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イタリア

イタリア半島はローマ帝国が生まれたことに代表される地中海世界の中心地域であるが、ローマ帝国以降は基本的には統一されることがなく、長い分裂の時期が続いた。現在のイタリアの起源は1861年という、近代に入った時期にまで降ることにまず注意しよう。主権国家の形成は西ヨーロッパで最も遅れたが、しかし、都市国家ローマ以来のラテン文化、キリスト教世界の中心としてのローマ教皇、さらにルネサンスの震源地、などなど文化史的には一貫してヨーロッパをリードする地域であり、それが民族的誇りともなっていることも事実である。

 → ローマの歴史
注意 「イタリア」とはイタリア半島とシチリア島、サルデーニャ島などを含む地域の地名であり、1861年までは「イタリア」という国家は存在しなかった。従って、古代・中世・近世で用いられる「イタリア」とは地理的な概念であり、政治的・制度的にまとまった国家を意味するものではない。

(1)ローマ時代

半島中部に起こった都市国家ローマが半島を統一し、さらに地中海世界を支配する帝国となる。

ローマ以前のイタリア半島

 イタリア半島には北部にイタリア人が南下して都市国家を作り、南部にはギリシア人フェニキア人植民市を建設した。伝承上では紀元前753年に、半島の中部に建国されたという都市国家ローマは、始め北部にいたエトルリア人に支配されていたが、イタリア人の一派のラテン人エトルリア人の王を追放してローマ共和政を築いた。都市国家ローマが次第に有力となって周辺の都市を制圧して、半島統一戦争を展開し、紀元前272年タレントゥムを征服して完了した。このローマによる半島統一の過程は、重装歩兵としてその戦争を支えた平民が貴族と同との権利を獲得していく過程でもあった。

共和政から帝政へ

 半島を統一したローマは、地中海に進出すると、海洋国家カルタゴとの対立が生まれ、紀元前264年ポエニ戦争が始まり、その過程でローマはシチリア属州として獲得、その支配を西地中海全域に及ぼした。
 ローマの支配が地中海全域に広がり、穀物と奴隷がイタリア半島に流れ込んでくると共和政を支えていた市民層が分解し、奴隷制によるラティフンディア(大土地所有制)がひろがり、有力者は閥族派平民派に分かれて争い、スパルタクスの反乱に代表されるような剣闘士奴隷による奴隷反乱も起こった。この内乱の1世紀と言われた混乱を収束させたオクタウィアヌスは、さらにプトレマイオス朝エジプトを征服して紀元前27年に即位して皇帝となり、共和政からローマ帝国に移行した。

ローマ帝国

 イタリア半島はローマを文明と帝国支配の中心地として繁栄して地中海世界を支配、1~2世紀に全盛期の五賢帝時代を迎えた。そのころからキリスト教も半島に及び、始めは弾圧されたが、次第に浸透していった。395年にローマ帝国が東西に分裂すると、西ローマ帝国がイタリア半島を支配し、ローマやラヴェンナを都とした。
 4世紀末以降、ライン・ドナウ川の向こう側にいたゲルマン人の侵攻を盛んに受けるようになり、476年にゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって西ローマ帝国は滅亡した。

イタリア(2) ローマ帝国後のイタリア半島

西ローマ帝国滅亡後、東ゴート、ビザンツ帝国の支配を受ける。フランク王国分裂によってイタリア王国が成立。中部はローマ教皇領となる。

ゲルマン諸国とローマ教皇

東ゴート王国と東ローマ帝国 次ぎに北イタリアにはゲルマン人の一派の東ゴート人がテオドリック493年オドアケルを倒して東ゴート王国を建設した。しかし、東ゴート王国は555年には地中海支配の回復を目指してイタリア半島に進出した東ローマ帝国ユスティニアヌス帝によって滅ぼされた。イタリア半島支配を回復した東ローマ帝国はラヴェンナに総督府を置いてかつてのローマ帝国の繁栄を一時的に復活させた。
ランゴバルト王国 しかし、北イタリアには568年に、最後のゲルマン人の移動と言われるランゴバルド人が移住し、パヴィアを首都としてランゴバルド王国を建国した。このランゴバルト王国が支配した地域はロンバルディアと言われるようになり、そのもとでゲルマン人とローマ人の混合が進み、「イタリア人」が形成されることとなった。
 ゲルマン人の諸国の中ではガリアの地を支配したフランク王国が次第に有力となり、751年にはピピンカロリング朝を創始した。同じ751年年、ランゴバルド王国はイタリア半島の統一を目指し、東ローマ帝国の総督府の置かれたラヴェンナを攻略、そのため、東ローマ帝国はイタリア半島の南端を除き西地中海域の勢力圏を縮小させ、コンスタンティノープルを中心としてギリシア・小アジアからバルカン半島にかけての東地中海域を支配する国家となっていった。 → ビザンツ帝国
ピピンの寄進 イタリアをランゴバルト王国が支配するようになったことは、ローマ=カトリック教会ローマ教皇にとっては大きな危機であった。というのはランゴバルト王国はキリスト教でもアリウス派であったからである。そのローマ教会の危機を救ったのが、フランク王国のピピンであった。756年、ピピンはイタリアに遠征してラヴェンナを占領し、その地をローマ教皇に寄進した。このピピンの寄進によってローマ教皇領を得た教皇は、フランク王国を新たな保護者として中部イタリアに勢力を保つことが出来た。そのころ、南イタリアにはビザンツ帝国の支配が続いていたが、8世紀になると南イタリアにはイスラーム勢力の侵入が及んできて新たな脅威となり始めた。

フランク王国の分裂とイタリア

 フランク王国のカール大帝774年にランゴバルド王国を征服して、その支配を北イタリアに及ぼし、800年にローマ教皇からローマ帝国皇帝の冠を授けられ(カールの戴冠)、形式的には西ローマ帝国を復活させ、北イタリアはフランク王国の一部となった。
 しかし、870年メルセン条約で中部フランク(ロタールの国)のアルプス以北が東フランクと西フランクに再分割され、残った中部フランクのイタリア半島の地域がイタリア王国となった。カロリング朝の王位は875年には断絶してしまい、国家統一を保つことは出来なかった。それ以降のイタリアは、中世から近代初頭に至るまで、長い分裂の時代を経ることとなる。分裂期の各地域のおよその動きは次のようになる。

