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ローマ教皇/ローマ法王/ローマ教皇庁

ローマ=カトリック教会の最上位の聖職者。中世ヨーロッパで絶大な力を持ち、現在でもカトリック世界の指導者としてその発言は常に世界の注目を集めている。

 ローマ教皇(英語でPope、ラテン語ではPapa)は一般に「ローマ法王」とも言われ、キリスト教のなかの旧教であるローマ=カトリック教会の最高指導者で聖職者の最高位。現在では正式には「ローマ司教・イエス=キリストの代理・使徒の頭(ペテロのこと)の後継者・全カトリック教会の首長・西ヨーロッパ総大司教・イタリア首座大司教・ローマ管区大司教かつ首都大司教・ヴァティカン市国主権者」という肩書きになっている。世界で約10億と言われるカトリック信者の頂点に立ち、ローマのヴァチカン宮殿にいる。
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参考 教皇か法王か 現在は、高校世界史では「教皇」、一般的には「法王」と言われることが多いが、ラテン語では Papa 、英語では Pope 、つまり「お父さん」と同じ意味。カトリック教会の正式な日本語表記は、現在は「教皇」を使っている。教科書もそれにしたがっているのであろう。もっとも、1942年にヴァチカン市国が日本と国交を開いたとき、外務省の正式文書では「ローマ法王庁」であったため、今でも日本政府は「法王」、「法王庁」と言っており、教会側もそれを認めているようなので、どちらが間違いということはない。

NewS 政府、「ローマ教皇」に呼称を変更

 2019年11月20日、日本国政府は、ローマ・カトリック教会のフランシスコ法王の来日に合わせて、今後は呼称を「教皇」に変更すると発表した。理由について外務省は、カトリックの関係者をはじめ一般的に教皇を用いる例が多いことと、法王が国家元首を務めるバチカン側に、教皇という表現の使用について問題がないことが確認できたためだと説明している。これまでは東京にある「ローマ法王庁大使館」に合わせるかたちで法王の呼称を用いてきたという。カトリック中央協議会のホームページによると、日本とバチカンが外交関係を樹立した当時の定訳が「法王」だったため、「法王庁大使館」になったという。<朝日新聞 2019/11/21 朝刊より 新聞ではヴァチカンではなくバチカンと表記している>
※たしかにカトリック中央協議会のホームページでは、「ローマ教皇」となっています。テレビ・新聞もフランシスコの来日を機に一斉に「ローマ教皇」に変更しましたが、古い呼称として「法王」もかなり残ることになるでしょう。カトリック教会側は、早くから「教皇」・「教皇庁」と改称しようとしたのは、「王」より「皇」の方が格が高いという意識があるようです。むしろカトリック側から日本政府に教皇・教皇庁への改称を働きかけていたが、日本政府が認めてこなかったと言うことのようです。Wikipedia ローマ教皇庁 の項による>

(1)ローマ教皇権の成立

三位一体説とローマ教会の権威

 西ローマ帝国滅亡後、アリウス派を信仰するゲルマン諸国が各地に成立し、ローマ教会は危機に陥った。さらに東ローマ帝国のもとにあるコンスタンティノープル教会との間の教会の首位座をめぐる争いでも劣勢に立たされた。451年にはローマ司教レオ1世カルケドン公会議において、三位一体説正統とすることを強く主張して、それが決議されたため、ローマ教会の権威は高まった。またレオ1世は翌年、ローマに侵攻したフン人のアッティラを説得して撤退させたため、ローマを救ったとして信望を集めた。これらの結果、ローマ教会の権威が高まり、レオ1世は実質的な最初の教皇と言うことが出来る。

フランク王国との提携と東方教会からの自立

グレゴリウス1世 6世紀の末、590年にローマ教皇となったグレゴリウス1世は、厳しい修道院での信仰生活によって権威を高め、またゲルマン人への布教に活路を見いだそうと597年にベネディクト派の修道士をブリテン島に派遣した。
聖像禁止令とピピンの寄進 さらに726年のビザンツ皇帝レオン3世が出した聖像禁止令に始まる聖像崇拝論争でビザンツ教会との対立が激しくなると、ゲルマン人の中で唯一ローマ教会に帰依していたフランクとの結びつきを強めようとした。751年のカロリング朝ピピンの即位を承認した見返りとして、756年ピピンの寄進でラヴェンナ地方などを得てローマ教皇領を成立させ、ローマ教皇は一個の教会国家の政治権力となる基盤を築いた。
フランク王国との結びつき 800年にローマ教皇レオ3世がフランク王国のカール大帝にローマ皇帝の冠を授けたカールの戴冠によって、ローマカトリック教会はフランク王国を保護者としてビザンツ皇帝及びコンスタンティノープル教会から完全に自立することに成功した。両者は1054年に正式に分離を宣言、キリスト教会は東西に分裂し、現在に至っている。

