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イタリア戦争

15世紀末~16世紀中頃のイタリアをめぐるフランスと神聖ローマ帝国の戦争。軍事革命といわれる戦争形態の変化をもたらし、また主権国家の形成を促し、近代を準備した戦争と見ることができる。

 15世紀末から16世紀中頃まで、イタリアを戦場として、50年以上にわたって断続的に展開された、フランスヴァロワ朝)とハプスブルク家神聖ローマ帝国皇帝を継承し、ドイツ・ネーデルラント・スペインなどを領有)との間の戦争である。ルネサンスの時期と重なり、さまざまな技術革新による軍事革命といわれる戦争形態の変化が進み、この戦争を経ることによってヨーロッパの主権国家の形成が始まったとされる、重要な歴史的意義を有する戦争である。

イタリア戦争の期間 広義と狭義

 イタリア戦争は長期にわたり、断続的に展開された戦争であるが、一般に
と使い分けている。いずれにせよ、この間、戦争は断続的に主にイタリアを舞台に展開された。

ルネサンス、宗教改革、オスマン帝国の侵入と並行

 イタリアを巡る戦争が長期的、断続的に続いた1494~1559年の時期は、イタリア=ルネサンスが後半期を迎え、レオナルド=ダ=ヴィンチミケランジェロラファエロらが活躍した時代であった。彼らの芸術活動はイタリア戦争の混乱と惨禍とは無縁ではなかった。特に1527年のカール5世による「ローマの劫略」は、イタリア=ルネサンスの最中のイタリアに打撃をあたえた。また、この時代はドイツでルターの宗教改革が始まり、東ヨーロッパと地中海ではオスマン帝国スレイマン1世による侵攻がキリスト教世界を大きく脅かしていた。それらの世界史的出来事の密接にからみあっていたのがイタリア戦争であった。

イタリア戦争の性格

 イタリア戦争を近代以降の戦争と同じものと考えてはいけない。動機は国王間の財産や相続という私的な利害関係から起こった、「中世的な要素」の戦争であった。近代の戦争のような明確な国家間の対立から起こった戦争ではない。しかし、同時にイタリア戦争は「近代ヨーロッパ」の始まりを示すと言われるような新しい側面をもっていた。
中世的な戦争の側面 中世後期の戦争(およそ百年戦争まで)は騎士による一騎打ち戦法が主であり、火砲は補助的であった。また中世の戦争は、国王同士の財産と相続という個人的利害の対立からおこるか、イスラーム教徒からキリスト教の教会も守るための戦争として起こった。シャルル8世がイタリアに侵入したのは、アラゴン家の首長に対抗してナポリの王位へのアンジュー家の主張を支持するためであり、またイェルサレムを再占領する十字軍を指揮するためのものでもあった。フランソワ1世とカール5世の戦いも、背景に新教と旧教の対立やオスマン帝国の侵攻があったとしても、この戦争は「動機という点で、まさしく中世的」であった。
近代へのギア・チェンジ しかし、同時にイタリア戦争には、それまでの中世の戦争とは異なる、「近代的」※と言うことのできる新しい側面があった。それはどのようなものであろうか。
(引用)後の歴史を知る眼からすれば、シャルル8世の軍隊を最初の「近代的」陸軍と書くことができる。なぜならば、それは、相互支援を行ない、しかも戦術的にいろいろな組合せをもって展開される三兵種―騎兵、歩兵、砲兵―から成っており、また国庫から俸給が支払われる兵(引用者注、傭兵ではなく)から大体ができていたからである。歴史家は「近代ヨーロッパ史」の始まりを、いみじくも、1494年のフランス軍の(イタリアへの)侵入を端緒とするイタリア戦争に置くのが、通例である。しかし、15世紀の段階では、ほとんどの人が、戦争にせよ他の何にせよ、そこに新しい時代の夜明けを、すなわち言わば「ギア・チェンジ」が起こっていることを、少しも気づかなかった。実際にはむしろ反対だった。<M.ハワード/奥村房夫・奥村大作訳『ヨーロッパ史における戦争 改訂版』2010 中公文庫 p.45>
※「近代」という時代区分は、最近では世界史の高校教科書では18世紀後半からとする傾向があり、このイタリア戦争のあった15~16世紀は、中世と近代に挟まれた、「近世」という時代区分とされている。

イタリア戦争の原因

 フランスはヴァロワ朝のもとで国家統一をとげ、王権を更に強化しようとしていたが、ハプスブルク家神聖ローマ帝国皇帝として婚姻政策を展開してネーデルラントなどのフランスの周辺に領土を獲得し、スペインと合わせてフランスを挟み込む形となり、このハプスブルク帝国の形成はフランスにとっては大きな脅威となった。
 当時北イタリアはミラノ、フィレンツェ、ジェノヴァなど高い経済力を持ち同時にルネサンス文化の舞台として繁栄していたが、政治的には分裂抗争を繰り返していた。さらにその背後にローマ教皇(ボルジア家出身のアレクサンデル6世、ロヴェレ家のユリウス2世、メディチ家のレオ10世、クレメンス7世など)が政治勢力としてイタリア中部に存在し、フランス王、神聖ローマ皇帝の力を利用しながら、権力の維持と強化を図っていた。そのような複雑な北イタリアの情勢に、フランス王が北イタリアの高い経済力を支配下におこうとして介入したことから始まったのがイタリア戦争である。