分裂期のイタリア

十字軍時代

 11~13世紀、十字軍時代に商工業、東方貿易などの遠隔地貿易が再興され、ヴェネツィアジェノヴァミラノフィレンツェなどの都市共和国(コムーネ)が成長し、互いに競い合っていた。
 北イタリアのこれらの都市はロンバルディア同盟を結成して皇帝に抵抗、1176年には皇帝フリードリヒ1世が派遣した遠征軍をレニャーノの戦いで破り、都市の自治権を認めさせた。また皇帝とローマ教皇の対立と結びつき、都市同士や都市内部の有力者は皇帝党=ギベリン教皇党=ゲルフに分かれて争った。
 北イタリアのヴェネツィアやジェノヴァなどの商人の東方貿易(レヴァント貿易)によってすでにビザンツ、イスラーム世界と接触は始まっていたが、十字軍運動によって、さらに新しい情報も集まってきていた。また南イタリアはシチリア島などで直接イスラーム教徒と接触することがあり、キリスト教文明の価値観を超えた刺激を受けやすい位置にあったといえる。 13世紀にモンゴル帝国に旅行したマルコ=ポーロもヴェネツィアの商人であった。

教皇権の衰退

 十字軍運動は、当初の成功は教皇の権威を高めたが、聖地は回復したもののそれを確保することはできず、次第にその限界が明らかとなってきた。それとともに、14世紀にはローマ教皇の権威の動揺があらわれてくる。1303年アナーニ事件はその始まりであり、さらに1309年のアヴィニヨン捕囚(教皇のバビロン捕囚)、教会大分裂によってローマ教皇権の衰退は明らかになった。しかし、ローマ教皇は中部イタリアに広大な教皇領を所有し、宗教的には依然として大きな力を持っており、政治的にも神聖ローマ皇帝やフランス王、その他の都市共和国を牽制しながら、キャスティングボートを握り続けていた。

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イタリア(3) ルネサンスの時代

14~16世紀、分裂状態が続く中、フィレンツェ・ローマなどの都市でルネサンスが展開された。文学・美術・思想などの面で、人間性の解放をめざす新しい文化が生まれた。しかし、政治的には分裂が続き、外国の干渉もあって困難な状況であった。

イタリア=ルネサンス

 イタリア=ルネサンスの最初に登場したフィレンツェダンテ1300年ごろに『神曲』の著作を開始し、その友人の画家のジョットも同じころ活動を開始していた。14~15世紀に、イタリアで始まり、展開された背景には、ローマ文化の古典古代の遺産があったこととともに、イスラーム文化と接触し、それを通してギリシア文化を採り入れることができたことがあげられる。
 特にイタリア=ルネサンスに大きな刺激となったのが1453年オスマン帝国によるコンスタンティノープルの陥落、つまりビザンツ帝国の滅亡であった。その際、ギリシアの学者たちはイスラーム教の支配を逃れて、まずヴェネツィアに亡命したが、ヴェネティアでは彼らを受けいれる気風はなく、そこからさらにフィレンツェに移ってきた。彼らによってギリシア思想がフィレンツェに移植されたことも、ルネサンスの発展を考える際に重要である。彼らはギリシア・ローマの古典をもたらしただけでなく、イスラーム文化の影響もヨーロッパ世界に伝えることになった。
 ルネサンスはフィレンツェのメディチ家によって支えられていたが、その最盛期のレオナルド=ダ=ヴィンチミケランジェロラファエロらが活躍した15世紀末から16世紀の前半のヨーロッパは、大航海時代であり、また宗教改革が始まった時代でもあった。同時に、ハプスブルク家とフランス王が神聖ローマ皇帝位をめぐって争い、それにローマ教皇が介入するという政治的に混乱した時代であり、フィレンツェの共和政も動揺していた。1513年年ごろ発表されたフィレンツェのマキァヴェリの『君主論』は、そのような困難の中でいかにイタリアの統一を実現するか、を考察した書物であった。
 16世紀後半にはルネサンスの中心はローマに移り、さらにベネツィアからイタリア以北のフランス、イギリス、ドイツなどに広がっていった。

イタリア戦争のはじまり

 この時代も続くイタリアの分裂状態に対し、フランスとスペイン(神聖ローマ帝国)が介入し、複雑な国際情勢が展開され、両国軍がたびたびイタリアに侵入して1494年に始まるイタリア戦争が繰り返えされた。このような政治的には混乱した時代が、ルネサンスの展開された時代であった。この戦争はいったん沈静化したが、16世紀前半に再燃し、イタリア=ルネサンスを終わらせただけでなく、ヨーロッパの戦争形態を一変させ、ヨーロッパに国民意識を芽生えさせ、主権国家を形成する契機をももたらした。
フランス軍の侵入 イタリア戦争はフランスのヴァロア朝シャルル8世1494年ナポリ王国の王位継承権を主張してイタリア侵入したことから始まり、1499年には同じくルイ12世がミラノ公国の領有権を主張して侵入するなど、フランスの介入に対する、ローマ教皇やスペイン王、神聖ローマ皇帝の反撃として展開された。

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イタリア(4) 近世(16世紀~18世紀前半)

16世紀から18世紀前半、イタリアは分裂と外国支配の時期が続いた。この間、イギリス、フランスは主権国家体制を確立して行き、イタリアはその動きから遅れることとなった。

イタリア戦争の本格化

 イタリア戦争は広い意味では1494年のフランス王シャルル8世のナポリ侵攻から始まったとされるが、狭い意味では1520年代のフランス王フランソワ1世と神聖ローマ皇帝ハプスブルク家のカール5世(スペイン王カルロス1世)の間の戦争に限定される(一般にイタリア戦争とは、この狭い意味で用いられる)。
 特に1527年、神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)は、ローマ教皇がフランス王と結んでいることを口実に、傭兵部隊をローマに派遣し、「ローマの劫略」といわれる破壊と略奪を行った。

スペインによるイタリア支配

 カール5世は1555年に退位すると、ハプスブルク家はオーストリアとスペインに分かれ、スペインはフェリペ2世が継承した。フェリペ2世は1559年カトー=カンブレジ条約でイタリア戦争を終結、フランスをイタリアから撤退させ、イタリアに対するスペイン=ハプスブルク家の支配を強化した。ミラノ、ナポリ、シチリアはスペインのフェリペ2世が統治することとなった。1571年、スペイン・ローマ教皇・ヴェネティアの連合艦隊はレパントの海戦でオスマン帝国海軍を破り、プレヴェザの海戦(1538年)に奪われた地中海支配権を奪回した。

商業革命によるイタリア経済の沈滞

 イタリアのほぼ全域を支配することになったスペインのもとで、大航海が展開され、ヨーロッパ経済の中心がイタリアなどの地中海岸の都市から、大西洋岸のリスボンやアントワープに移動するという商業革命がおこった。その結果、イタリア諸都市の経済を支えていた地中海貿易は相対的に衰退し、イタリア経済も沈滞期に陥った。