ローマ教皇権力の動揺

 9~10世紀前半はフランク王国の分裂やノルマン人・マジャール人の侵攻などでヨーロッパは再び分裂と停滞の時代になったが、この間教会と修道院はかえって社会不安の中で勢力を増し、聖職者の階層制組織(ヒエラルキア)を作りあげ、ローマ教皇はその頂点として西ヨーロッパのキリスト教世界の「聖界」を代表する権威をもつようになった。962年に東フランクのオットー大帝がマジャール人を撃退、ローマ教皇ヨハネス12世は彼に西ローマ皇帝の冠を授け(オットーの戴冠)た。これが神聖ローマ帝国の始まりであり(実際にその名称が定着するのは13世紀だが)、神聖ローマ皇帝は領内の教会を聖職者任命によって統制する帝国教会政策をとり、またローマ支配を常に意図してイタリア政策を展開することとなる。
 中世初期のローマ教皇と世俗権力である皇帝との関係は次のように説明するのが妥当であろう。
(引用)ローマ法王という宗教上の普遍的権威は、ただこれに対応する皇帝権という世俗的は普遍的権威の存在をまってだけ、その普公的(カトリック)な使命を果たし得たことは、中世史の数々の事例が証するところである。さもなければローマ法王の座は、つねに、ローマ市ないしはイタリアの狭隘な地方的権力闘争の焦点となり、その実質ははなはだしくその名称を裏切るのである。このような意味で、当時ローマ法王権は、8世紀初めに起こった聖像破壊運動をめぐって、東ローマ皇帝と争っており、さらに他方では、法王の苦境を利して中部イタリアに制覇しようとする北イタリア、ロンバルディアのランゴバルド族と対立していたことは、十分記憶されねばならぬところである。法王権はこの苦境を打開するため北方のフランク王国と提携し、そのカロリング王朝の創立をたすけ、みずからもその保護に頼っていた。・・・<堀米庸三『正統と異端』初版1964 中公新書 p.63-64、再版2013 中公文庫>

ローマ教皇の堕落(9~10世紀)

 9世紀から10世紀にかけて、フランク王国の分裂という政治的混乱を背景として、俗界の権力の干渉を受けて地位が動揺したローマ教皇の中には、堕落した人物が目立っている。このローマ教皇の退廃期ともいえる時期の実情は、高校の世界史教科書では詳しくは出てこないが、このような事態があってはじめてクリュニー修道院の修道院運動や、グレゴリウス7世の改革、聖職叙任権闘争が行われることになるので、目を向けないわけには行けない。ややゴシップめいたことだが、次のようなことがあった。

Episode 屍体公会議

 フォルモスス(在位891~896)はドイツ王の支援で教皇となったが、その死後、対立していたローマの貴族に推されて教皇となったステファヌス6世は墓からフォルモススの遺骸をひきだして公会議をひらき(屍体公会議と言われた)、前教皇の聖職を剥奪して俗人に戻し、彼が教皇として行ったすべての行為を否認して、祝福を与えた指を切断、さらに遺骸を数日間放置して、最後にはティベル川に投げ込んだ。

Episode 殺人法王とポルノクラシー

 さらにその後に現れたセルギウス3世(在位904~911)は二人の前任者を殺害して教皇になった。そのセルギウス3世はなんと教皇庁内に引き込んだ女マロツィアとの間に子供をもうけ、さらにマロツィアは教皇庁で実権をふるい、その子がまた教皇になるということがあった。このように堕落した10世紀前半の教皇庁のありかたをポルノクラシー(婦妾政治、娼婦政治)と言っている。
(引用)ルネサンス期の法王庁堕落の象徴のようにいわれるネポティズム(法王庶子を養子として聖俗の重要官職につける政策)はすでにフォルモススの前任者の代にみられ、その後の法王政治の禍根となっているが、殺人法王のセルギウス3世はローマ市南方の有力貴族トゥスクルム伯であり、ローマ市の最有力貴族テオフィラクトゥス家のマロツィアを妾――マロツィアは法王セルギウスをふくめて余人の夫をとりかえた――としていた。マロツィアはやがてローマ市の事実上の支配者となり、一族で市の要職を壟断したばかりでなく、何人もの法王を自由に廃立し、しかも反抗する法王を暗殺してはばからなかった。この婦妾政治(ポルノクラシー)は、マロツィアとセルギウス3世の間に生まれた男子がヨハンネス11世として法王座にあったとき、マロツィアが最初の夫スポレト侯によってえた長子アルベリクスが勢力をえ、法王とマロツィアその人を逮捕投獄し、ついで殺害することによって終わったのである。<堀米庸三『正統と異端』初版1964 中公新書、再版2013 中公文庫>
 この他、962年にオットーの戴冠を行ったローマ教皇ヨハネス12世も、17歳で教皇となり、教皇庁でみだらな生活を送ったことで、27歳で結局オットーによって廃位されている。

