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イタリア統一戦争

イタリアの統一を目指すサルデーニャ王国が、フランス(ナポレオン3世)の支援を受け、1859年に起こしたオーストリアとの戦争。優勢に戦ったが、フランスが単独で講和したため戦争は中断され、統一には至らなかった。この時のソルフェリーノ戦いに参加したアンリ=デュナンが国際赤十字社を創建するきっかけとなった。

 1859年サルデーニャ王国の首相カヴールが主導してフランスのナポレオン3世と軍事同盟を結び、オーストリアに宣戦、北イタリアの解放によるイタリアの統一を目指した戦争。
 サルデーニャ軍がフランス軍と同時に進撃しロンバルディア・ヴェネツィア(オーストリア支配下にあった)に侵攻、ソルフェリーノの戦いで勝利を占めるなどの優位に立ったが、戦争の長期化を恐れたナポレオン3世が突然オーストリアと講和したため、戦争は中断され、サルデーニャはロンバルディアを得ただけで講和せざるを得なくなり、イタリア統一は実現できなかった。ウィーン体制崩壊後のヨーロッパで起こった1853年のクリミア戦争とならぶ重要な多国間戦争であった。また、ウィーン体制の理念からまったくはずれて、フランスが再びヨーロッパの大国となったことを印象づけることとなった。 → イタリア

イタリア=オーストリア戦争ともいう

注意 15世紀末から16世紀中頃までに展開されたイタリア戦争とはまったく別なので注意すること。また、高校教科書では、1859年のサルデーニャ王国とオーストリア帝国の戦争を、イタリア統一戦争としているが、詳しく見ると、サルデーニャとオーストリアの戦争は、それ以前の1848年にも行われている。それは、サルデーニャ国王カルロ=アルベルトがロンバルディアに出兵しオーストリアに撃退された戦争で、第1次イタリア=オーストリア戦争とも言っている。それに次いで起こったので、1859年の戦争を第2次イタリア=オーストリア戦争という場合もある。またイタリア=オーストリア戦争をイタリア独立戦争、イタリア解放戦争としている歴史書、辞典類もある。さらに、1866年の普墺戦争の際にイタリア王国がプロイセンと同盟してオーストリアと戦い、ヴェネツィアなどを併合した戦争を第3次イタリア=オーストリア戦争とする場合もある。高校世界史では過度に複雑になるのを避け、最も重要であった1859年の戦争を「イタリア統一戦争」としているが、この戦争だけでオーストリア支配を排除し統一を実現したわけではなく、1820年代に始まり、1871年に一応達成されたイタリア統一運動(リソルジメント)の過程として捉える必要がある。イタリアがオーストリアと戦って統一を遂げたと言うことは、後の第一次世界大戦で、イタリアはドイツ・オーストリアの三国同盟を結んでいながら、結局同盟側に参戦しなかった歴史的事情となる。

開戦

 前年のナポレオン3世とサルデーニャ王国首相カヴールプロンビエール密約に基づき両国同盟軍が形成され、1859年4月に同盟軍はロンバルディアに侵攻して戦闘が始まった。フランス軍はナポレオン3世みずからが率いる12万8千、サルデーニャ軍7万、それにガリバルディの義勇部隊「アルプス猟歩兵旅団」3200人が加わった。迎え撃つオーストリア軍は22万。皇帝フランツ=ヨーゼフ1世が陣頭指揮を執った。
ソルフェリーノの戦い  1859年6月、ソルフェリーノでフランス・サルデーニャ同盟軍とオーストリア軍が衝突した。この激戦では、かろうじてフランス・サルデーニャ同盟軍が勝利したが、フランスは8500人以上の戦死者を出し、オーストリア軍はそれをうわまわる1万2000人が犠牲になった。オーストリア軍はヴェローナ、マントヴァに要塞を築き防衛を強化したため、同盟軍はそれ以上進撃できず、苦戦に陥った。フランス国内では大義のない戦争に否定的な世論が強くなっていった。

ナポレオン3世の単独講和

 1859年7月になって突如ナポレオン3世は、サルデーニャ側にはからずにオーストリアとヴィラフランカの和約を結んで単独講和し、戦場から撤退した。ナポレオン3世は戦争の長期化を恐れたことと、サルデーニャ王国が全イタリア統一に進みローマ教皇領まで併合するに至ればフランスのカトリック信者の反発を招くであろうと読んで、適当なところで手を引くと判断したためらしい。
 ヴィラフランカの和約では、ロンバルディアはいったんフランス領としてから、改めてサルデーニャに与えられることとなり、ヴェネツィアは依然としてオーストリアの支配下に残ることとなった。サルデーニャ王国を無視して講和を締結したことに対し、カヴールは激しく怒り、首相を辞任した。

デュナンと赤十字運動

 ソルフェリーノの戦いに従軍していたスイス人のアンリ=デュナンは、敵味方を限らず、傷ついた兵士が放置され死んでいくのを目の当たりにして、衝撃を受け、戦場での負傷者の救援を敵味方を越えて行う必要を痛感した。さらにデュナンは、クリミア戦争でのナイティンゲールの活躍を知り、それに刺激されて、国際赤十字をつくることを提唱し、それを1964年の赤十字条約で実現させた。
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