オーストリアによるイタリア支配

 17世紀まで、イタリアは実質的にスペインの支配と分裂の下におかれ、他のヨーロッパ諸国が主権国家体制に移行していく中で、政治的にも経済的にも停滞した。しかし、スペインそのものも1700年にスペイン=ハプルブルク家のカルロス2世が継嗣なく死去したことから激しい変動が起こった。
スペイン継承戦争 1701年、フランスのルイ14世がスペインの王継承権を主張して孫のフェリペ5世を即位させたことから、スペイン継承戦争が勃発、10年以上続いた戦争は1713年ユトレヒト条約で終結した。オーストリア=ハプスブルク家は1707年にロンバルディアを獲得、さらに1714年のラシュタット条約でそれまでスペイン=ハプスブルク家領であった南ネーデルラントミラノナポリ王国サルデーニャを獲得した。この戦争においてもイタリアは各国の戦利品として分割され、その分割にはイタリア人の意志はまったく容れられなかった。

サルデーニャ王国

 フランスとオーストリアの中間にあったサヴォイア公国は、スペイン継承戦争でオーストリア・イギリスに協力したことによって勝利者側に入りユトレヒト条約シチリア王国を獲得して「王国」となった。1720年、シチリアをオーストリアに譲渡し(形式的な王位は維持した)、代わりにサルデーニャを獲得、かくしてピエモンテとサルデーニャ島を支配するサルデーニャ王国(首都はピエモンテのトリノ)が成立した。このサルデーニャ王国がやがてイタリア統一の核となっていく。

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イタリア(5) リソルジメントの時代

ナポレオンのイタリア遠征を契機として、イタリアの統一運動(リソルジメント)が始まり、1861年にイタリア王国が成立。

ナポレオンのイタリア遠征

 分裂と外国支配が続くイタリアに、民族意識と統一意識をもたらしたのは、1796~97年にフランス総裁政府に命じられ派遣されたナポレオンによるイタリア遠征であった。ナポレオンはオーストリア軍・サルデーニャ軍を破り、カンポ=フォルミオの和約を締結してフランスに引き揚げた。その結果、北イタリアのロンバルディア、モデーナ、教皇領とヴェネツィアの一部を合わせて、チザルピナ共和国(ラテン語で「アルプスの手前のガリア」の意味。ロンバルディア地方をさす)を樹立、ミラノを首都とした。また1797年にジェノヴァ共和国を占領してリグリア共和国とした。これらはいずれもフランスの衛星国家として、オーストリアに備える意味があった。
ナポレオンのイタリア再征  1798年にはフランス軍はローマに侵攻し、教皇ピウス6世に退位を迫りローマ共和国の樹立を宣言した。こうしてイタリア各地に革命的政権が成立したが、ナポレオンがエジプト遠征に転じると、北イタリアの各政権は互いに争い、混乱が深まっていった。1799年に権力を掌握したナポレオンは、1800年に再びアルプスを越えてイタリアに侵攻、マレンゴの戦いでオーストリア軍を退却させ、翌1801年のリュネヴィルの和約でオーストリアはイタリアから排除された。以後15年間のイタリアは、シチリア島とサルデーニャ島を除き、フランスの分割支配を受けることとなった。

ナポレオンによるイタリア支配

 ナポレオン支配下のイタリア半島では、合法性という言葉はその意味を失い、各地で新しい国と為政者が誕生、イタリア人の意図と関係なく国境線は頻繁に引き直され、ほとんどの人は自分が今何という国に住んでいるかさえ答えられない状態となった。チザルピナ共和国は1802年からはナポレオンを大統領とするイタリア共和国と改称され、トスカナはエトルリア王国(1807年からはフランスの直轄領)となり、ピエモンテ・パルマなどはフランスに併合された。さらに皇帝となった翌年の1805年にはミラノを首都としたイタリア共和国をイタリア王国と改称し、自ら国王となった。また1797年にジェノヴァを占領して建てたリグリア共和国も1805年、フランス王国に編入した。
ローマ ローマ教皇ピウス7世は中立に固執したが、1808年にナポレオンはローマと教皇領を直轄領として教会に対する国家の優位を示した。ナポレオンはローマに留まらなかったが、第一の首都パリに対して、ローマをフランス帝国第二の首都とした。これによって古代ローマに憧れ、シャルルマーニュを強く意識していたナポレオンの野望は実現したといえる。後にナポレオンは最後の神聖ローマ皇帝でもあったオーストリア皇帝フランツ1世の娘マリー=テレーズと結婚し、其の間に生まれた男の子に1811年にローマ王の称号を与えた。 → 近代のローマ
ナポリ ナポリ王国は1806年にフランスに占領され、ナポレオンの兄のジョゼフをナポリ王として即位させた。後にジョゼフがスペイン王に転じ、ナポレオンの妹の夫であるミュラを国王とした。これらのイタリアの国々はフランスの「姉妹国」としてそれぞれにナポレオンの縁者が支配者として送り込まれた。
シチリア・サルデーニャ ナポレオンが占領できなかったのはシチリア島サルデーニャ島であったが、この二島にはイギリスが海軍を派遣し、フランス軍の上陸を阻止した。1806年にはイギリス軍はシチリア島にブルボン家の国王を保護する名目で島に上陸して占領したが、その目的は貴重な硫黄がフランス軍の手に落ちることを防ごうとした戦略的行動であった。サルデーニャにはサヴォイア国王が亡命し自治政権を建てた。こちらもイギリス艦隊にに守られていた。
ナポレオンの支配の意味 フランス統治時代のイタリアでは、特に北イタリアにおいては封建地代の廃止、10分の1税の廃止など改革が実行され、産業の発展と中産階級の成長も見られたが、南イタリアでは封建制度は根強く残っていた。ナポレオンによって、自由と平等というフランス革命の精神がイタリアにもたらされたが、その一方でナポレオンはイタリアをフランス帝国に組み込み、公用語としてフランス語を強要したことは、イタリア人の反発を招き、彼らの民族的自覚を呼び起こすこととなった。

ウィーン体制下のイタリア

 1814~15年にナポレオンのフランスが敗れ、ウィーン会議が開催されオーストリアのメッテルニヒの主導により、ウィーン議定書でヨーロッパの国際秩序はフランス革命前の体制に戻され、北イタリアにはオーストリアの支配が復活した。また、サルデーニャ王国はヴィットリオ=エマヌエーレ1世のもとでピエモンテの支配を復活させ、サルデーニャ島と併せて配し、都はトリノにおかれた。トスカナ大公国は復活し、ローマ教皇はローマに戻った。南イタリアでは、ナポリ王国のスペイン=ブルボン家も復位し、シチリア王国も併せて両シチリア王国が復活することとなった。
 ウィーン体制は正統主義が標榜されたが、現実にはオーストリアがほとんどイタリア半島全体を支配することとなった。かつて独立した国家であったヴェネツィア共和国ジェノヴァ共和国は復活が認められず、ヴェネツィアは旧ミラノ公国と合併されてロンバルト=ヴェネト王国となり、ジェノヴァはサルデーニャ王国に併合された。トスカーナ大公国はハプスブルク家の支配が復活し、ローマ教皇国家にはオーストリア軍が北部に常駐することとなった。多少とも独立性を維持できたのはオーストリアとフランスの緩衝国となったサルデーニャ王国(ピエモンテに加えニースとサヴォイアを回復し、ジェノヴァを併合した)だけとなった。両シチリア王国では、実態は本土のナポリの主導権が強く、シチリアには不満が残った。

