教皇のバビロン捕囚/アヴィニョン捕囚
1309年、ローマ教皇がフランス王の手でアヴィニョンに移され、1377年までの68年間、教皇がローマを離れたことを、古代のバビロン捕囚になぞらえてこう呼んだ。アヴィニョン捕囚ともいう。ただし、監禁されたわけではなく、アヴィニョンに豪勢な教皇庁を造営し、教皇としての権威を保っていた。1377年に教皇はローマに帰還したが、翌年からはローマとアヴィニョンに教皇が併存する「大分裂」の時代となる。
1303年のアナーニ事件でローマ教皇のボニファティウス8世が憤死した後、フランス人でボルドー司教だったクレメンス5世が教皇に選出された。1309年、フランス王フィリップ4世はクレメンス5世に圧力をかけ、南フランスのアヴィニョンに教皇庁を移させた。それ以後、1377年まで約70年間、ローマ教皇はローマを離れ、アヴィニョンに居ることとなる。このことを旧約聖書に出てくるユダヤ人のバビロン捕囚になぞらえて、「教皇のバビロン捕囚」とか、「教皇のアヴィニョン捕囚」と呼んでいる。これは次に起こる教会大分裂と共に、ローマ教皇権の衰退を示すものである。
また、1309~1377年の間のアヴィニョンのローマ教皇の歴代はフランス人に占められた。その間、イギリス(イングランド)とフランスの間で王位継承問題に端を発した対立から、1337年に宣戦布告となって百年戦争が始まるが、それまでであればローマ教皇が両国の仲介に立つところであるが、イギリス側から仲介を依頼する状態ではなかった。このことも百年戦争の深刻化の背景の一つである。
グレゴリウス11世はローマ市民の大歓迎で迎えられたが、翌年、膀胱結石を発症し、苦しみながら死去してしまったため、翌年、教皇選出会議が開催された。会議ではフランス人とイタリア人の枢機卿の間に争いが生じ、激高したローマ市民が教皇庁になだれ込むなどの混乱の中で、ナポリ出身のイタリア人がウルバヌス6世として選出された。しかしフランス人枢機卿はそれに反発し、翌1378年にローマとは別にアヴィニョンに教皇クレメンス7世を立てた。こうしてローマ教会は教会大分裂に突入してしまった。
また、1309~1377年の間のアヴィニョンのローマ教皇の歴代はフランス人に占められた。その間、イギリス(イングランド)とフランスの間で王位継承問題に端を発した対立から、1337年に宣戦布告となって百年戦争が始まるが、それまでであればローマ教皇が両国の仲介に立つところであるが、イギリス側から仲介を依頼する状態ではなかった。このことも百年戦争の深刻化の背景の一つである。
アヴィニョンのフランス人教皇
教皇庁がアヴィニョンに置かれていた1309~1377年までの68年間、教皇となったのは次の6代、いずれもフランス人であった。- ヨハネス22世 在位1316~1334年
- ベネディクトゥス12世 在位1334~1342年 百年戦争が始まる。アヴィニョンに宮殿建設。
- クレメンス6世 在位1342~1352年 神聖ローマ皇帝カール4世の戴冠。1348年、ペストの大流行。
- インノケンティウス6世 在位1352~1362年 アヴィニョンの改革。簡素化を進める。
- ウルバヌス5世 在位1362~1370年 ペトラルカ、教皇のローマ帰還を呼びかける。一時ローマに帰還。
- グレゴリウス11世 在位1370~1378年 1372年、フランスの反対にもかかわらずローマ帰還を宣言。
教皇のローマ帰還と大分裂
ローマ教皇のローマ不在は教会の異常事態として、その帰還を望む声が強まっていった。イタリアでは人文学者のペトラルカがかつてのローマの栄光を取り戻すためには教皇の帰還が必要だと盛んに詩に歌って訴えた。中には教皇の不在は災いのもとであると不吉な予想をするものも現れた。そのような中で、プラハを拠点としていた神聖ローマ帝国の皇帝カール4世はアヴィニョンの教皇を支援して、その帰還に尽力した。それらの運動によって、1377年にようやく教皇グレゴリウス11世がローマ帰還を果たした。グレゴリウス11世はローマ市民の大歓迎で迎えられたが、翌年、膀胱結石を発症し、苦しみながら死去してしまったため、翌年、教皇選出会議が開催された。会議ではフランス人とイタリア人の枢機卿の間に争いが生じ、激高したローマ市民が教皇庁になだれ込むなどの混乱の中で、ナポリ出身のイタリア人がウルバヌス6世として選出された。しかしフランス人枢機卿はそれに反発し、翌1378年にローマとは別にアヴィニョンに教皇クレメンス7世を立てた。こうしてローマ教会は教会大分裂に突入してしまった。