(2)教皇権の最盛期

修道院運動と叙任権闘争

 11世紀後半にクリュニー修道院を中心にして始まった新たな修道院運動の影響を強く受けて登場したグレゴリウス7世は、1075年から「グレゴリウス改革」といわれる教会改革を推進し、聖職売買と聖職者の妻帯を厳しく非難して粛正に努めた。その一環として、それまで神聖ローマ皇帝など世俗権力に握られていた聖職者の叙任権を教皇が奪還すべく叙任権闘争を展開した。
カノッサの屈辱 グレゴリウス7世は、聖職叙任権の教皇への移譲を拒否した神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を破門した。1077年、ハインリヒ4世がグレゴリウス7世をカノッサに訪れて謝罪し、破門を解かれた事件は「カノッサの屈辱」といわれ、ローマ教皇権が世俗の権力を圧倒した象徴的な出来事であった。ハインリヒ4世は態勢を整え、グレゴリウス7世に反撃し、一時教皇はローマを追われる状態となったが、11世紀末にウルバヌス2世がローマに帰還した。
十字軍運動 ウルバヌス2世1095年クレルモン宗教会議を開催、十字軍運動を提唱し、ヨーロッパ各国の国王、諸侯、都市がそれに従ったことによって実行され、1099年に聖地イェルサレムの奪還に一時成功したことによって教皇権力が西ヨーロッパ世界の世俗権力をもまとめあげることとなった。ローマ教皇庁が文書の上に現れるのも1098年が最初である。
ヴォルムス協約 当初の十字軍の聖地回復が成功したこともあって教皇権威が高まり、1122年には神聖ローマ皇帝とローマ教皇によるヴォルムス協約が成立して、皇帝がドイツにおいては教皇の聖職叙任権を認めることによって叙任権闘争は一応の終結をみた。

ローマ教皇軍の勝利

 12世紀には神聖ローマ皇帝シュタウフェン朝の皇帝フリードリヒ1世が北イタリア進出を目指したのに対して、ローマ教皇アレクサンドル3世は北イタリア諸都市のロンバルディア同盟と提携して戦い、1176年レニャーノの戦いでは皇帝軍を破っている。

ローマ教皇権の最盛期

 13世紀、十字軍時代後半のローマ教皇は絶大な権利と権力を持つこととなる。その頂点にあったインノケンティウス3世は、「教皇は太陽、皇帝は月」と称し、世俗の権力者(フランスのフィリップ2世やイギリスのジョン王など)を破門にするなどによって抑え込み、ヨーロッパに君臨した。また、インノケンティウス4世(在位1243~54年)は、シュタウフェン朝神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世と対立して破門にし、おりからのバトゥの率いるモンゴル帝国軍にキリスト教軍がワールシュタットの戦いで敗れたことを受けて、初めてのモンゴルへの使者プラノ=カルピニを派遣した。

(3)教皇権の衰退

 しかし、広大なローマ教皇領を支配する封建領主となり、その生活は贅を尽くすようになると、たびたびその選出をめぐって政争が行われ、腐敗堕落した面も出てきた。13世紀末には十字軍運動も結局、聖地奪還が出来ないまま終結し、教皇の権威は大きく揺らいできた。

アナーニ事件からアヴィニヨン捕囚へ

 1303年アナーニ事件では教皇ボニファティウス8世はフランス王フィリップ4世に幽閉された上で退位を迫られて憤死し、さらに1309年からはフランス王によって教皇クレメンス5世アヴィニヨンに移されるという「教皇のバビロン捕囚」が起こり、教皇の権威の動揺は表面化した。その後アヴィニヨンの教皇はフランス王の監視下に置かれたが、ローマではその帰還を望む声がなおも続いた。
 1377年に神聖ローマ帝国の皇帝カール4世はアヴィニヨンの教皇グレゴリウス11世のローマ帰還を支援し、実現させた。