イタリア統一運動の始まり

カルボナリ ウィーン体制の時代、ヨーロッパ各地で自由主義民族主義(ナショナリズム)の運動が盛んになった。ウィーン体制の柱となったていたオーストリアのメッテルニヒはこれらの運動をきびしく弾圧した。イタリアにおいてもオーストリアと旧来の王政支配からの解放をめざす民族主義者がカルボナリといわれる結社をつくり、1820年7月にはナポリで、1821年3月にはピエモンテで蜂起した。いずれも国王に憲法を認めさせる事は出来たが、ウィーン体制側のメッテルニヒの強硬姿勢により、オーストリア軍が介入していずれも弾圧されてしまった。
青年イタリア 1830年、フランスで七月革命が起こり、復古王政が倒されたことに刺激されて、自由主義者ブォナローティらが指導して、1831年2月に中部イタリアのモデナ、パルマ、ボローニャなどで自由と立憲政治を掲げた蜂起が起こった。このイタリアの反乱も、オーストリア軍が直接介入し鎮圧されてしまった。マルセイユに亡命した指導者のひとりマッツィーニは、従来の秘密結社による偶発的な決起ではなく、より強固な組織による運動の必要を痛感し、その1831年12月に新たに青年イタリアを結成した。このマッツィーニのもとで、明確なイタリアの統一を目指す運動としてイタリア統一運動(リソルジメント)が始まった。しかし、マッツィーニの指導する「青年イタリア」は、1833~34年、サルデーニャ王国内のサヴォイアとジェノヴァで共和制を呼びかけて蜂起したが、無慙な失敗に終わり、組織は解体、マッツィーニは再び亡命生活をスイスで送ることとなる。
 「青年イタリア」の急進的な共和制国家による統一を目指す運動が挫折すると、イタリアの既存の立憲君主政諸国の連合体を形成しようという、温和で現実的なイタリア統一をめざす運動も現れた。
1848年 1848年はフランスの二月革命など、ヨーロッパ各地で保守反動姿勢に対する反乱が再び盛り上がりウィーン体制が終わりを迎えた。その激動の口火を切ったのはイタリアだった。まず1月、シチリアのパレルモで暴動が起こり、両シチリア王国が憲法制定を認めた。イタリア各地に連鎖反応が起こり、トスカーナ公国、サルデーニャ王国、教皇国家でも憲法が認められた。さらにミラノヴェネツィアでは市民が蜂起し、共和政を宣言した。サルデーニャ王国カルロ=アルベルト1848年3月23日、ようやくオーストリアに宣戦布告し、二都市を支援してオーストリアからの解放を目指した(第一次統一戦争、イタリア=オーストリア戦争)。しかし、王国軍と都市の共和派の歩調は一致せず、分散した戦いとなったため、ラデツキー将軍らに指揮された強力なオーストリア軍に敗れ、これらの都市蜂起は抑えられてしまった。
ローマ共和国 ローマでも教皇国家に反対して共和政とイタリアの統一と独立を実現しようという動きが高まり、1849年に教皇ピウス9世がローマを脱出すると、市民はローマ共和国を成立させた。亡命先からローマに入ったマッツィーニは、短期間ながらローマで共和政を実現し、さらにローマを首都としてイタリアを統一する構想を進めようとした。しかしその年12月に、フランスのルイ=ナポレオンが介入し、フランス軍によって潰されてしまった。

イタリア統一戦争

 これらの運動はことごとくオーストリアによって弾圧されたが、その中で、イタリアの独立と同時にイタリアの統一が明確な目標として追求されるようになった。その道筋は、青年イタリアが追求した共和政国家として独立と統一を勝ち取るか、既存の勢力であるサルデーニャ王国への併合を進めて君主国として統一を目指すか、という大きな路線の違いも出てきた。その中で、19世紀後半に入って主導権を握るのはサルデーニャ王国であり、その首相のカヴールであった。
カヴール サルデーニャ王国は国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世のもとで、1852年から首相となったカヴールは外交手腕を発揮し、1853年にクリミア戦争が始まると、直接的な利害は無いにもかかわらず55年に参戦して、ナポレオン3世のフランスを支援してロシア軍と戦った。戦後の国際会議であるパリ講和会議に参加したカヴールはナポレオン3世の信頼を得ることによってサルデーニャ王国の国際的地位を高めることに成功した。
プロンビエールの密約 カヴールは1858年にナポレオン3世とプロンビエール密約を結んで同盟を取りつけ、1859年4月、オーストリアとのイタリア統一戦争(第2次イタリア=オーストリア戦争)を開始した。ところがフランスのナポレオン3世が途中の1859年7月、単独でオーストリアと講和(ヴィラフランカの和約)したため、戦争は中断され、サルデーニャはロンバルディアの併合だけが認められ、ヴェネツィアの解放はできなかった。ナポレオン3世の裏切りに怒ったカヴールはいったん首相を退いたが、翌年首相に復帰し統一策を推進するためにフランスとの関係を回復させた。1860年3月に中部イタリアでは住民投票でサルデーニャ王国への併合を決め、一方ではサヴォイアニースも同じく住民投票でフランスに帰属することを決めた。
ガルバルディ かつて青年イタリアに属したことのあるガリバルディは、千人隊(赤シャツ隊)といわれる義勇兵を率いて、1860年5月、まずシチリアを占領、さらに9月にはナポリに入城して南イタリアを両シチリア王国のブルボン王家支配から「解放」した。
シチリアと南イタリアの併合 主導権を奪われることを恐れたカヴールは急きょ、シチリアと南イタリアで住民投票で行わせ、圧倒的多数でサルデーニャ王国への併合を決めた上で、1860年10月26日、ガリバルディとサルデーニャ国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世の会見を設定して、ガリバルディがシチリアと南イタリアをサルデーニャ王に献上することを表明して、サルデーニャ王国主導のイタリア統一という路線が確定した。

