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ウッチャリ条約

1889年、イタリアとエチオピアで結ばれた条約。イタリアはこれでエチオピアの保護権を獲たと主張したがエチオピアが認めず、1895年のアドワの戦いとなり、イタリアが大敗する。

 19世末に帝国主義列強による植民地獲得競走がはげしくなると、イタリア王国は、ヨーロッパ諸国の中では遅くに統一を遂げたこともあって、首相クリスピは列強に伍していくには海外植民地を獲得したいと考えた。すでにアフリカ分割がすすみ、残された地方としてアフリカ東北部のエチオピアに早くから関心を寄せて、1881年に紅海の出口に近いマッサブに居留地を設け、発言権を確保した。1884~85年のビスマルクが主催したベルリン会議に参加してその領有を認められた。あわせて1882年にはフランスと対抗するためドイツ・オーストリアとの三国同盟を結成した。

イタリアとエチオピアの条約締結

 このようにして始められたイタリアのアフリカに対する侵出は、フランスが1883年にチュニジアを保護国化したことに刺激を受け、エチオピア侵出を強め、1889年に前皇帝ヨハネス2世がマフディー軍との戦いで戦死し、急遽皇帝となったメネリク2世に対する支援を強め、その結果、1889年5月2日にウッチャリ条約を締結した。内容は次のようなものであった。
  • 前文でイタリア政府がメネリク2世をエチオピア皇帝として認めた。メネリクは現実にはエチオピアのショア地方を統治しているに過ぎなかったが、イタリアによって全エチオピアの皇帝であることが認められたことによって、改めて権威が認められる形となった。メネリク2世の正式な皇帝即位は11月3日のことだった。またイタリア語では「皇帝」の文字が用いられたが、現地のアムハラ語では「王たちの王」を意味するに過ぎなかった。
  • 第3条ではエチオピアの境界が明文化された。この境界線に基づき、イタリアは1890年にエリトリアを築く。
  • 第17条では「エチオピア皇帝は、他の諸国とのあらゆる外交交渉に関して、イタリア王国政府に従うことを認める。」と定められた。イタリア語の条文の狙いはイタリアがエチオピアを保護国化することにあったが、その条文はアムハラ語では「エチオピア皇帝はヨーロッパの勢力と交渉を行う際に、必要に応じてイタリア政府の援助を要請することが可能である」となっていた。
 ウッチャリ条約のウッチャリとは条約が締結された北エチオピアの地名であり、イタリア語では Uccialli と表記されていたが、現地名では Wichale なので、現在では現地語を尊重して、ウチャレ条約とされている。『世界史史料』8でも「ウチャレ条約」として採録されている。<歴史学研究会編『世界史史料8』帝国主義と各地の抵抗Ⅰ 2009 p.281-283>

イタリアとエチオピアの全面対決へ

 イタリア政府はこの第17条を根拠として、10月12日にはイギリス、フランス、ドイツ、ロシア、アメリカに対してエチオピアを保護国化したと通知した。エチオピアではそのことを知らされず、メネリク2世は同年11月に即位した後、各国に皇帝即位を知らせる書状を送付したところイギリスがそれを第17条違反に当たるとして受領を拒否した。はじめて外交権を失ったことを知ったメネリク2世はイタリアに対して抗議し、条文の書き直しを要求した。
アドワの戦いでのイタリア軍の敗北 イタリア政府はメネリク2世をなんとか懐柔しようとしたが、メネリク2世の真の独立への決意は固く、1894年5月1日をもってウッチャリ条約を無効とすると宣言した。イタリアはエチオピアとの決裂を見越してエリトリアを拠点とするエチオピア侵略の準備を進めていたので、条約破棄の結果として両国が武力衝突することを不可避としていた。1895年1月、イタリア軍はエリトリアからⅠオピア北部に侵攻した。しかしフランスなどから武器の支援を受けたエチオピア軍が反撃、1896年3月にアドワの戦いでエチオピア軍の大勝利となった。こうしてイタリアのエチオピア保護国化は失敗に終わったため、首相クリスピも辞任に追いやられた。
 1896年10月26日、アドワの戦いの講和条約がエチオピアの首都アジスアベバで締結され、その第2条で、ウッチャリ条約とその付帯条項は完全に破棄され、第3条でイタリアはエチオピア帝国の主権と独立を承認した。