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ナントの王令(勅令)

1598年、フランスのアンリ4世がプロテスタント信仰を認めた法令。ユグノー戦争は終結し、旧教・新教の宗教対立は一応終わったが、信仰の自由は条件付きで、完全なものではなかった。87年後の1685年、ルイ14世によって廃止される。

ナント GoogleMap

一般にナントの勅令といわれていたが、勅令は皇帝用語なので、国王の出したものだから王令というようになった。1598年にフランスのブルボン朝最初の国王アンリ4世がプロテスタントの信仰を認めたることを布告した王の命令。これによってユグノー戦争は終結した。
 その内容は、新教徒の礼拝の自由を認めるものであり、公職に就くことができるようになるなどの諸権利を獲得した。しかし、その礼拝はパリなど宮廷所在地では禁止され、礼拝の許される都市は指定されていた。またカトリックの祝日の遵守、教会十分の一税の支払いなどは継続されていた。
ナントという都市 ナントはフランス西部のロワール川河口近くにある港湾都市。ブルターニュ半島の南に当たりブルターニュ公の居城があった。ゴシック建築のナント大聖堂がある。中世から近世にかけてのナントはブルターニュ公の居城があるという政治的都市、および宗教都市として栄えていた。この都市名は1685年のナントの王令の廃止のあと世界史の教科書は出てこないので忘れてしまいがちであるが、実は18世紀にはフランス大西洋岸最大の貿易港として栄えている。その最大の商品は黒人奴隷だった。 → 参照ナントの黒人奴隷貿易

ナントの王令の意味

 アンリ4世はすでに1589年に王位についていたが、新教徒の王位が認められない状態が続いていたため、1593年にカトリックに改宗し、翌年ようやくパリに入城できるということになった。ともかく改宗によって王権の正統性を手にすることができたが、新教徒はアンリ4世の改宗に強い不満を抱いていた。抵抗を続ける新教徒と交渉を重ね、ようやく決断したのが、即位から9年後の1598年にナントの王令を出すことであった。これによって新教徒の信仰を認めたものの、一定の条件を付けていたので、旧教徒にも言い訳が立った。つまり、条件付きで信仰の自由を与え、新教・旧教双方を王権に従わせようとするのが、その狙いであったと言える。その意味では「一種の休戦」に過ぎなかった。
(引用)……旧教と新教の大部分は、尚、敵の絶滅を願っていた。アンリ四世は自分の回心が新教徒の多数に先例となることを願っていた。しかしそうしたことは全く起こらなかった。新教徒は彼の改宗を恨みに思い、相変わらず、カトリック教会を『ローマの野獣』と呼んでいた。王がユグノー派から得たものは、一種の休戦の受諾だけだった。即ちナントの王令である。この法令は賢明な処置を含んでいた。国家のあらゆる公職への新教徒の権利、限定された場所と条件下での、礼拝の執行。遺言の権利。最高会議(シノード)や牧師会(コレージュ)や監督法院(コンシストワール)での新教の聖職者の任命。パリ高等法院に於ける勅令裁判所(新教両教徒によって構成)の設立。トゥールーズ高等法院に於ける二分裁判所(プロテスタントの訴訟事件を取り扱い、その判事の半分が新教徒より成るもの)の設立。或る秘密条項は危険だった。新教徒は百五十の城塞を維持することになった。それは国家の中に国家を作ることを止めなかった、過去の苦痛と経験とが、この安全保証の要求を非難させないようにするが、王国内に分派傾向の党を持つことは、フランスにとって危険だった。<アンドレ・モロワ『フランス史』上 新潮文庫 p.227>

「ナントの王令」以後

 ナントの王令で新教の信仰の自由が認められて、フランスは一国二宗教という状態となったが、新教徒側には上述のように制約が多く、カトリック教徒に比べて不平等な内容であったので、なおも抵抗が続き、一部には依然として武装してカトリック側との対立をつづける所もあった。王権による国家統一を進めるブルボン朝にとってはこのような新教勢力に対する弾圧はなおも続き、ルイ13世のときのリシュリューは新教徒の拠点ラ=ロシェルを攻撃して破壊し、それ以降はフランスの新教徒は軍事的、政治的抵抗は終わった。
87年後に廃止 1598年に制定されたナントの王令であったが、宗教的寛容政策は、王権の強化を図ろうとするブルボン朝にとっては、しだいに無用のものと意識されるようになり、新教徒に対する規制は次第に強められていった。ブルボン朝絶対王政の確立に向かう中で、王令制定から87年後のルイ14世の時、1685年にはナントの王令は廃止され,残っていた新教徒もイギリス、オランダ、ドイツ、スイス、そしてアメリカへと逃れていった。 → その後のフランスにおける宗教対立に関してはユグノー戦争の「参考 その後の宗教対立とその克服」へ。

「ナントの虐殺」

 ナントはフランスの黒人奴隷貿易の拠点港として発展し、商業も盛んであったため、ブルジョワ階級が一定の成長を遂げた。そのため、フランス革命が起きるとジャコバン派共和国政府の拠点都市となった。1793年3月、フランス南西部の農民が反革命暴動であるヴァンデーの反乱が起きると、農民軍はナントを攻撃目標として進軍してきた。ナントでは共和国の総督カリエが防衛に当たったが、彼は反乱軍捕虜などを集団で溺死させるなど残虐な行為を行った。反乱軍はナント攻略に失敗して撤退し、結局鎮圧されたが、このときの共和派による虐殺行為は「ナントの虐殺」として問題視され、カリエはロベスピエールによって処罰された。しかしロビスピエール自身も間もなくその恐怖政治と言われた暴力的な体質に対する民衆の離反によって失脚する。<森山軍治郎『ヴァンデ戦争――フランス革命を問い直す』1997 筑摩書房/G.ルノートル/幸田礼雅訳『ナントの虐殺』1997 新評論>
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書籍案内

アンドレ・モロワ/平岡昇訳
『フランス史』上
1956 新潮文庫

森山軍治郎
『ヴァンデ戦争-フランス革命を問い直す』
2022 ちくま学芸文庫

待望の文庫化なる。


G.ルノートル/幸田礼雅訳
『ナントの虐殺』
1997 新評論