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ローマの劫略

1527年、イタリア戦争で神聖ローマ皇帝カール5世がローマを攻撃し、破壊したこと。ローマ教皇がフランス王フランソワ1世と手を結んだことに反発した。傭兵部隊によるローマの破壊はイタリア=ルネサンスに打撃をあたえた。

 1527年イタリア戦争の最中に、神聖ローマ皇帝カール5世が傭兵部隊を派遣し、ローマを攻撃、破壊、略奪したこと。ローマ教皇クレメンス7世(メディチ家出身、在位1523~34年)はハプスブルク家のカール5世が、ミラノ公国(神聖ローマ帝国の封地)とナポリ王国を領有したことに対し、教皇領が圧迫されることを恐れ、フランス王フランソワ1世と密かに手を結んだ。

カール5世の意図

 それを知った神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)は、ローマ教皇を懲罰するため、スペイン兵・ドイツ兵からなる皇帝軍をフランス人のブルボン将軍(フランソワと対立しカール側に寝返っていた)に指揮させて、ローマを攻撃させた(カール自身はマドリードにいて出陣しなかった)。
 皇帝軍は1527年5月6日からローマを総攻撃、指揮官ブルボン将軍が戦死すると、統制がとれなくなってローマで略奪、暴行など乱暴狼藉のかぎりをつくした。この時の皇帝軍のドイツ兵には、たくさんの新教徒が含まれており、彼らは「歓呼の声を挙げてルターを教皇に推戴し、ルターの名において、殺人と破壊のこの狂宴を祝福した」<モンタネッリ/ジェルヴァーゾ『ルネサンスの歴史 下』p.152>という。かつて「ローマの牝牛」として奪われた富を取り返すつもりであったのだろう。このキリスト教世界を震撼させた事件を「ローマの劫略」(または「ローマの略奪」、「サッコ・ディ・ローマ」)といい、イタリア=ルネサンスの「終わりの始まり」とされている。 → ローマの衰退
 なおこの時、メディチ家の出身の教皇クレメンス7世の間接的支配に反発していたフィレンツェでは、共和派が蜂起して、メディチ家を追い出した。

Episode ドイツ人傭兵によるローマでの略奪

 イタリア戦争で、カール5世側の戦力として活躍したのは傭兵部隊であった。スイス傭兵が最強と言われていたが、このころはドイツ人傭兵「ランツクネヒト」も旺盛な戦闘力と厳格な軍律で力を伸ばしていた。1525年のパヴィアの戦いでフランソワ1世軍を破ったり、ドイツ農民戦争では皇帝軍として新教徒軍を苦しめた。しかしこのローマの劫略では、皇帝からの賃金支払いの遅配もあって統制がとれずに暴徒化し、略奪行為に走った。<菊池良生『傭兵の二千年史』講談社現代新書 p.85-117>

皇帝と教皇の和睦

 しかし、皇帝カール5世は、フランス王フランソワ1世との戦いだけでなく、東方でのオスマン帝国ウィーン包囲(第1次)の危機が迫ってきた。また、ルターが開始した宗教改革は農民の反封建闘争と結びついてドイツ農民戦争(1524~25年)が勃発し、皇帝と教皇の共通の脅威となっていた。そのような情勢により、1529年になると、皇帝カール5世と教皇クレメンス7世はバルセロナで和睦した。
 カール5世はフィレンツェでのメディチ家政権の復帰にも合意、1530年にはそれを拒否したフィレンツェを包囲攻撃し、武力でメディチ家を復権させた。フィレンツェ共和国は消滅し、メディチ家を君主とするトスカーナ大公国へと転化し、このような情勢もまた、イタリア=ルネサンスがかつてのようなかがやきが薄れ、終りの始まりとなったことを示している。

イタリア=ルネサンスの終わりの始まり

 ただし、ルネサンスはこれでただちに消滅したのではない。レオナルド=ダ=ヴィンチはフランス王のフランソワ1世の保護を受け、1519年に没し、ラファロも1520年にわずか37歳で死んでいたが、ミケランジェロはフィレンツェで共和派として戦い、敗れた後はローマに移住し、ローマで「最後の審判」を1541年に完成させている。ローマは破壊から立ち上がり、ローマ教皇を保護者として、16世紀末まで芸術の都として存在した。またイタリア=ルネサンスというなら、ヴェネツィアは健在で、盛んな芸術活動が続いていた。一方で、ルネサンスがフランスやイタリア、ドイツと言ったアルプス以北に広がっていったのも事実であり、14世紀から続くイタリア=ルネサンスは変質しながら、終わりに向かい始めた、といえるのではないだろうか。
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書籍案内

菊池良生
『傭兵の二千年史』
講談社現代新書