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イタリア王国

1861年、サルデーニャ国王ヴィットリオ=エマヌエーレ2世を国王として成立。首都はトリノ。これでイタリア統一は一応達成、さらに1871年にローマを首都として完成する。

 1861年3月、制限選挙で選ばれた国会が、ヴィットリオ=エマヌエーレ2世を初代国王とすることに決め、イタリア王国が成立した。これによってイタリアの統一運動(リソルジメント)は一応達成された。首都は、サルデーニャ王国時代と同じくピエモンテ地方のトリノ(65年まで。その後1871年までフィレンツェ、同年ローマ遷都)。国家の主要ポストもほとんどピエモンテ出身者によって占められていた。憲法もカルロ=アルベルトの制定したサルデーニャ憲法が用いられ、その他の制度や法律もサルデーニャのものがそのまま使われた。

イタリア人をつくるのはこれからだ

(引用)1861年に成立したイタリア王国は、当時の領土で2200万の人口を擁した。トリノを州都とし、憲法はサルデーニャ王国憲法(通称アルベルト憲章)がそのまま用いられた。最初の議会は1849年に開かれた第一議会からの通算で第八議会と数えられ、国王は新国家となったにもかかわらず「一世」の称号を頑なに拒否し、ヴィットリオ=エマヌエレ2世と名のり続けた。これらはみな、イタリアの統一がサルデーニャ王国の拡張の結果であることを示していた。 「イタリアは作られたが、イタリア人を作るのはこれからだ」。いつしかイタリアでは、このスローガンが語られるようになった。……<北村暁夫『イタリア史10講』2019 岩波新書 p.187-188>
 イタリアの統一からまもなく日本は明治維新を迎えた。またドイツもまもなく統一国家となる。この同じ時期に近代国民国家の形成を迎えた三国には類似した点が見られるが、イタリアが他の二国と異なる点は、それ以前に統一国家としての歴史を持っていないことである。「イタリアの場合は、それまで全く互いに一体感を持つことのなかった複数の国家が統一されたのである。「イタリア」という国家の存在を民衆に自覚させることは、日本とは較べようもなく困難な事業であった。」<北村『同上書』p.189>

ローマの帰順

 この段階では、ローマとその周辺のローマ教皇領(教会国家)と、オーストリア領ヴェネツィアはまだ含まれていない。ヴェネツィアを併合するのは、1866年普墺戦争でプロイセンを支援した結果、その講和条約によって実現した。またローマ教皇領を併合するのは1870年の普仏戦争のセダンの戦いでフランスが敗れるという機会を待たなければならなかった。イタリア王国政府はローマ併合を目指してローマ教皇庁と交渉したが不調に終わり、9月20日、イタリア王国軍はローマ市内に侵攻し軍事占領、10月に住民投票を行って併合を決定した。翌1871年7月、ローマが正式に首都となり、ようやくイタリアは半島のほぼ全域を統治する国民国家を形成させた。

Episode 『クオーレ』と『ピノキオ』

 イタリア王国の統一から間もない1886年、デ=アミーチスの『クオーレ』が発表され、人気を博した。『クオーレ(心の意味)』は「母を訪ねて三千里」が日本でもアニメになったりして特に有名であるが、それは一つの挿話であり、本編はトリノを舞台に少年エンリーコの公立小学校の話である。平凡な《小国民》エンリーコの周りで、優等生や悪童たち、いろんな先生、こどものけんかに口出しする親たち、などなど19世紀イタリアの小学校生活が描かれており、現代の日本に通じている感じがして興味深い。一貫しているのは家族愛や祖国愛を涵養しようとしていることである。作者デ=アミーチス自身が統一戦争に従軍した経験があり、国王ヴィットリオ=エマヌエ-レ2世への敬愛や、カヴール、マッツィーニ、ガリバルディなど独立の英雄への尊敬が作品に顔を出している。
 同じ時期にコッローディの『ピノキオ』も発表された。作者カルロ=コッローディも同じようにイタリア統一戦争に従軍した人であり、童話作家となってピノキオを創作した。ピノキオは親方のもとから飛び出した操り人形で、エンリーコとはちがってハチャメチャな冒険をくりかえすが、そこに色濃く出ているのは、たとえば嘘をつくと鼻が伸びるぞ、最後はよい子になって人間になるといった教訓である。コッローディも、統一と独立を達成した祖国イタリアの子どもたちに、正直で勤勉な生き方を期待したのであろう。発表当時は『クオーレ』は爆発的に売れたが、『ピノキオ』の方は評判にならなかった。ところが第一次世界大戦後のファシズムの台頭期になると、『クオーレ』の方は敬遠され、『ピノキオ』の人気が出てコッローディは《国民的作家》となる。<デ=アミーチス『クオーレ』和田忠彦訳 平凡社ライブラリー2007、コッローディ『ピノッキオの冒険』杉浦明平訳 岩波少年文庫 1958>

第一次世界大戦とイタリア王国

 イタリア王国はフランスのとの対抗上、ビスマルクの誘いを受けてドイツ、オーストリアとの三国同盟を結成した。しかしトリエステ南チロルを「未回収のイタリア」とする意識が強く、オーストリアとは利害が対立するところから、第一次世界大戦が始まると、イタリアはイギリスなど協商側とロンドン秘密条約を結び、これらの地域をイタリア領にすることを条件に協商側に参戦した。
 その結果、イタリアは戦勝国となり敗戦国オーストリアとのサン=ジェルマン条約によって、トリエステ・南チロルの獲得に成功した。

ファシズムとイタリア王国

 「未回収のイタリア」は回収できたとしても、戦勝国としては領土的な要求は満たされないという世論が強かった。このようなヴェルサイユ体制に対する不満という国民感情を利用したムッソリーニファシスト党が支持を伸ばし、ローマ進軍という示威行為を行って、国王に首相就任を認めさせた。しかし、ドイツのナチズムとちがって、ムッソリーニはイタリア王国の国王を否定せず、その権威を利用しようとした。

戦後、国民投票で王政廃止

 そのため、ファシズム体制下でも王政は維持されたが、そのことが第二次世界大戦後に王政にとってはかえって命取りとなった。ムッソリーニ後、ドイツがイタリアを支配すると、国王はいち早くローマを離れてしまい、国民の反感を買い、第二次世界大戦後の1946年に王政治かどうかの国民投票が実施された結果、僅差ながら共和政が勝利を占め、イタリア王政は廃止された。
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書籍案内

北村暁夫
『イタリア史10講』
2019 岩波新書

デ=アミーチス
/和田忠彦訳
『クオーレ』
2007平凡社ライブラリー

コッローディ
杉浦明平訳
『ピノッキオの冒険』
1958 岩波少年文庫