イタリア王国

 1861年3月、サルデーニャ王国のサヴォイア王家を国王とするイタリア王国トリノを首都として成立した。しかし、ヴェネツィアは依然としてオーストリア領であり、ローマは教皇国家としてイタリア王国に含まれていなかった。  イタリア王国は最も重要な地域であるローマとヴェネツィアの併合の機会を狙い、国家の重点を中部イタリアに移していった。そのため、1865年には首都をトリノからトスカーナのフィレンツェに移した。
ヴェネツィア併合 1866年普墺戦争が始まると、イタリア王国はプロイセン支援を表明、軍事同盟を結んでオーストリアと戦った。この戦争で勝利したイタリアは、ヴェネツィア地方(ヴェネト)をいったんフランス領とした後にイタリア領とすることで合意、1866年10月の住民投票によりヴェネツィアを併合することができた。
ローマ教皇領併合 さらに、1870年普仏戦争が勃発すると、劣勢に追いこまれたフランス軍が、ローマ駐屯軍を撤退させたため、1870年9月、イタリア王国軍がローマに入城して、ローマ教皇領の併合に成功した。こうして1870年に、イタリア統一はほぼ完成し、翌1871年7月、都をローマに移した。ローマ教皇はなおも世俗国家に従うことを拒否し、その扱いは統一後の問題点として残ることとなる。
 普仏戦争で勝ったプロイセンのビスマルクは、ヴェルサイユ宮殿でヴィルヘルム1世の皇帝即位式を行い、ドイツ帝国を樹立した。イタリアとドイツが近代的な国民国家を形成したのがほぼ同時であったことは興味深い。また遠くアジアの地では日本が同じころ、1868年に明治維新によって近代国家としての歩みをはじめている。

残された問題

 イタリア王国はこうして統一を達成したが、トリエステ南チロルのイタリア人居住地がまだ併合されておらず、それは未回収のイタリアとして残ったこと、ローマ教皇との関係があったことが問題点として残っていた。

イタリア(6) 第一次世界大戦

ドイツ・オーストリアとともに三国同盟を締結したが、次第に離反し、第一次世界大戦が起こるとイギリスとの密約で三国協商側について戦った。

三国同盟の締結

 19世紀末、ヨーロッパの資本主義先進諸国が帝国主義段階に達し、盛んに海外領土を拡張してくると、イタリアでもそれに便乗した動きが生じ、まず地中海の対岸の北アフリカと、アドリア海の対岸のバルカン半島への関心が高まった。
 とくに1877年に露土戦争でオスマン帝国がロシアに敗れたことを受けて、北アフリカのオスマン帝国領であったチュニジア(都がチュニス)への侵出をはかるようになった。ところが、戦後のベルリン会議の結果、イギリスのエジプト侵出を認める代わりに、フランスの侵出が認められると、フランスは1881年にチュニスに出兵してチュニジア保護国化を強行した。イタリアはこのフランスのチュニジア侵出に危機感を持ち、翌1882年にフランスに対抗するためにドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国との三国同盟を結成した。これはドイツのビスマルクの働きかけに答えたものであったが、同時にクリスピ首相のフランスを仮想敵国とする外交方針によるものであった。

クリスピの攻撃的外交

 1880~90年代のイタリアを首相として主導したクリスピは、マッツィーニの影響を受け、ガリバルディのシチリア遠征にも参加した共和主義者であったが、リソルジメントの栄光を再現したい欲求を強く持っていた。内政ではシチリア島で起こった「ファッシ」という農民の暴動を押さえこみ、社会主義政党を解散させるなど労働者の運動も弾圧して政府の権威を強め、外交ではフランス敵視とアフリカ進出という好戦主義で国民の愛国心を喚起しようとした。フランスはローマ教皇(バチカン)と結んでイタリア侵攻を企てていると宣伝して、敵意をあおり、三国同盟結成に動いた。北アフリカでは80年代からエチオピア侵出を画策した。チュニスをフランスに占領されたイタリアは、残る北アフリカの大国エチオピアへの侵攻を企てた。しかし、1896年3月にアドワの戦いに敗れてエチオピア遠征に失敗し、クリスピも辞任に追いやられた。

帝国主義政策

 その後イタリアは、その帝国主義的膨張の対象をオスマン帝国領のトリポリに転換した。それを知ったフランスはイタリアをドイツから離反させる目的で、1900年に秘密協定を結びモロッコをフランスが、トリポリをイタリアが勢力圏とする分割協定を結んだ。さらに1909年にはロシアもイタリアと秘密協定を結び、バルカンでのロシアの行動をイタリアが承認する見返りにトリポリ・キレナイカの権益を認めさせた。これらの帝国主義的分割協定に基づき、イタリアは1911~12年にイタリア=トルコ戦争でトリポリ・キレナイカを獲得した。このように、イタリアは三国同盟を結んでいながら、ドイツ・オーストリアと敵対しているフランス・ロシアと早くから近づいており、三国同盟は形骸化していた。 → イタリアのアフリカ侵出

アメリカ大陸への移民の増大

 1901~14年のイタリアはその間の首相を務めた人物の中からジョリッティ時代ともいわれる。この時期はイタリアの工業がめざましく発展した時代であり、1899年にトリノで設立されたフィアット社に代表される自動車産業の発展が始まった。この発展は外国市場の活況による輸出の伸びによって支えられ、またイタリアの石炭不足を補う、アルプスの豊富な水資源を活用した水力発電が新たなエネルギー源として供給されるようになった。しかし、北イタリアにおける工業の急速な発展は、農村との格差をさらに広げ、特に南イタリアの貧しい農民は北イタリアに出て賃金労働者になるか、アメリカ大陸への移民として移住するかの道を選んだ。アメリカに向かった人々は新移民といわれ、その工業発展の労働力となった。
 ジョリッティ内閣は「近代化」を進めるため、労働者保護にも力を入れた。イタリア社会党も社会主義革命は工業化と工場労働者の増大が前提と考えていたので、主流派は内閣を支持した。しかしそれにたいして敵との妥協だとして反発する過激派も現れた。若き日のムッソリーニもその一人だった。一方、内閣が社会主義に迎合していると不満と不安を抱くようになった中間層は、強力な政府による強いイタリアを志向するナショナリストが生まれてきた。

第一次世界大戦で中立宣言の後、連合側に参戦

 ジョリッティ内閣は第一次世界大戦が勃発すると、中立を宣言した。その口実は、ドイツ・オーストリアのセルビアへの宣戦布告は「攻撃戦争」であり、三国同盟の規定しているのは防御同盟であるからイタリアには参戦義務はない、というものであった。そして1915年5月に至って、三国協商側に参戦した。それは1915年4月のロンドン秘密条約で、戦後の「未回収のイタリア」及びアドリア海沿岸のダルマチアなどの移譲を条件にイギリス・フランス・ロシアの三国協商側に参戦することを密約していたからであった。