教会大分裂

 これによって教皇のバビロン捕囚は終わり、ローマ教皇がローマに戻ったが、グレゴリウス11世が急死し、後継教皇の選出に当たってフランス人の枢機卿とイタリア人の枢機卿が対立、翌1378年にフランス人枢機卿はアヴィニヨンに独自の教皇を擁立したため、ローマとアヴィニヨンに教皇が同時に二人存在するということになった。これを教会大分裂(~1417年)といい、キリスト教世界は二人の最高指導者の下で聖職者も教会も二分されるという事態となった。終盤ではさらに三つに分裂する。このような教皇以下の協会の分裂はその権威を著しく低下させ、イギリスのウィクリフやベーメンのフスのような先駆的な宗教改革者が現れ、教皇と教会のあり方に対する批判が始まった。

コンスタンツ公会議

 教皇の権威低下、フスなどの革新派の台頭が農民の封建社会に対する反乱と結びつく動きは、教会および諸侯などの封建社会の支配層にとって強い危機感をもたらした。また教皇に代わって子会議に代表される教会会議がキリスト教世界を主導しようという機運が高まった。その流れの中で、神聖ローマ皇帝ジギスムントによって1414年に、コンスタンツ公会議が開催され、教会の大分裂を解消して統一を回復するとともに、ウィクリフとフスを異端と断定して体制を立て直した。同時に教皇よりも公会議の決定が重要であるという決議を行い、公会議至上主義が獲られたが、その後はこれが確定するには至らなかった。

ヨーロッパ封建社会の動揺

 ローマ教皇の権威低下により、そのヨーロッパ国際政治での調停力の無くなった時期は、まさに1339~1453年の百年戦争の時代であった。その間の黒死病の流行、さらに東方で強まってきたオスマン帝国の圧力が強まり、1453年にはコンスタンティノープルが陥落セルなど、ローマ教皇の権威だけでなく、キリスト教世界全体の動揺をさらに深めることとなった。

ルネサンス・宗教改革期の教皇

 さらにルネサンスの風潮がひろがって、エラスムスのような人文学者なども教会の形骸化した信仰のあり方を批判するようになった。事実、ルネサンス期のローマ教皇には世俗の権力と密着して腐敗堕落するものが出現しており、ボルジア家出身のアレクサンドル6世(在位1492~1503年)などがその悪行で知られている。しかしその権威はまだ高く、この教皇はおりからコロンブスの新大陸発見から始まった大航海時代でのポルトガルとスペインの勢力圏を巡る調停を行い1493年に教皇子午線を定めている。次のユリウス2世(在位1503~1513年)はサン=ピエトロ聖堂の改修を開始し、ブラマンテやミケランジェロにその仕事を与えた。次のレオ10世(在位1513~1521年)はメディチ家出身で、サン=ピエトロ大聖堂の修築費用の捻出のため、ドイツに対する贖宥状の発行したことから、1517年にルターによる宗教改革が始まった。

反宗教改革(対抗宗教改革)

 ルターとカルヴァンによる宗教改革が始まり、新教(プロテスタント)勢力が大きくなると、ローマ教皇はヨーロッパでの絶対的権力を失い、中部イタリアの教皇領を支配する一君主という存在となった。そのような教皇の権威の低落を嘆き、教皇への服従というカトリック教会の信仰の根幹を再建しようとしたのが、イエズス会を中心とした反宗教改革の運動(対抗宗教改革)であった。その運動もあって力を盛り返し、ヨーロッパではスペイン・フランスや南ドイツ、ポーランドなどで影響力を強め、さらに新しい布教地としてラテンアメリカやフィリピンなどを対象に熱心なキリスト教宣教師による伝道が行われ、勢力を盛り返した。
 1534年にイエズス会を公認したローマ教皇パウルス3世は、1542年には宗教裁判所を設置して異端の取り締まりを強化し、さらに1545年から63年までトリエント公会議を召集し、カトリックの教義と教皇の権威の確立を図った。その一方、パウルス3世は晩年のミケランジェロにシスティナ礼拝堂の最後の審判を描かせている。
 16世紀後半には、ピウス5世(1570年にイギリスのエリザベス1世を破門)、グレゴリウス13世(1582年、グレゴリウス暦を制定)、シクストゥス5世(ローマ教皇庁の改革)の「改革教皇」といわれる三人の改革派教皇が現れた。

