の娘で、ダンサーだったこともある女性であったが、大帝に劣らぬ政治家でもあった。大帝のローマ領奪回のための戦費をまかなうため、国民に重税を課したが、532年、増税に反撥したコンスタンティノープル市民が反乱を起こし競馬場に立てこもった。彼らは「ニカ(勝利せよ!)」と叫んで暴動を起こしたのでこの反乱を「ニカの乱」という。反乱でハギア=ソフィア聖堂も焼け落ち、絶望したユスティニアヌス帝は逃亡しようとしたが、そのとき皇后テオドラは「逃亡するよりも帝衣のまま死んだ方がましです!」と帝を励まし、勇気を取り戻した帝は反乱を鎮圧できたという。皇后テオドラの肖像はラヴェンナサン=ヴィターレ聖堂に大帝とともにいきいきとしたモザイク壁画に描かれている。
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

大月康弘
『ウスティニアヌス大帝』
世界史リブレット 人
2023 山川出版社

井上浩一
『生き残った帝国ビザンティン』
1990 講談社現代新書