イタリアが三国協商側についた理由

 もともとイタリアが三国同盟に加わったのは北アフリカにおけるフランスとの対立があったためにドイツに接近した結果であるが、オーストリア=ハンガリーとはトリエステや南チロルなど「未回収のイタリア」を占領されているので利害は一致していなかった。そのため両国関係はしっくりいっていなかった。それ以外にも、すでにフランスとはモロッコとトリポリ・キレナイカをそれぞれ互いに領有を認める協定を結び、オーストリアと敵対しているロシアとも秘密で協力を約束していたからであった。
(引用)ジョリッティが「イタリアは、中立を維持することによって、戦勝国との交渉において“相当の取り分”を獲得することができる」と主張したことはよく知られている。・・・しかし結局、イタリアは、首相と外相が一存で英仏と結んだ秘密協定のためにどうしても参戦せざるをえなくなった。イタリア首相と外相はその協定について議会にも、軍の意向も諮らず、おそらく国王にさえ知らせていなかったと思われる。1915年5月はじめ、イタリアが英、仏の味方として参戦することが判明したとき、抗議の嵐が巻き起こった。・・・しかし、もう手遅れだった。いまさら条約を撤回すれば、国の面目は丸つぶれになるであろう。<ダカン『イタリアの歴史』ケンブリッジ版世界各国史 創土社 p.265>
 ミラノに生まれた芸術家集団の未来派は「戦争は世界を救う唯一の治療薬である」と宣言し、ナショナリストたちは、参戦は「汚職にまみれた議員たちを駆逐し、売春宿のごとき議会を炎と鉄で浄化することによって」、「国家」を刷新する手段であるとみなし、参戦を声高く唱えた。イタリア社会党は中立を主張したが、機関誌編集長のムッソリーニは公然と参戦を主張し、党から除名された。

第一次世界大戦とイタリア

 イタリアの第一次世界大戦への参戦は、連合国側にとって期待されたほどの結果をもたらさなかった。1917年秋のカポレットの戦いでは、イタリア戦線でのイギリス・フランス軍との共同作戦であったが、大敗し、戦局を転換することはできなかった。その後はアルプス山麓で悲惨な塹壕戦を強いられた。しかし最終局面の1918年10月にはイタリア戦線のイタリア軍が連合国軍、アメリカ軍とともにオーストリア軍を追いつめ、11月4日に、南チロルからの撤退、連合軍のドイツ攻撃のためのオーストリア領内通過の自由などを条件に停戦を成立させた。
パリ講和会議 第一次世界大戦後の1919年2月から始まったパリ講和会議ではイタリア代表のオルランドが参加し、主要五大国(アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本)会議のメンバーとなった。会議はドイツに対する賠償、国際連盟の創設などとともに、領土分割の調停が行われた。イタリアは戦勝国の権利としてロンドン秘密条約に基づき、イタリアに隣接するオーストリア領やアドリア海の対岸のフィウメやダルマチアなどの割譲を主張した。しかし、会議を主導したアメリカ大統領ウィルソン十四カ条で秘密条約を否定していたので、強く反対した。主張が認められなかったオルランドは講和会議から離脱を表明し帰国して抗議した。しかし帰国後のオルランドは交渉の失敗をとがめられて失脚、代わったニッティ首相は国際的孤立を避けるために会議に復帰し、結局ヴェルサイユ条約に調印することになった。
サン=ジェルマン条約 1919年9月に成立した、連合国とオーストリアとの講和条約であるサン=ジェルマン条約では、トリエステ南チロルの譲渡だけが認められるにとどまり、フィウメやダルマチアなどの地域の領有は実現しなかった。この講和に対する国民の不満を背景に、復員兵などを中心にファシズムが台頭していくこととなる。

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イタリア(7) ファシズムの台頭

領土拡張が認められなかったことからヴェルサイユ体制への不満が強まり、また戦後の不況の中で社会的不満が高まる中、ムッソリーニの率いるファシスト党が勢いを増し1922年に権力を獲得、ファシズム体制が成立する。

 第一次世界大戦は結果的に専制国家の敗北、議会制民主主義国の勝利となったことから、戦勝国に加わったイタリアにおいても、1918年12月に男性普通選挙制度に転換した。その結果、1919年11月の総選挙では労働者層を代表するイタリア社会党が躍進して第一党となった。第2党にはイタリア人民党と称するカトリック勢力がその位置を占め、ブルジョワ民主主義・自由主義者は後退し、危機感を抱くようになった。

ヴェルサイユ体制への不満

 さらにパリ講和会議でイタリアの主張するフィウメ(イタリア語でリエカ)とダルマチアの領有が認められなかったことから政府非難が強まり、1919年にはナショナリストの詩人ダヌンツィオがフィウメを突如武装して占領するという事件が起こった。ジョリッティ内閣は海軍を出動させて1920年12月にダヌンティオを降伏させたが、ダヌンティオは英雄扱いされ、政府および議会に対する反発が強まった。

「赤い二年間」

 一方、1919年から20年にかけて、第一次世界大戦後の戦後不況が深刻になり、生産の縮小から失業者が急増し、インフレが急激に進行していた。ロシア革命の成功に刺激された社会主義政党であるイタリア社会党は、革命の好機ととらえ、北イタリアのストライキを指導し、労働者による工場占拠、農民による地主の土地の占拠など、革命的な動きが高揚した。1920年9月には革命的な機運が最高潮に達し、労働者による工場占拠が約4週間にわたって続けられた。しかしこの「赤い二年間」といわれた1919~20年の動きは革命には至らなかった。イタリア社会党指導者に明確な革命への統一的指導性が欠けていたからであり、かえって不況が深刻化して労働者が職を失うことを恐れ、運動か離れたことが衰退の要因であった。

ファシスト党の登場

 それに対して、工場経営者や地主などブルジョワジーは革命の進行を恐れ、社会主義者に対する憎悪をたぎらせるようになり、また政府や議会は自分たちを守ってくれないという不満を強めることになった。そのような中、開戦前は第一次世界大戦への参戦を主張したためにイタリア社会党から除名されていたムッソリーニは、1919年3月、ミラノで「戦闘ファッシ」を組織し、反社会主義・反議会主義を掲げて強力な政府の樹立を主張し始めていた。1919~20年に自然発生的に各地に「襲撃隊」と呼ばれた民兵組織が生まれ、ストライキや工場占拠を行う労働者を襲撃し始めると、それらを組織して全国的にファシスト運動を展開するようになった。1921年にはムッソリーニを指導者とする全国ファシスト党が組織され、社会主義革命を恐れる保守派の支持を受けて直接行動を展開するようになると、自由主義政府もそれを容認し、社会主義勢力を押さえようとした。