宗教戦争

 しかし、ヨーロッパの大勢は、フランス国内の新旧両派の激しい内戦であるユグノー戦争(1562~98)、旧教国スペインから新教国オランダが独立を目指して戦ったオランダ独立戦争(1568~1609)、そして17世紀前半のドイツの内戦にヨーロッパの新旧両派の国が介入した三十年戦争(1618~1648)という宗教戦争があいつぎ、1648年のウェストファリア条約で信仰の自由の最終的承認とともに主権国家体制が成立したことによって、ローマ教皇の権威は相対的に低下し、さらに最大の旧教国であったスペイン帝国の衰退によって教皇の国際政治上の力はほぼ消滅した。またフランスは旧教国であったが、伝統的にローマ教皇とは分離した国王の権威を重視するガリカニスムが定着していった。


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近代以降のローマ教皇

フランス革命とローマ教皇

 1789年、フランス革命が勃発すると、革命前のアンシャン=レジームのもとで教会によって抑圧、収奪されていた民衆の反カトリック教会感情を背景に、革命政権によって教会領が没収され、カトリック世界は危機を迎えた。特にジャコバン独裁政権のもとで非キリスト教化が進められて、フランス政府とローマ教皇は断絶した。
 次の総裁政府のもとで、革命亡命のために1796年4月にイタリア遠征を開始したナポレオンは北イタリアを軍事的に優位に立ち、1798年には軍隊をローマに派遣して、教皇ピウス6世に退位を迫りローマ共和国の樹立を宣言した。

ナポレオンとローマ教皇

 しかし、革命を収束させたナポレオンは、権力の維持・強化を図り、ローマ教会の関係修復を図り、1801年にローマ教皇ピウス7世との間で宗教和約(コンコルダート)を成立させた。このように旧体制と妥協を成立させたナポレオンは1804年にナポレオン1世として皇帝となった。
 翌年、ナポレオンはイタリア共和国を王国に改め自ら国王に就任、ピエモンテ、ヴェネツィア、トスカーナなどを併合し、さらに1808年2月にはフランス兵をローマに進駐させ、翌1809年にはついいローマ教皇領も併合してしまった。かつてナポレオンの戴冠式を行った教皇ピウス7世(在位1800~23)は、ローマ教皇領を失い、フランス軍の囚われの身となり、パリ近郊のフォンテーヌブローに幽閉されてしまった。ようやくナポレオンが没落し、1815年、ウィーン会議でフランス革命以前のヨーロッパの秩序が回復されることとなり、ローマ教皇領も復活、教皇もローマに帰還した。

イタリア統一とローマ教皇

 ローマ教皇は中世以来のローマ教皇領を中部イタリアで回復し、教皇国家といわれる独立した権力を維持していた。しかし、フランス革命とナポレオン戦争で燃え上がった自由や平等の思想、そして国民国家建設への動きは、ローマ教皇の世俗的な権力を揺るがすこととなった。19世紀のウィーン体制の時代、全ヨーロッパで自由主義と民族主義が台頭すると、イタリアでも国民的な統一を目指すイタリア統一運動(リソルジメント)が盛んになり、そのイタリア統一を目指す勢力にとっては、教会国家の存在が大きな障害となってきたのだった。
ローマ共和国 教皇ピウス9世(在位1846~78)は初め改革派教皇と期待され、教会国家でも憲法制定の動きも出てきたが、オーストリアから改革を否定されると次第に反動的となった。それに対して、ヨーロッパで燃え上がった1848年革命の余波がローマにも及ぶと、1849年初めに教皇はローマを脱出、ローマ市民が蜂起しローマ共和国を成立させた。この時はマッツィーニやガリバルディも共和国に参加し、革命的な変化が起こりかけたが、フランスのルイ=ナポレオンがローマ教皇を支援することを表明して軍事介入し、共和国軍は壊滅した。それによってピウス9世はローマに復帰した。
イタリア王国の成立 19世紀後半、イタリア統一の主導権を握ったサルデーニャ王国カヴールは、フランスの支援を取りつけてオーストリアと戦い、北イタリアの解放に乗り出した。このイタリア統一戦争はナポレオン3世がオーストリアとの講和に変心したため挫折したが、義勇兵を率いたガリバルディシチリア占領ナポリ王国征服に成功、それらの征服地をサルデーニャ王国に献上することによってイタリア統一は急速に進み、1861年イタリア王国(都はトリノ)が成立した。しかし、ローマ教皇領とヴェネツィアはまだイタリア王国には含まれなかった。

