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サルデーニャ王国

サヴォイア家のピエモンテ地方とサルデーニャ島を併せた国家。イタリア統一運動の中心となった。

 サルデーニャ王国とは、北イタリアのピエモンテ地方を支配していたサヴォイア家が、サルデーニャ島も支配(1720年)してからの国号である。都はピエモンテのトリノ。サヴォイア家(英語ではサヴォイ、フランス語ではサヴォワ)は11世紀から続くサヴォイア地方(現在はフランス領)を拠点とした豪族で、北西イタリアのピエモンテ地方を併せ、トリノを拠点にアルプス南部一帯を支配する公国であった。 → イタリア

サルデーニャ王国の成立

サルデーニャ王国

サルデーニャ王国① 1859年初頭
藤澤房俊『「イタリア」誕生の物語』p.201の図をもとに作成

 18世紀初頭のスペイン継承戦争ではイギリス・オーストリア側に付き、トリノの戦いでフランス軍を破り、ユトレヒト条約でシチリア王国を併合して「王国」となった。1720年にはシチリア島とオーストリア領のサルデーニャ島(地中海で最大の島)とを交換し、「サルデーニャ王国」となった。<この経緯については、藤沢道郎『物語イタリアの歴史』1991 第8話参照>
 したがってサルデーニャ王国と称するが、その国力の中心はトリノを中心とした北西イタリアのピエモンテ地方であった。1796年、ナポレオンに率いられたフランス軍がイタリア遠征を行い、ピエモンテはその通路としてフランス軍に蹂躙された。1810年、ナポレオンは再びイタリアに侵攻し、その結果ピエモンテはフランスに併合され、国王はサルデーニャ島に逃れざるを得なくなった。ナポレオンの支配はサルデーニャには及ばず、またイギリス海軍がシチリアと共にサルデーニャを防衛する形となったため、サルデーニャ王国は本土のピエモンテを失ったものの、サルデーニャ島で存続した。 → イタリア(フランスの支配)

ウィーン体制のもとで

 ナポレオンの没落によってサルデーニャ王国はピエモンテを回復し、さらにウィーン会議においてジェノヴァの領有を認められ、ヨーロッパ本土と地中海のサルデーニャ島にまたがる国家として再建された(図①)。
 これはウィーン会議を主導したメッテルニヒの構想で、フランスとオーストリアの間にある緩衝国家として位置づけられ、またフランスの強大化を抑える重しの役もになわされたのであり、ウィーン体制のもとで重要な存在となったことを意味している。実際には、常に隣接するフランスとオーストリアの両勢力の圧力を受けながら、巧みにバランスをとり、また豊かな農業生産力を貯え、分裂しているイタリアの中でも次第に最有力の国家となっていった。
カルボナリの蜂起 ウィーン体制の時代、イタリアは分裂状態が続いていたが、北イタリアではオーストリアの支配が復活し、ヨーロッパ各地での民族の独立と自由を求めるナショナリズムの台頭と呼応して、イタリアにも分裂を克服して統一を求める運動が始まった。とくに工業の発展したサルデーニャ王国のピエモンテでは市民層の成長も早く、独立と統一を求める結社であるカルボナリが、ナポリに続いて、1821年3月、トリノなどを中心にピエモンテ蜂起を起こした。国王ヴィットリオ=エマヌエーレ1世が退位し、新国王が憲法制定を認めて革命は成功した。しかし新国王は次第に革命を鎮圧することに転じ、またオーストリアのメッテルニヒも、革命政権がロンバルド=ヴェネト王国の解放も要求していることに強い危機感を抱き、前年のナポリと同様、オーストリア軍を直接派遣し、トリノの革命政権を倒した。これによってサルデーニャの絶対王政は続くことになったが、国内の自由と立憲主義の実現を求める勢力を押さえ込むことは困難になっていった。
青年イタリアの結成と蜂起 1831年には、前年のフランスの七月革命の影響を受け、カルボナリの残党が中部イタリアで再び蜂起したが、これもオーストリアの軍事介入で鎮圧されてしまった。それを受けて指導者のひとり、マッツィーニは、秘密結社の限界を自覚し、より公然とした政党組織として「青年イタリア」を結成する。マッツィーニは目標をオーストリアから独立することによって共和制国家としてイタリアを統一すると明確にして決起した。1834年にサルデーニャ王国内での決起には失敗したが、青年イタリアの活動は1860年代に結実するイタリア統一運動(リソルジメント)の第一歩となった。