イタリア戦争(広義)の勃発

 ナポリ王国で、1435年にフランス系アンジュー家の王位が断絶した後に王位を継承していたスペインのアラゴン家のフェルディナンド1世が1494年に亡くなると、フランス王シャルル8世は王位継承権を主張し、ローマ教皇アレクサンデル6世に承認を求めた。ローマ教皇がそれを拒否すると、シャルル8世は3万の軍勢の中に7~8千のスイス人傭兵を含む部隊を率いてイタリアに侵入した。フィレンツェでは2年前にロレンツォ=ディ=メディチが亡くなっており、メディチ家は独裁政治に反発していた共和派によって追放された。フランス軍はさらにローマを経て、95年2月にはナポリを占領した。ミラノの実力者ルドヴィコ=イル=モロはフランスを支持した。
 教皇アレクサンデル6世はスペイン国王(兼シチリア王)フェルディナンド5世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、およびヴェネツィアとフィレンツェに呼びかけ、フランス王に対抗し、3月に神聖同盟を成立させた。退路を断たれることを恐れたシャルルは、急遽ナポリからフランスに戻ろうとし、7月フォルノヴォの戦いで敗れ、ようやくパリに帰還した。
  • シャルル8世のねらい シャルル8世のイタリア遠征の口実は、ナポリ王国の王位継承権を主張したことであった。また、彼はオスマン帝国に占領されている聖地イェルサレムの奪回という十字軍の再興も構想していたと言われている。しかしその背景には、当時のフランスは、1453年に百年戦争を終え、シャルル7世、ルイ11世の2代の国王の間に中央集権体制を固めつつあったが、産業の発達は遅れていたので、北イタリアの進んだ経済力を支配下におくことをねらっていたものと思われる。
  • イタリア遠征の影響 シャルル8世のイタリア遠征は失敗に終わったが、その軍隊の侵入は、分裂していたイタリア諸勢力に大きな脅威となり、フィレンツェではメディチ家の独裁がいったん終わってサヴォナローラの神権政治がはじまるなどの影響があった。またイタリア戦争の渦中にあって、イタリアの国家統一を真剣に考えたのがマキァヴェリであった。

フランス王・神聖ローマ皇帝・ローマ教皇 三者の確執

  • 次のフランス王ルイ12世は、1499年にこんどはミラノ公国の継承権を主張して介入し、ルドヴィコ=イル=モロ(スフォルツァ家)を追放して北イタリアに進出した。1501年にはフランスと結んだローマ教皇アレクサンデル6世(スペインのボルジア家の出身)はチェーザレ=ボルジアに命じて教皇領の拡大を図った。しかし、1503年、教皇アレクサンデル6世が没し、11月新教皇ユリウス2世即位すると、ボルジア家の勢力を抑え、その没落を図った。そのうえで1508年、ユリウス2世はフランスの進出に対抗するため、スペイン、ヴェネツィア、スイスと神聖同盟を結成した。フィレンツェはサヴォナローラを処刑し、穏健な共和政政府を樹立させていたが、ローマ教皇と対立していたこともあって、フランスの陣営に入った。
  • 1512年、フランス王ルイ12世は、教皇ユリウス2世の神聖同盟軍との戦い(ラヴェンナの戦い)に敗れて北イタリアの領土をうしなった。フランスに与して敗れたフィレンツェでもマキァヴェリは失脚して政権を離れ、『君主論』を執筆した。翌13年、教皇ユリウス2世が死去してメディチ家出身のレオ10世が即位した。
  • 1515年、フランス王フランソワ1世がミラノ攻略をめざし北イタリアに進出、マリニャーノの戦いでスイス傭兵を中心とした神聖同盟軍を破った。
  • 1517年、ドイツで宗教改革が始まる。
  • 1519年、ハプスブルク家のスペイン王カルロス1世が神聖ローマ帝国皇帝に当選しカール5世となる。これによってハプスブルク家領がドイツ、ネーデルラント、ミラノ、南イタリアなどにおよぶこととなり、フランスが包囲されることになるので、フランス王フランソワ1世は深刻な脅威を感じることとなる。

イタリア戦争(狭義 1521~44年)

  • 1521年 フランス王フランソワ1世は、ハプスブルク軍に対しピレネー方面とイタリア方面で全面的な戦争を挑んだ。ここから狭義のイタリア戦争が始まる。しかし、皇帝カール5世のドイツ・スペイン連合軍がイタリアを制圧し優勢となった。ドイツ内ではルター派の動きが活発となり、1524年~25年、ドイツ農民戦争が起こる。
  • 1525年 パヴィアの戦いではカール5世のドイツ軍がフランソワ1世を捕虜とするという勝利となった。フランソワ1世はマドリードに幽閉されたが、フランスはイタリアでの権益を放棄、領土の割譲を約束し、二人の息子を身代わりにして解放され、パリに戻るという屈辱を味わった。
  • 1527年 カール5世はドイツ兵(傭兵)をローマに派遣、フランス側についた教皇クレメンス7世を圧迫するため、「ローマの劫略」を行った。このためローマは灰燼に帰す。その後、皇帝は教皇と和解し、1530年カール5世はボローニャで正式にクレメンス7世から戴冠する。