ヴァチカンの囚人・ローマ問題

 イタリア王国はローマ教皇領の併合を進めようとしたが、世俗の国王への従属を拒否する教皇はそれに応じず、カトリックの擁護者をもって任じるナポレオン3世の派遣したフランス軍に守られていた。ところが普仏戦争のためフランス軍が撤退した隙を乗じて、1870年9月、イタリア王国軍がローマ教皇領を占領、住民投票の結果、ローマはイタリア王国に併合されることが決まった。翌1871年7月にはローマはイタリア王国の首都となり、ローマ教皇はヴァチカンに閉じ込められる形となり、ピウス9世は自らを「ヴァチカンの囚人」と称した。
 イタリア王国とヴァチカンの関係は悪化し、「ローマ問題」(イタリア語で分裂を意味する「ディシディオ」といわれた)として続くこととなった。ピウス9世はローマ教皇在任期間が最長となる中、ヴァティカンで宗教会議を開催、「教皇無誤謬宣言」を出すなど反動色を強め、70年代にはドイツ帝国のビスマルクとは文化闘争で激しく対立した。

ムッソリーニとのラテラノ条約

 第一次世界大戦後の1922年、ローマ進軍を行って政権を獲得したムッソリーニは、ファシスト党独裁体制を安定させようとしてカトリック教会との和解を図り、1929年、ローマ教皇ピウス11世との間でラテラノ条約を締結し、ローマ教皇領に対する賠償金の支払いと、一個の主権国家としてヴァチカンが独立することを認めた。これによって「ローマ問題」は解決し、サン=ピエトロ大聖堂に隣接するヴァチカンは、世界で最も小さい主権国家ヴァチカン市国として独立した。

ヴァチカンの方向転換

 第二次世界大戦中のローマ教皇ピウス12世はイタリアの参戦に反対し、戦争中の難民や捕虜の救済計画をたてるなどの立場をとっていたが、ユダヤ人大量虐殺に対しては糾弾することはなかった。イタリアが敗北し、君主制から共和制億かとなったことを受け入れたが、教皇が掲げたのは個人の尊厳、自由などの価値の保護であった。共産主義に対しては危険な勢力として批判し、家族を大切さや個人利益を優先する思想は、戦後のイタリアの政権を担ったキリスト教民主党のイデオロギーと一致し、その政権を支えた。しかし1958年に、保守的なピウス12世が死去しヨハネス23世に代わると、新教皇は新しい時代に即応した改革を打ち出し、カトリック教会の方向を大きく転換させた。それは多くのカトリック教義が時代錯誤となり、聖職者からも世俗の人々からも疑問視され始めたからであり、社会に対する教会の役割と方法を真剣に再検討しなければならなかったkらであった。その結果、ヴァチカンはイタリアの政党間の争いから距離を置き、純粋に精神的な電動を世界的に強化することが決定され、1962年に開催された第二回ヴァチカン公会議では、教義に対する自由主義的な改革が取り入れられた。ヴァチカンの方向転換によってキリスト教民主党は、社会党との連立の交渉を始めた。<ダカン『イタリアの歴史』2005 創元社 p.373-374>
 ローマ教皇ヨハネス23世は、核兵器に対し「原子力時代においてはもはや、戦争によって正義を回復できると考えるのは浅はかである」と書いており、核兵器廃絶運動行進にも強い影響を与えた。またキューバ危機に際しては衝突回避のために力を尽くし、フルシチョフとケネディ双方から敬意を表された。<マックスウエル=スチュアート『ローマ教皇歴代誌』1999 創元社 p.286>

現代のローマ教皇

 カトリック信者は現在では約10億を数え、ローマ教皇はその最高指導者として重きをなしている。1978年にローマ教皇となったヨハネ=パウロ2世は、456年ぶりにイタリア人ではなく、しかもポーランド人としてははじめて教皇に選出された。ヨハネ=パウロ2世は東西冷戦期に世界平和に強いメッセージを送り続け、2005年に死去し、ベネディクト16世(ドイツ人)が継承した。ベネディクト16世は、2013年に719年ぶりに生前退位(生存しているうちに退位すること)し、新教皇フランシスコ(アルゼンチン人)が選出された。大変珍しい生前退位となった裏には、聖職者の度重なるスキャンダル(聖職者による性的虐待事件など)があったのではないかと取りざたされている。

Episode 教皇選出は根比べ?

