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プロンビエール密約

イタリアの統一をめぐるフランスとサルデーニャの密約。

 1858年7月、フランスのナポレオン3世サルデーニャ王国カヴールの間の密約。プロンビエール(Plombiere)両国国境付近の温泉地。秘かに会合した両者はフランスとサルデーニャが同盟してオーストリアと戦う密約を結んだ。サルデーニャ側はフランス軍の支援の見返りとして、サヴォイアニースをフランスに割譲することと、ナポレオン3世の従弟とサヴォイア家の王女との結婚を承認した。ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世は反対したが、カヴールに無理やり納得させられた。この密約に基づき、翌59年4月、フランス・サルデーニャ同盟軍はオーストリア支配下のロンバルディアに侵攻し、イタリア統一戦争が始まる。

ナポレオン3世の秘密外交

(引用)1858年7月21日、プロンビエールで湯治中の彼は密かに(つまり外務大臣に知らせることなく)ピエモンテ=サルデニアの首相カヴールを迎えた。二人はイタリアへのフランスの介入の大枠を、一緒に決定した。カヴールによれば皇帝はイタリアに20万の兵を派遣し、教皇を盟主とし四つの国からなる連邦国家をつくることで密約を交わした。即ち王位にピエモンテ=サルデニアのヴィットリオ=エマヌエレをおく北イタリア、中部はナポレオン=ジェローム(ナポレオン3世の従兄弟)の望み通り彼を王とする中央イタリア、さらに南部イタリア(教皇派の諸州)、ナポリ王国(ミュラのために)の四つである。介入の交換条件として、フランスはニースとサヴォワをもらうのである。」<ティエリー・ランツ『ナポレオン三世』1995 文庫クセジュ 白水社 p.103>

Episode ナポレオン3世の空想趣味と裏切り

 対オーストリア戦争にナポレオン3世を誘い込もうとしたカヴールの申し出に対し、ナポレオン3世はなぜ同意し、そして結局裏切ることになったのだろうか。彼はまず、イタリア遠征で最初の名声を挙げた叔父ナポレオンにあやかろうとした野心があり、また若い頃カルボナリの一員だったこともあって「第二の故郷」のために役立ちたいと個人的な気持ちも表明した。しかしこのような「空想趣味」は現実の前ではどこかに消えてしまう。イタリア統一が進みローマ教皇領が消滅したら、フランスのカトリック勢力の怒りを買うことになるのではないか? そのことに気づいたナポレオン3世はカヴールとの約束をあっさり反古にしてオーストリアとの単独講和を結んだのである。<クリストファー=ダガン『イタリアの歴史』2005 創土社 p.179-180 などによる>

密約の破棄

 プロンビエールの密約が成立したことにより、1859年4月、フランスとサルデーニャ王国の同盟軍はオーストリア領のロンバルディアに侵攻し、イタリア統一戦争(第2次イタリア=オーストリア戦争)が開始された。ところが戦争が長期化の様相を見せ始め、フランス兵の戦死者も増加し始めるとナポレオン3世は途中で変心し、1859年7月、単独でオーストリアと講和(ヴィラフランカの和約)してしまう。プロンビエール密約は無視されたことになり、サヴォイア・ニースの割譲などの約束も実行されなかった。
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