1848年の革命運動

第一次イタリア・オーストリア戦争 全ヨーロッパで自由主義の高揚した1848年革命には国王カルロ=アルベルトが憲法制定に同意し立憲君主国となった。この時、ミラノヴェネツィアの市民が反オーストリア暴動を起こし、共和政を宣言すると、カルロ=アルベルトはそれを支援してオーストリアに宣戦を布告した。この第一次イタリア・オーストリア戦争(伊墺戦争)は、のちのイタリア統一戦争=伊墺戦争の前哨戦であり、第一次イタリア統一戦争という場合もある。
イタリア独立運動の後退 しかしこの戦いは、サルデーニャ軍がオーストリア軍に敗れたためイタリア統一は一歩後退し、ミラノとヴェネツィアの蜂起も鎮圧されて北イタリアのオーストリア支配が復活した。一方、ローマでも自由主義の運動による教皇国家に対する批判が強まり、ローマ教皇ピウス9世がローマを脱出したことによって市民が決起してローマ共和国が成立、1849年2月、マッツィーニはローマに迎えられ共和制を実現した。しかし、フランス軍が介入してローマ共和国は年内に鎮圧され、イタリアの統一はここでも実現できなかった。

首相カヴールの登場

サルデーニャ王国

サルデーニャ王国② 1859年7月以降
第2次独立戦争でロンバルディアを獲得
藤澤房俊『「イタリア」誕生の物語』p.201の図をもとに作成

 サルデーニャ王国ではカルロ=アルベルトが亡命した次にその子のヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が即位、首相としてカヴールが登場、1852年に宰相となった。カヴールは、国家体制の近代化をはかるとともに巧みな外交政策によってクリミア戦争に参戦するなど国際社会での地位を高め、イタリア統一運動の中心勢力となっていく。
第二次イタリア・オーストリア戦争=イタリア統一戦争 カヴールは1858年、フランスとプロンビエール密約を結んで秘密同盟をつくることに成功した。そのうえで1859年4月、ロンバルディア(中心がミラノ)とヴェネツィアを支配していたオーストリアの勢力を排除しようとして宣戦布告した。これを第二次イタリア・オーストリア戦争(伊墺戦争、独立戦争)ともいうが、一般にこの時の戦争を「イタリア統一戦争」といっている。  サルデーニャ王国軍はロンバルディアに侵攻、フランス軍と共同してオーストリア軍と戦ったが、フランスのナポレオン3世は、オーストリアが北イタリアから後退しサルデーニャ王国が大国化することを警戒し、途中でオーストリアと単独講和(ヴィラフランカの和約)してしまった。サルデーニャ軍は戦争を継続することができなくなったので、有利な戦いであったにもかかわらずロンバルディアを獲得するだけで講和せざるを得なかった。カヴールは、ナポレオン3世の密約に対する「裏切り」に怒り、同時に責任をとって首相を辞任した。しかし、この戦争でロンバルディアを獲得し、ミラノなどの産業の盛んな都市を支配下に置いたことはサルデーニャがイタリア統一の主導権を握ったことを示していた(図②)。

中部イタリアの併合

サルデーニャ王国

サルデーニャ王国③ 1860年3月以降
中部イタリアとサヴォイア・ニースの交換
藤澤房俊『「イタリア」誕生の物語』p.201の図をもとに作成

 しかし、カヴールはフランスと対立することはサルデーニャにとって不利になることを自覚して、まもなく復帰し、ナポレオン3世と和解、巧みに交渉を続け、フランスとの取引の機会を狙った。
 この間、中部イタリアのパルマ公国、モデナ公国、トスカーナ大公国は小国として存在することは困難と考えるようになり、サルデーニャ王国への併合を求める民衆の運動が興った。これらの小国の君主たちはでは事態を恐れ、トスカーナ大公レオポルド2世を初め、パルマ公やモデナ公も国外に相次いで脱出した。教会国家ではボローニャ市を中心としたロマーニャにも臨時政府ができた。これらの中部イタリア地域では、1860年3月に住民投票が実施され、圧倒的多数でサルデーニャへの併合が決まった。サルデーニャ王国のカヴールは、中部イタリアの併合を認めさせるため、フランス側の割譲要求が強いサヴォイアニースでも同様の住民投票実施に応じた。同年行われたサヴォイアとニースは住民投票でフランス帰属が決まった。サヴォイアはサルデーニャ王家の発祥の地であり、反対は根強かった。またニース出身のガリバルディは激しく反対したが、いずれもカヴールは感情よりイタリア統合という実利を一歩進めることを選択した言える(図③)。これによってサルデーニャ王国は人口500万の小国から、一気に人口1100万の大国に成長した。