 ローマ教皇の地位は世襲はあり得ず、聖職の最高位として信仰の厚いものから選ばれたが、11世紀以降はその諮問機関である枢機卿(Cardinal)の秘密会で選出されることが原則となった。教皇を選出する枢機卿の秘密会議をコンクラーベという(もちろん日本語ではなくラテン語で)。枢機卿(カージナル)は、教皇の最高顧問団であり、教皇庁の元老院にあたるものとされる。1179年から教皇選挙権は枢機卿だけが持つ、とされたので教皇に次いで最も重要な役職であり、彼らがかぶる赤い帽子はその権威の象徴となっている。その人数は時代によって違うが現在は164名(2003年9月現在)である。枢機卿は教皇が選任する。教皇選出の会議のコンクラーベという言葉は、「鍵で」を意味し、その選出会場が外部から一切干渉されない秘密会であるところからきている。選出は現在では参加した枢機卿の中から多数決で選ばれることになっており、当選には3分の2プラス1票が必要である。当選が決まると投票用紙をストーブで焼き、しめった藁を混ぜて煙が黒ならば未決、白ならば選出された印とされる。<小林珍雄『法王庁』岩波新書による>

コンクラーベの実際

 2005年4月2日、26年半にわたり教皇であったヨハネ=パウロ2世が84歳で死去した。ヴァチカンのシスティナ大聖堂で4月18日から次期教皇の選出のためのコンクラーベが開催された。
(引用)ラテン語が語源で「カギのかかった」という意味があるコンクラーベは、13世紀、クレメンス4世の死後にローマ郊外で選挙をした際、2年以上たっても決まらないことに怒った市民が会場にカギをかけ、中の者たちにパンと水だけを与えて缶詰にしたことが語源とされている。・・・外から遮断された環境で行う伝統は、現在も続いている。枢機卿らが携帯電話はもちろん、テレビ、ラジオ、新聞などに接することは一切禁じられている。枢機卿らが宿泊するバチカン内のサンタマルタ館は電話回線やインターネットのアクセスも切られた。<郷富佐子『バチカン―ローマ法王は今』2007 岩波新書 p.35-37>
 このときコンクラーベに参加した投票権を持つ枢機卿は満80歳未満に限られ、世界52ヵ国の117名のうち、欠席を除く115名だった(日本人枢機卿2名も参加した)。焦点は前任者がポーランド人だったので今度はイタリア人になるのではないか、という点と、改革派・保守派のいずれの人物か、ということだった。夕方、第1回の投票を知らせる煙突の煙は灰色で、白黒見分けがつかず報道陣も混乱したが、結局黒で1階では決まらなかった。翌日の夕方、白色の煙がでて、決定したことが知らされた。午後6時40分、大聖堂中央のバルコニーから姿を現したのは、新教皇に選ばれたドイツ人のヨーゼフ=ラツィンガー枢機卿で、彼が新教皇ベネティクト16世となった。新教皇は前任者を忠実に補佐した人物で、保守派とみられていた。

ヨハネ=パウロ2世とベネティクト16世

 前任者ヨハネ=パウロ2世はポーランド出身で、ワレサを後押してポーランド民主化に大きな役割を果たしたり、異教徒との宥和にも熱心で、世界中を飛び回って平和を説き、イラク戦争にも反対したことで知られた国際派だったが、ことカトリック信仰に関しては超保守派に属し、人工中絶、同性婚などには絶対反対の立場を貫いた。ベネティクト16世もその保守的姿勢は変わっていない。しかし、異教徒に対する寛容の点ではヨハネ=パウロ2世と違っていて、就任直後に出身地のドイツで説教したときに、ムハンマドを非難しイスラーム教徒をテロと同義に見なすととれる発言をして、アラブ諸国から激しい非難が起こった。新教皇は弁解に努め、トルコを訪問するなど関係修復をせまられることとなった。
 以上は、ヨハネ=パウロ2世からベネディクト16世への代替わりの時、朝日新聞バチカン特派員だった郷富佐子さんの『バチカン―ローマ法王は今』<2007 岩波新書>に詳しく報告されている。