イタリア戦争・オスマン帝国・宗教改革の関係

 この時期のイタリア戦争に大きな影響を持っていたのが、ドイツにおいて1517年に始まった宗教改革とその後の宗教対立と、東方からのオスマン帝国の侵攻である。特にオスマン帝国は1526年にはスレイマン1世が侵攻してハンガリーを奪っており、さらに1529年にはウィーン包囲(第1次)を行い、カール5世は両面から挟撃される形となった。1535年にはフランスのフランソワ1世は「敵の敵は味方」ということで、オスマン帝国と手を結び、スレイマン大帝からカピチュレーションを認められたとされる。また、カール5世の対応はイタリア戦争とオスマン帝国との戦争の情勢に応じて、ルター派に対する対応を変化させている。それはシュパイアー帝国議会において、1526年の第1回では容認し、1529年の第2回で再び否認に転じたことに現れている。

イタリア戦争の終結

 戦争の長期化はハプスブルク家神聖ローマ帝国とヴァロワ家フランス王国の双方とも、財政を困窮させ、戦争の継続が困難になってきた。
  • 1544年、クレピーの和約でカール5世とフランソワ1世は一端、講和する。これを受けて翌年のトリエント公会議が開催された。1547年にフランソワ1世が没、アンリ2世がフランス国王となり、一方のカール5世も1555年に引退して、フェリペ2世がスペイン王となった。
  • 1557年には、フェリペ2世がイギリスのメアリ1世に要請し、イギリスがフランスに出兵した。イギリス軍はギーズ公の率いるフランス軍に敗れ、翌58年、百年戦争以来フランス内に残っていたイギリス領のカレーはフランスに奪回されてしまった。
  • 1559年に至り、カトー=カンブレジ条約でフランスのアンリ2世とスペインのフェリペ2世、イギリスのエリザベス1世(メアリ1世に次いで前年に即位)とのあいだの和議が成立し、イタリア戦争が終結した。

フランス王家とハプスブルク家の対立は続く

 16世紀のイタリア戦争でのフランスのヴァロワ朝フランソワ1世と、スペイン・オーストリアなどを支配するハプスブルク家のカール5世の対立以来、両家はヨーロッパの国際政治の基本的な対立軸として、18世紀中頃まで続く。特に18世紀前半のスペイン継承戦争オーストリア継承戦争はその例である。この対立の図式は、1756年の七年戦争を前にして、オーストリアのマリア=テレジアが「外交革命」に踏み切り、フランスと提携するまで続く。七年戦争では、オーストリアとプロイセンの対立を基軸とし、フランス(ブルボン家)がオーストリア(ハプスブルク家)を支援し、イギリスがプロイセンを支援するという対立軸の変化が生じる。

イタリア戦争の影響

  • 軍事革命 イタリア戦争はフランス国王と神聖ローマ皇帝の対立を軸に、オスマン帝国の脅威と宗教改革の動きがからんで複雑化し、長期化した。その間、戦争の形態は中世的な騎士を主体とした戦闘ではなく、火砲(鉄砲)を持った歩兵の集団戦の形態に変化した。また、大砲が実用化され、戦闘規模が拡大し、火砲の優劣が勝敗を分ける要素として重要になってきた。このような武器の変化にともなう、戦術、戦争形態の変化は軍事革命といわれており、騎士階級を没落させ、当面の絶対王政諸国は傭兵への依存度が増し、市民革命後の国民国家においては国民から徴兵した国民軍による近代的な戦争形態へと転換していくこととなる。
  • 主権国家の形成の始まり この戦争の過程で、国境とその領域内の住民を国民として統合する国家主権が意識されるようになった。また軍事革命によって生まれた新たな戦争形態で戦うために、常備軍とそれを維持するための財源を国民から租税を徴収するための官僚機構が必要となってきた。こうして、特にフランスとスペインで主権国家の形成が進んだ。ドイツは領邦の独立性が強く、個々の領邦が主権国家として分立する傾向となり、統一国家の形成は遅れた。イタリアでも統一的な王権の形成は遅れた。イギリスはバラ戦争によって封建領主が没落し、16世紀のテューダー朝のもとで主権国家として統一を遂げていった。 → 主権国家体制
  • イタリア=ルネサンスへの影響 イタリア戦争の戦場となったイタリアでは、とくに1527年のカール5世のローマの劫略によってローマが破壊され、そのためにイタリア=ルネサンスは打撃を受けた。しかし、これでイタリア=ルネサンスが消滅したわけではなく、その後も16世の終わりごろまでローマ、ヴェネツィアなどでなお活発な芸術活動がおこなわれている。

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マイケル・ハワード
奥村房夫・奥村大作訳
『ヨーロッパ史における戦争 改訂版』
2010 中公文庫