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カルロ=アルベルト

イタリアのサルデーニャ王国、サヴォイア家の国王。1848年、オーストリアからの独立戦争を開始するも敗れて退位。ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世の父。

 イタリアとフランスの国境地帯であるピエモンテと地中海上のサルデーニャ島を合わせて支配していたサルデーニャ王国は、ナポレオン戦争後のウィーン体制の時代、フランスとオーストリアの緩衝地帯となって存続することが出来た。しかし、分裂していたイタリアでも自由主義とナショナリズムが盛んになり、市民的な自由と立憲政治の実現とオーストリアの支配からの独立をめざすカルボナリといわれた結社の運動が広がり、イタリアは大きく揺れ動くこととなった。

ピエモンテ革命の失敗

 サルデーニャ王国の王家サヴォイア家の王位継承権を持つカルロ=アルベルトは、若い頃パリで暮らし、自由主義などの新しい思想を理解する開明的な人物とみられていた。1821年3月、カルボナリと青年将校らが決起し、国王ヴィットリオ=エマヌエレ1世が退位すると、国王には弟のカルロ=フェリーチェが即位し、カルロ=アルベルトは改革派に支持されて摂政となった。このカルボナリによるピエモンテ革命では、前年のスペイン立憲革命の影響を受け憲法が制定されたが、首都トリノの市民の多くは保守的で、改革派も市民の支持を得ることを行った結果、新国王は態度を変え、改革を抑えにかかった。また改革派から期待されたカルロ=アルベルトも改革は支援に動かなかった。この動きを見たウィーンのメッテルニヒは、自由主義の拡大と、イタリア全土への独立運動の波及を防止するため、オーストリア軍を派遣し、ピエモンテ革命は鎮圧されてしまった。

青年イタリアの期待

 ピエモンテ革命が弾圧された後の1820年代以降、揺れ動くイタリア各国のなかで、次第に地歩を固めていった。1831年4月、サルデーニャ王国の王位についたカルロ=アルベルトは、フランスで育ち、ナポレオン軍に勤め、フランス的教養を身につけていたため、それまでの専制的な国王にかわる、開明的な国王として期待された。そのころ、青年イタリアを結成し共和政によるイタリア統一を構想したマッツィーニも、当面するイタリアの統一という点ではカルロ=アルベルトに期待し公開書簡を送るほどだった。しかし、宮廷内には保守派の勢力が強く、フランスの七月革命が及ぶことを恐れ、オーストリアとの提携が強化され、マッツィーニには帰国したら逮捕するという逮捕状が出された。

第一次独立戦争を起こす

 1848年、フランスの二月革命が起こると、全ヨーロッパに広がった共和主義、立憲主義の運動はサルデーニャ王国にも及んだ。カルロ=アルベルト国王は共和派の要求を入れて憲法を制定し、立憲君主国の体制を採ることに合意した。続いてウィーン三月革命が起こり、オーストリア領ロンバルディアの中心都市であるミラノで市民が蜂起し、独立運動が激化すると、カルロ=アルベルトはそれを助けてオーストリアに対して1848年3月23日、宣戦布告した。これは、第一次イタリア独立戦争、あるいは解放戦争、イタリア=オーストリア戦争ともいわれ、後のイタリア統一戦争(第2次)の先駆的な動きであり、イタリア統一(リソルジメント)の重要な一歩となった。

オーストリアとの戦いで敗れる

 しかしカルロ=アルベルトの本心はミラノの独立を支援するより、王国の領土の拡張にあったので、共和派との連携はうまくいかず、「ミラノの5日間」と言われたミラノ市民の戦いを援護することができず、オーストリア軍に大敗してしまった。翌49年にもオーストリア軍と戦ったが再び敗れ、やむなく退位してポルトガルに亡命し、王位を息子のヴィットーリオ=エマヌエーレ2世に譲った。<クリストファー・ダカン/河野肇訳『イタリアの歴史』2005 p.160-165>  国王カルロ=アルベルトに対しては、次のようなきびしい見方もある。
(引用)ヨーロッパ各地の経済情勢はさらに悪化し、改革勢力が圧倒的に優勢になっていた。イギリスでは1846年、保守派が穀物輸入を制限する穀物法の廃止に追いこまれていた。しかし、そのような情勢にもかかわらず、ピエモンテ国王カルロ・アルベルトは率先してイタリア全体のために立ち上がろうとはしなかった。かれは若い時には自由主義を面白がって口にしていたが、その後は、先祖と同じように、復古主義とカトリックを信じていた。(中略)1848年1月にパレルモで革命が起き、それが半島南部に広まり、強制的にナポリ国王フェルディナンドに憲法制定を認めさせたときになっても、このピエモンテ国王はいっさい譲歩しなかった。カルロ・アルベルトがついに妥協したのは、パリの二月革命が終わり、バリケードが撤去された後のことであった。三月初めに、彼はやっと憲法発布を許可したのである。しかし、この国王は「憲法」という言葉を嫌い、ピエモンテの憲法はその後もずっと「法規」と呼ばれ続けた。<ダカン/河野肇訳『前掲書』p.160>
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書籍案内

ダガン/河野肇訳
『イタリアの歴史』
2005 ケンブリッジ版
世界各国史