シチリア・南イタリアの併合

サルデーニャ王国

サルデーニャ王国④ 1860年10月以降
シチリア・南部イタリアの併合
藤澤房俊『「イタリア」誕生の物語』p.201の図をもとに作成

 サルデーニヤ王国への併合という形でイタリアの統一に、当初は協力したガリバルディは、ニースのフランス編入に怒り、カヴールとたもとを分かった。その上で新たな活動の場を求めて、1860年、千人の義勇兵からなる赤シャツ隊を率いてシチリアへの軍事遠征を敢行した。シチリアを占領し、さらにナポリに無血入城、両シチリア王国を制圧した。この想定外の動きにあわてたカヴールは、先手をうって10月にシチリアと南部イタリアで住民投票を実施してサルデーニャへの併合を既成事実とし、1860年10月、国王ヴィットリオ=エマヌエレ2世とガリバルディの会見をセットし、ガルバルディが征服地を国王に献上することに合意させた。これによって、イタリア半島はローマ周辺の教皇領(教会国家、ラツィオ)と、オーストリア支配下のヴェネト地方(ヴェネツィア)を除いてサルデーニャ領となった(図④)。

カヴールとガリバルディの駆け引き

(引用)(ガリバルディの)次なる目標はローマである。だが、ローマを防衛するのは、ナポレオン3世のフランスであった。ガリバルディがローマに入ることは、サルデーニャ王国の後ろ盾となっていたフランスとガリバルディ軍とが衝突することを意味し、それはカヴールにとって全力で阻止しなければならない。カヴールは機先を制し、シチリアと半島南部で住民投票を行うことを決め、10月にそれを実施する。政治的な駆け引きでは、アヴールはガリバルディよりも一枚上手であった。さらに、国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世とガリバルディの会談を設定する。それが行われた場所の名をとって「テアーノの出会い」と呼ばれるこの会談で、ガリバルディは自らが軍事行動によって獲得した領土をサルデーニャ王国に「献上」することを余儀なくされた。<北村暁夫『イタリア史10講』2019 岩波新書 p.183-184>

サルデーニャ王国からイタリア王国へ

 翌1861年3月17日に正式に国号をイタリア王国に改めた。これによって、それまで地名でしかなかった「イタリア」は、初めて国家の名称となった。しかし、依然としてヴィットーリオ=エマヌエーレ2世を国王とする立憲君主制国家であり、首都もローマではなくトリノと定められ、国家制度や法律もそのままサルデーニャ王国のものを継承していた。共和政国家としての統一ではなかったという点では、マッツィーニとガリバルディの目指したものではなかった。一方、ヴェネツィア・ローマというイタリアの主要地域が含まれていないという点では、カヴールの意図した国家でもなかった。

ヴェネツィアとローマの併合

 イタリア王国と言いながら最も重要なローマとヴェネツィアを領土としていなかったので、これらの地方の併合が次の目標としなり、そのために1865年に都を北イタリアのトリノから中部イタリアのフィレンツェに移した。その上で、1866年、普墺戦争でオーストリアが敗れた結果、同年10月の住民投票をへてヴェネツィア(ヴェネト地方)のイタリア王国に併合された。また、ローマは1870年、普仏戦争でフランスが劣勢となったため、ローマ教皇を守るためにローマに駐屯していたフランス軍が撤退、その隙にイタリア王国軍がローマ教皇領占領、10月に住民投票でイタリア王国に帰属を決めたことによる。翌1871年、7月1日に正式にローマに遷都、名実ともにイタリア王国となったのはその時点と言える。 → 未回収のイタリア  ヴァチカン  ローマ教皇
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書籍案内

藤沢道郎
『物語イタリアの歴史』
1996 中公新書

藤沢房俊
『「イタリア」誕生の物語』
2012 講談社選書メチエ

北村暁夫
『イタリア史10講」
2019 岩波新書