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ガリカニスム

フランスのカトリック教会はローマ教皇から分離し、王権が教会に優先すべきであるという、国家教会主義の思想。

 フランス教会自立主義ともいう。フランスはカトリック教会信仰が優勢であることを背景に、教会はローマ教皇からは独立すべきであるという思想が、フィリップ4世の時の1303年のアナーニ事件のころから盛んになってきた。さらに教皇のバビロン捕囚教会大分裂が続き、教皇権の衰退が進む中で、さらに強まっていった。
 百年戦争末期のシャルル7世は、1438年に「ブルジュの国事詔書」を出して、高位聖職者の選挙制を復活し、その際の国王による介入を認めた。これは聖俗の封建諸侯に対する王権の優位が認められた事例の一つでもある。

フランスの国家教会主義

 さらに主権国家が形成される16世紀には、カトリック教会側にあっても、国家の統一王権と教皇権は並び立たないとする考え方がうまれてきた。教皇権の衰退の結果として出てきた思想である。1516年、フランソワ1世はレオ10世との「ボローニャの政教協約」で、国王は大司教・司教・大僧院長の指名権を持つことをローマ教皇に承認させた。これが、フランスの国家教会主義(ガリカニスム)の完成と言うことができる。ブルボン朝の絶対王政期のルイ14世も、一時は司教の任免問題でローマ教皇と対立し、王権神授説を説いた神学者ボシュエがガリカニスムの立場から教皇の優越を否定し、国王を支持した。しかし、一方では対外戦争を有利にするためにローマ教皇と妥協することもあった。またルイ14世ナントの王令を廃止するなどプロテスタントに対する迫害と強めたり、ジャンセニズム(オランダの神学者ヤンセンが説いた、神の恩寵を得るためには厳格な信仰が必要とする教派で、パリのポール=ロワイヤル修道院を拠点にかなりの信者を得ていた)を弾圧するなどカトリックよりの宗教政策を採ったので、時にローマ教皇とは妥協的であった。それに対して伝統的にローマ教皇の介入を拒否すべきであるというガリカニスムを支持する高等法院が国王と対立することもあった。
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