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マキァヴェリ

16世紀はじめ、ルネサンス期の政治思想家。フィレンツェの共和政政権の下で外交に従事した経験から、1513年ごろ『君主論』を著し、小国家に分裂していたイタリアの統一には、従来の宗教や道徳的価値観に囚われない現実的な権謀術数が必要と論じた。その思想は近代政治学につながり、また多くのマキャヴェリズムといわれる権力志向型の政治思想を生み出した。


Nicolò Machiavelli 1469-1527
 ニコロ=マキァヴェリ(1469~1527)。マキァヴェッリ、マキアヴェリなどとも表記。マキァヴェリはルネサンス期のイタリアのフィレンツェで外交、政治に活躍し、実際の活動の体験から現実的な政治や外交のあり方を説いた『君主論』(1513年頃)などの諸作で、近代の政治思想に大きな影響を与えた人物である。
 マキャヴェリは1469年、メディチ家のロレンツォ=デ=メディチが20歳で「国家の長」に就任したときに生まれた。サヴォナローラ処刑後のフィレンツェで市政庁の書記に任命された。おりから1499年、フランスのルイ12世がミラノに侵攻し、ロドヴィコ=スフォルツァ(イル=モロ)を追い出すことがあり、それにからんでマキァヴェリはフランス王との折衝を命じられ、パリに派遣された。ここで外交交渉の現場にたった。また1502年にはフィレンツェに圧力をかけてきたローマ教皇の子チェーザレ=ボルジアとも交渉した。その後も、ローマ皇帝マクシミリアン1世やフランス王への使節としてフィレンツェの外交を担っていった。

イタリア戦争とフィレンツェ

 独裁者メディチ家を追放したフィレンツェでは民主派が権力を握り、指導者ソデリーニが統治し、マキァヴェッリもそれに協力した。ソデリーニはフランスと結び、ローマ教皇と対抗しようとした。フランスは1512年、再びイタリアに侵入し、イタリア戦争の中での激戦である4月11日のラヴェンナの戦いで、教皇及びヴェネツィア軍と衝突した。この大会戦で教皇側にスペイン、神聖ローマ皇帝、イギリスも加わり、スイス傭兵もいたので、フランスは敗れてしまった。フランスについたフィレンツェは孤立し、ソデリーニは逃亡、メディチ家の支配が復活した。その結果、11月にマキァヴェッリは解任され、一時は投獄されるなどの不遇の時期を迎えた。

君主論などの著作

 マキャヴェリがフィレンツェ政庁勤務を解任されていた時期の1513年ごろに執筆したのが『君主論』であり、フィレンツェの新しい権力者ロレンツォ=デ=メディチ(大ロレンツォの孫。小ロレンツォ)に献呈された。しかし小ロレンツォは彼を復帰させることなく、マキァヴェリはその後も文筆活動を続け、『リウィウス論』、『フィレンツェ史』、『ローマ史』などの歴史書や、小説、戯曲などを発表した。

政庁への復帰と死去

 1525年フランス王フランソワ1世がアルプスを越えてイタリアに侵入、フィレンツェが再び脅かされる状況でメディチ家政権はマキァヴェリを復帰させた。1527年、イタリア戦争がピークに達し、神聖ローマ帝国皇帝カール5世が、ローマ教皇がフランス王と手を結んだことを理由にローマに進軍、「ローマの劫略」が行われるに及び、フィレンツェでも共和派が決起してメディチ家が再び追放された。そのためマキァヴェッリも失脚し、同年6月に死去した。<佐々木毅『マキァヴェッリと『君主論』』1978 講談社学術文庫による要約>

Episode 喜劇作者マキャヴェリの好色劇

 マキャヴェリは生存中は『君主論』の著者としてではなく、喜劇『マンドラゴラ』の作者として知られていた。教皇レオ10世も拍手を送ったというその喜劇はこんな内容だった。主人公カリマコは貞淑な人妻ルクレツィアをものにしようと一計を案じ、医者に変装してその夫ニチアに、マンドラゴラという子宝の妙薬を奥さんに飲ませなさいと勧める。子宝をほしいと思っていたニチアがとびつくが、カリマコはこの薬には難点があり、奥様が服用した後に最初にまじわる男は生命を落とすという。あわてたニチアを、私が代役を務めましょうとだます。ルクレツィアの方をだますには苦労したが、買収した修道士に説得させる。こうしてカリマコはまんまと思いを遂げ、ルクレツィアもめでたく妊娠する。という品の良くない作品である。マキャヴェリの真意はこの作品で修道士の堕落をからかおうとしたらしい。
(引用)こんな喜劇を書いたので、放蕩者だ、背徳漢だという評判を立てられたが、まんざら見当違いでもなかった。ニッコロ(マキャヴェリ)は好色で、相手の身分など気にせず、機会があればどんな女にも手を出した。貴婦人より農婦や小間使、女中の方が好きで、その方が率直で、素朴で、気楽だと感じていた。それに、女の身分が賤しければ、居酒屋の奥部屋に待たせておいたり、野原のまん中で外套も脱がずに戯れ合ったりしても、別に評判は立たなかった。そうした女性の名が何人も残っている。サンドラ、マリスコッタ、リッチア、バルバラ・・・・。<モンタネッリ/ジェルヴァーゾ/藤村道郎訳『ルネサンスの歴史』下 1985 中公文庫 p.253>

死後の名声

 生前のマキャヴェリは理解されることはなかったが、死後に『君主論』が公刊されると、彼の名は一挙に高まった。この本を巡って前例のない論争が湧き起こり、褒め讃える側と非難する側に二分された。外国語に次々と翻訳され、マキャヴェリズムという語が外国でも流行語となった。王侯、教皇、皇帝も愛読者となり、カール5世はこの書を枕頭に置き、その長い章句をそらんじていた。次の世紀でも、フランス王アンリ3世とアンリ4世は常にこの書を携帯し、リシュリューは重大な決定に際して必ずこの書を参照した。オレンジ公は自らの手でこの本の要約を編んだ。・・・・
(引用)現在は、『君主論』を道徳的見地からあげつらう人はなくなっている。マキャヴェリは道徳的判断とは無縁な学問分野の創始者と見なされている。・・・共和制の理想を裏切ってメディチ家の走狗となったこの変節漢は、イタリア統一の理想には生涯忠実であり続けた。僧衣を脱して武装した統一イタリアを実現するためなら、メディチ家やチェーザレ・ボルジアは言うに及ばず、悪魔にさえ魂を売り渡したであろう。幻滅は人間性を破壊し、芸術を豊饒にした。<モンタネッリ/ジェルヴァーゾ/藤村道郎訳 同上 p.254-255>
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書籍案内

佐々木毅
『マキャヴェリと「君主論」』
1993 講談社学術文庫

モンタネッリ/ジェルヴァーゾ
藤村道郎訳
『ルネサンスの歴史』下
1985 中公文庫

鹿子生浩輝
『マキァヴェッリ: 『君主論』をよむ』
2019 岩波新書