ファシスト政権の成立

 1922年10月、ファシスト党がローマ進軍を行い、ローマの中枢部を占領するという直接行動に出ると、政府は戒厳令を敷いてこの反乱を鎮圧しようとしたが、国王はそれを認めずかえって内閣を罷免し、ムッソリーニに新たに組閣を命じた。ムッソリーニはファシストの暴走を統制できるのは自分だけであると宣伝していたのだった。こうして国王から任命されるという合法的な形でムッソリーニのファシスト政権が成立した。当初のムッソリーニ内閣にはファシスト党員は3名にとどまり、残りは自由派、人民党(カトリック系)、軍出身者などに与える妥協的なものであった。
 ムッソリーニはそれまでの暴力的なファシスト党というイメージを変えるため、国王派やナショナリスト知識人を党に取り込み、穏健なブルジョワの支持を拡大し、1923年には選挙法を有利に改正して、24年の総選挙で自動的に国会の3分の2の議席を獲得した。
マッテオッティ事件  1924年6月初め、社会党の代議士マッテオッティがファシスト党過激派グループに誘拐、殺害されるという事件が起こった。マッテオッティは24年の総選挙で、ファシスト党が暴力によって干渉していることを告発しムッソリーニは危機に陥っていた矢先だった。マッテオッティ殺害事件にはムッソリーニ自身が関わっていた疑いが濃くなり、世論と国会は沸騰した。一方、ファシスト義勇軍(党の軍事組織)はムッソリーニに独裁体制をとることを迫った。1925年1月3日、国会で演説し、告発を受けて立つことを表明、その一方で義勇軍、襲撃隊がどんな行動に出るか責任が持てないと、内戦の危機を煽って反対派を牽制し、独裁政治を宣言した。結局、国会はムッソリーニ告発をあきらめ、国王も承認した。こうして、1925年1月3日のムッソリーニ演説は、その独裁政権の成立の契機となり、「イタリアの自由主義と議会政治の終わった日」と言われた。<ダカン『イタリアの歴史』2005 ケンブリッジ版世界各国史 創土社 p.292-294>

ムッソリーニの権力掌握

 1925年1月3日演説で独裁を宣言したムッソリーニは、ファシスト党の襲撃隊の違法行為を禁止し、ファシスト党員を国家機構の中に組み入れてそれを統制下に置くことに成功した。さらに、暗殺未遂事件が起こったことを理由にして、26年10月にすべての野党を廃止し、今後は「国家防衛を目的として」いかなる野党を創設することを禁止した。また報道機関に対しては政府批判をすれば没収という脅しをかけた。新聞はそれに従い、ムッソリーニとその政府の礼賛記事を自主的に書くようになった。それは「胸が悪くなるような」記事に満ちていたが、新聞の売り上げは減らなかった。「おそらく、当時の新聞のスポーツ欄と文化欄に人気があったためであろう。」<ダカン・同上 p.298>
アルバニア保護国化  イタリアはフィウメ問題でユーゴスラヴィア王国と対立していたが、そのユーゴスラヴィアがフランスとの提携を強めると、対抗するためにアルバニアに対する経済援助を強めた。アルバニアでは政権を握っていたゾグーもイタリアへの依存を強め、1926年にティラナ条約(友好安全保障条約)を結び、事実上のイタリアの保護化が開始された。翌年には防衛同盟条約が締結され、イタリアはアルバニアに対する政治的影響力を強めた。ただし、アルバニアは28年からゾグーを国王とする立憲君主国として独立を維持しており、最終的にイタリアに併合されるのは1939年のムッソリーニの武力侵攻による。 → アルバニア保護国化

進歩的に見えたファシズムの「魅力」

 ムッソリーニが継承した思想は、理想的な「国家」創造によって何世紀にもわたり分裂し異民族に服従させられ傷つけられたイタリアを修復しなければならないといった思想であり、愛国心から生じる国民道徳がなければ自由主義につきものの個人主義と物質主義のために、国は腐敗し利己主義と無秩序がはびこるであろうという主張であった。ムッソリーニが進めた社会改革は、そのような分裂と個人主義という「症状」を治療するためのもので、ファシズムは、労働組合をいわゆる「コーポレート・ステート(協調組合体制)」という新しい形態に変えることによって労働者を統制し、プロパガンダを教育手段として労働者の政治意識を変えようとした。それらは多くの点で反動的であったが、「国民のコンセンサスを得るためにファシスト政権が試みたさまざまな手法は、しばしば当時の人々に(イタリア以外の国でも)斬新で進歩的にみなされたのである。<ダカン・同上 p.299>

ラテラノ条約

 1929年2月、ファシスト政権はローマ教皇庁とラテラノ条約を締結した。これによりヴァチカン市国は独立した主権国家となり、1860年から70年の間に失われた教皇領に対する巨額の補償金が支払われることになった。また添付の政教協約によって、宗教科目が小学校ばかりでなく中等学校でも取り入れられるなど、カトリックを国民の宗教であることを認めた。これによってムッソリーニは「ローマ問題」に決着をつけたと宣言し、その個人的権威を国内外で高めることに成功した。
 ラテラノ条約調印の後、ムッソリーニは国会を審議会的なものにすることとし、400名の議員候補者名リストを示し、それを承認するかどうかの国民投票を行った。その結果、850万票が賛成、反対はわずか13万6千でファシスト政権は信任された。「大衆の政治的統制の手段として教会を利用する」体制を実現させ、ムッソリーニはローマ教皇から「神の使者」と賞賛された。<ダカン・同上 p.318>

ファシズムに対する不満

 ファシストは政治権力を掌握し、国民の賛意を得ようとさまざまな改革を行ったが、最大の障害の一つは国民の大半が直面している貧困であった。ファシスト「日とはパンのみにて生きるにあらず」と精神的な自覚をもとめたが、特に南部の農民の困窮は深刻であった。ファシスト政体の元手は存在しないとされたマフィアは依然として社会的腐敗と組織犯罪の温床となっていた。
(引用)ファシズムが国民の賛意を得ることができなかった決定的な要因は、その思想に知性の欠けていることであった。ファシスト政権は、まさに合理的な政策を否定することによって成立した政権であった。しかし、ドーチェ信仰、愛国的美辞麗句、パレード、制服、映画、サッカー、海岸地帯へのハイキングなどのすべてを寄せ集めても、堅実な政策や現実的な議論の欠如の埋め合わせをすることはできなかった。1930年代になると、ファシズムは明らかに思想としての力を失っていた。1934年に正式に決定された「協調組合体制」が有名無実であったために、国民の不満は最高潮に達した。<ダカン・同上 p.323-324>

イタリア(8) 第二次世界大戦

ムッソリーニのファシズム政権はエチオピア併合など領土拡張策をとり、ドイツと提携を強めベルリン=ローマ枢軸を成立させる。第二次世界大戦では当初中立を装ったがドイツの快進撃を見て参戦。しかし北アフリカなどで軍事的失敗を重ね、次第に追い詰められ、1943年7月に失脚。替わったバドリオ政権は連合国と講和を探ったが反発したドイツ軍がイタリアを占拠。シチリアに上陸した連合国軍と激しい戦闘となり、44年6月解放された。

エチオピア侵略

 ムッソリーニのファシスト政権は、国内の不満を海外膨張策で解消しようとして1935年10月、北アフリカのエチオピアに出兵し、エチオピア併合(エチオピア戦争)などの侵略性格を進めた。エチオピアに対する侵略は空爆、毒ガスを使用する強引なものであったが、かつての1896年にアドワの戦いでの屈辱的な敗北に対する報復を実現したとして国内では歓迎された。しかし国際連盟は連盟加盟の独立国に対する侵略であるとしてイタリアを非難し、経済制裁を決定した。イタリアはドイツの支援を受けて、首都アジス=アベバを占領して併合を強行した。