ローマ教皇の辞任

 2013年2月11日、世界中がベネディクト16世の言葉に驚いた。13世紀末以来、ローマ教皇は死ぬまでその地位にある(つまり終身)ことが通例であったにもかかわらず、生前に辞任すると発表したのだ。理由は高齢(87歳)のため、心身共に教皇としての任務に堪えられないということであった。ローマ教皇が自由意志で自らその地位を去ることなど考えられなかったカトリック信者、のみならず世界中に驚きの声が起こった。
 教皇が生前に、自分の意志で辞任したのは1294年のケレスティヌス5世以来のことだという。ケレスティヌス5世というのは教皇の無力さを自覚し、就任1年もたたずに自ら退位した。次の教皇は強気で知られたボニファティウス8世で、彼は1303年のアナーニ事件でフランス王フィリップ4世から屈辱を受け、憤死した。また自由意志ではない辞任の例は、教会大分裂を終わらせるために1414年に召集されたコンスタンツ公会議によって、三人の教皇の同時退任を決めたとき、ローマで教皇であったグレゴリウス12世はその意向を受け容れて自らの意志という形で1415年に退位した例である。このときピサの教皇ヨハネス23世とアヴィニヨンのベネディクトゥス13世は解任という形をとったが、ベネディクトゥスは解任を拒否し、スペインに逃れて教皇と称しつづけた。ローマでは新たにマルティヌス5世が教皇に選ばれ、それ以後のローマ教皇はいずれもその死をもって終わるのが例になった。
教皇辞任の背景 このようにローマ教皇の歴史のなかでも特異なケースであるので、ベネディクト16世の突然の辞任表明には世界中が驚いたのだった。辞任(カトリック教会ではあくまで退任ではなく辞任といっている)後のベネディクトは実権の伴わない「名誉教皇」となったと報じられているが、公式にはその理由は高齢があげられるだけで、その本当の理由についていろいろな憶測を呼んでいる。2009年頃から各地でカトリック聖職者による性的虐待が明らかにされたり、教皇庁がマネーロンダリングにかかわって蓄財しているという疑惑などが表面化したことも、彼が教皇の職務を重圧と考えるようになった背景にあるのは考えられることだ。

新教皇フランシスコ

 2013年、新たに教皇(第266代)に選出されたフランシスコである。教皇としてはこの名を名のった人物はいないが、「1世」をつける必要は、いまのところはない。彼はアルゼンチンのブエノスアイレス出身(イタリア系アルゼンチン人)。初めてのアメリカ大陸出身者で教皇となった。また意外だがイエズス会修道士から教皇になったのも初めてである。就任時、すでに76歳という高齢になっていたが、貧困や環境などの社会問題に関心が深く、その行動力が評価されている一方、人工中絶、同性婚などには前教皇と同じく保守的な立場を取っており、様々な問題を抱える教皇庁の変化に注目が集まっている。

NewS 前教皇ベネディクトゥス16世の死去

 2022年12月31日、ローマ・カトリック教会第265代教皇を務めたベネディクトゥス16世がバチカン内の修道院で死去した。前教皇はドイツ人で2005年に教皇に選出されたが、2013年に退位した。この教皇の生前退位は1415年のグレゴリウス12世以来、約600年ぶりのことだったので世界中が驚いた。在任中は人工妊娠中絶に反対するなど保守的な言動が注目されたが、退任後は読書や音楽鑑賞など穏やかな日々を過ごしていたという。<『朝日新聞』2023/1/1 など各紙報道>
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書籍案内
小林珍雄
『法王庁』
1966 岩波新書

鈴木宣明
『ローマ教皇史』
2019 ちくま学芸文庫

2014年に死去した著者の教育社歴史新書(1976)新装版か。上智大名誉教授にしてイエズス会司祭であった氏の著作は、ローマ教皇について理解する上で最良の教養書ではないでしょうか。

オシヴォロ他/鈴木宣明訳
『ローマ教皇』
双書知の再発見
1997 創元社

堀米庸三
『正統と異端』
初版 1964 中公新書
再刊 2013 中公文庫

竹下節子
『ローマ法王』
2005 中公文庫

265代ベネティクトゥスまで。読み物として気軽に読める。ヨハネ=パウロ2世についても詳しい情報がある。

郷富佐子
『バチカン―ローマ法王は、いま』
2007 岩波新書

新聞社特派員として直接触れたバチカン。ヨハネ=パウロ2世からベネディクト16世紀への交替を詳しくレポート。またローマ教皇の歴史を概観している部分も読みやすい。

藤代泰三
『キリスト教史』
2017 講談社学術文庫

文庫本で700頁超、まだ通読していないが、キリスト教史の日本をもふくめての全体像をつかむのに便利そう。著者は同志社大の教授だった神学者で佐藤慶氏の師。

小長谷正明
『ローマ教皇検死録―ヴァティカンをめぐる医学史』
2001 中公新書

マックスェル・スチュアート
高橋正男訳
『ローマ教皇歴代誌』
1999 創元社