ベルリン=ローマ枢軸

 ついで1936年にスペイン戦争が始まるスペイン人民戦線の共和国政府に対する反乱軍であるフランコ軍に対して、ヒトラーのドイツとともに軍事支援を行った。こうしてナチス=ドイツとの提携が深まり、1936年にはベルリン=ローマ枢軸を成立させた。さらに翌1937年には日独防共協定に加わり、日独伊三国防共協定を結んだ。こうして枢軸国の一員となったイタリアは同37年、国際連盟を脱退した。

アルバニア併合

 さらにヒトラーのナチス=ドイツがミュンヘン会談のわずか6ヶ月後、1939年3月、チェコスロヴァキア解体を強行すると、ムッソリーニはその機会を利用してアルバニアに侵攻した。アルバニアは1926年以来、事実上のイタリアの保護国となっていたが、ムッソリーニは1939年4月、アルバニアに侵攻して軍事占領、アルバニア併合を強行した。

第二次世界大戦

 1939年9月、ヒトラーがポーランドを侵攻、第二次世界大戦が勃発すると、ムッソリーニは当初は「非交戦国」を宣言した。イタリアはエチオピア戦争とスペイン戦争で軍備を消耗しており、参戦の余裕がなかったためであったが、1940年5月にドイツ軍がオランダ、ベルギーに侵攻、イギリス軍はダンケルクから撤退し、さらにフランスのパリに迫る勢いを見せると、便乗して世界戦争に参戦、1940年6月10日にイギリス・フランスに宣戦布告をした。まもなく6月14日にはパリが陥落した。
 ムッソリーニ政権は1940年9月には日独伊三国同盟を締結、枢軸国の主要国として名を連ねた。しかし、北アフリカ戦線などでイタリア軍は次々と敗北すると、国内ではムッソリーニ独裁に反発する勢力が強まっていった。

イタリアの無条件降伏

 ムッソリーニ政権のイタリアはギリシア、北アフリカ、地中海でイギリスに敗れ、ドイツ軍の支援でようやく戦線を維持していたにすぎなかったので、1943年早くも休戦を意図し始めた。1943年7月9日の連合軍のシチリア上陸を受けると、25日に軍の一部が国王の了解を得てクーデターを決行し、ムッソリーニは失脚、監禁された。
 代わって成立したバドリオ内閣1943年9月8日に連合軍との休戦(降伏)を発表し、ドイツに宣戦布告した。ヒトラーは直ちにドイツ軍を派遣、イタリア軍を武装解除してローマを占領した。国王と政府はローマを脱出、南部のプリンディシに逃れた。これは国王に対する国民の支持を失墜させることになった。ドイツ軍はさらに幽閉されていたムッソリーニを救出し、北部に連行し政権を作った(サロ共和国という)が、ムッソリーニは傀儡で実権はドイツ軍が握った。
 こうしてイタリアは、北部はドイツ軍の支配、南部は連合軍が占領という南北分断の事態となり、北イタリアではファシスト政権時代に獄中にあった共産党員が解放され、ドイツ軍に対するパルチザン闘争を開始した。10月1日にナポリに侵攻した連合軍(アメリカ軍)はドイツ軍の抵抗にあって苦戦、イタリア戦線は膠着した。特に44年2月のモンテカシーノ(中世のモンテカシーノ修道院の所在地)の激戦は勝敗がつかなかった。また北イタリアのミラノなどで、ドイツとサロ共和国に対する大規模なストライキが広がった。1944年6月、連合軍がようやくローマを解放、パルチザン勢力はバドリオ内閣に代わる連立内閣を樹立した。ドイツ軍との戦闘は翌年6月まで続く。パルチザンに手を焼いたドイツ軍は徐々に後退、ムッソリーニも逃亡を図ったが、1945年4月28日、パルチザンに捕らえられ、ミラノ市民の前に引き出されて愛人とともに逆さ吊りにされて殺された。二日後の4月30日にはヒトラーが自殺、ローマ枢軸を担った二人はほぼ時を同じくして悲劇的最後を迎えた。

イタリア(9) イタリア王政廃止 共和国の成立

第二次世界大戦後、1946年に王政を廃止し共和政となる。

 1944年6月、連合軍によってローマが解放され、バドリオ内閣に代わりパルチザン闘争の主体となった各政党の連立内閣が成立した。ドイツ軍に対するレジスタンスの中心となったイタリア共産党は、ファシズム崩壊によって獄中の党員3000人が釈放され、亡命先のモスクワから戻った党指導者トリアッティ(トリアッチ)が祖国再建のためには国王とも協力するという政策転換を行った上で連立内閣に参加した。チャーチルなど連合国首脳は共産党が政権に参加することに反対したが、イタリアの国内情勢はそれを避けられなかった。

国民投票で王政廃止へ

 1946年6月に国民投票が行われて僅差であったが共和制支持が上回り、王政は廃止され「イタリア共和国」となった。また同年のパリ講和会議の結果、イタリア講和条約で海外領土をすべて放棄し、連合国との講和が成立、ドイツに比していち早く国際社会に復帰した。
 ファシスト党は解散させられたが、それに協力した官僚や財界人に対する責任追及は不徹底で、なお保守的な勢力は力を保っており、保守政党のキリスト教民主党がその後の政権を担当することとなり、共産党は連立政権から排除された。

イタリアの王政廃止

 イタリアの開戦時の国王ヴィットリオ=エマヌエーレ3世はファシストを支持し、さらにドイツがローマを占領した1943年9月にはローマから逃亡したので国民の信頼を失い、46年5月に退位して皇太子ウンベルトが王位を継承した。その1ヶ月後の1946年6月2日に憲法制定国民議会の選挙と同時に国民投票が行われた。その結果は、共和制への賛成1270万票、反対1070万票のわずか200万票差で王政廃止が決まった。このとき、ローマや南部では王政支持票が圧倒的に多く(ナポリでは79%)、北部では共和制支持が圧倒的に多かった。こうして共和制は、1861年のイタリア王国と同様、南部と北部の分裂を放置したまま誕生した。<ダガン『イタリアの歴史』2005 ケンブリッジ版世界各国史 創土社 p.346 などによる> 
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書籍案内

ダガン/河野肇訳
『イタリアの歴史』
ケンブリッジ版世界各国史
2005 創土社

藤沢道郎
『物語イタリアの歴史』
1996 中公新書

藤澤房俊
『「イタリア」誕生の物語』
2012 講談社選書メチエ

北村暁夫
『イタリア史10講』
2019 岩波新書

池上俊一
『パスタでたどるイタリア史』
2011 岩波ジュニア新書