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キリスト教会の東西分裂

キリスト教教会が、ローマ教会とコンスタンティノープル教会が8世紀の聖像禁止令をめぐって対立が始まり、1054年に分離が確定。ローマ=カトリック教会とビザンツ教会は独自の道を歩む。

 キリスト教の世界において、当初は五本山のなかのローマ教会(西方教会)とコンスタンティノープル教会(東方教会)として共存する関係にあった。いずれの教会も、451年の第4回公会議であるカルケドン公会議で最終的に正統として確立した三位一体説にしたがっているので、教義上は大きな対立点はなかった。しかもローマ帝国の国教としての立場も共通のものがあった。
 しかし西ローマ帝国が滅亡し西方教会が、東ローマ帝国とは関係のないフランク王国との結びつきを強くしていくに従い、東方教会との立場が次第に遠くなり、両者はキリスト教教会の首位権を巡って争うようになっていった。その両教会の対立要素としてまず出てきたのが8世紀のビザンツ帝国皇帝が打ち出した聖像禁止令を巡る聖像崇拝問題だった。
 ただ聖像禁止令がだされたことですぐ教会が東西に分裂したのではない。それは東西教会の対立の始まりであり、その後、両教会派はスラヴ人やブルガリアでの布教を巡る対立などを経て、1045年に互いに破門(多分に偶発的だったが)しあったことで分裂が明確になった。さらに両教会の対立を決定的にしたのは1204年の第4回十字軍のコンスタンティノープル占領によってであった。
 これらの長い歴史を経て、西方教会はローマ=カトリック教会、東方教会はギリシア正教(正教会)としてキリスト教世界を二分することとなった。以下、その経緯をやや長くなるが、東西教会分離の経過をたどってみよう。

聖像崇拝問題

 726年ビザンツ帝国皇帝レオ3世は聖像禁止令を出した。ビザンツ帝国(7世紀ごろから東ローマ帝国はこう呼ばれてよい)の教会や修道院では聖像(イコン)は使用できなくなり、その擁護派は厳しく迫害され、聖像破壊運動(イコノクラスム)が展開された。
 これに対してローマ教皇フランク王国などゲルマン人への布教においては聖像を用いて行われていたので、ビザンツ皇帝の禁止令に強く反発した。ビザンツ帝国での聖像禁止のうごきは9世紀には後退し、843年にイコン崇敬が認められて収束した。
 この聖像禁止令は、ただちに教会の東西分裂をもたらしたわけではないが、これを契機に首位権の問題、教義上の問題、典礼のあり方、管理権の範囲を巡る争いなどが双方の教会の間に生まれてくる。つねに教会統一の試みや動き、努力もあったが、次第に対立は深刻になっていった。背景には西側ではフランク王国から神聖ローマ帝国に至る俗権を握った王権の伸張があり、東側ではビザンツ帝国がイスラーム教に次第に圧迫され、小アジアやシリア、エジプトなどを失うという長期的衰退があった。ご本山と言われたキリスト教の拠点も、アレクサンドリア、アンティオキア、イェルサレムがいずれもイスラーム教徒の手に落ち、ローマとコンスタンティノープルだけが残されるという状態であった。
 そのような中で、キリスト教世界が、ローマ教皇を中心としたローマ=カトリック教会(ラテン教会)と、コンスタンティノープル総主教を中心としたギリシア正教(ギリシア教会)に二分される状況が明確となった。

ブルガリア教会を巡る対立

 9世紀にはギリシア正教(正教会)は宣教師キュリロスらの活動によって東北のスラヴ人ブルガリア人に布教されていった。同じようにローマ教会側も盛んに宣教師を派遣してスラヴやブルガリアの教化を図ったので、この地域で双方の布教活動が衝突するようになった。
 ブルガリア王国(第1次)は681年にドナウ下流に建国され、9世紀にはバルカン半島に進出してビザンツ帝国やフランス公国と対抗する大国になった。国王ボリス1世はキリスト教改宗を決意したが、ローマ教会とギリシア正教はいずれもブルガリア教会の管轄権を主張して対立することとなった。864年ごろ、ビザンツ帝国はブルガリアを攻撃して講和条件にギリシア正教管轄下に入ることを約束させ、ブルガリアはギリシア正教に改宗することとなったが、その後もローマ教会も管轄権を主張し、東西教会の対立点のひとつとなった。869年に公会議(第9回)がコンスタンティノープルで開催され、妥協点が模索されたが決裂し、その結果、ブルガリア教会は東方教会に属し、コンスタンティノープル総主教の管轄下に入ることが大勢となった。しかし、ビザンツ帝国はブルガリアに侵攻、「ブルガリア人殺し」といわれる大虐殺を行って伴って征服し、1018年には併合してしまった。

情勢の転換

 10世紀~11世紀のヨーロッパ世界は大きく転換した。まず東フランク王オットー1世がイタリアに遠征してランゴバルド・イタリア王を名乗り、962年にローマでオットーの戴冠が実現し、後にこれが神聖ローマ帝国の成立と見なされるようになった。その保護下に入ったローマ教皇は、この頃権威が失墜し、963年から1048年までの間に教皇が19人も交代する有様だった。  そのころビザンツ帝国ではマケドニア朝の皇帝のもとで国力を回復させ、「マケドニア朝ルネサンス」とも言われる文芸の復興が見られた。その反面、コンスタンティノープル総主教の座に着いた聖職者にも凡庸な人物が多く、その立場は相対的に低下した。  このような東西教会が危機にある中、キリスト教世界に新たな脅威が現れた。それは9世紀ころからヨーロッパ各地を侵攻し始めたノルマン人の活動で、11世紀中葉にはシチリアから南イタリアに進出し、ビザンツ帝国の領土を次々と奪っていった。これは東西の教会にとって共通の脅威であるので、ビザンツ帝国とローマ教会はようやく協議を開始することとなった。しかしこの協議が決裂したことが、結局東西教会の分離を決定づけることになった。

東西教会の相互破門

 教科書では一言、1054年に東西教会は互いに破門し合って分裂した、としか書いていない。しかし何故この時期だったのか、どのような交渉が行われたのか知りたくもなる。以下、幾つかの関連書物からまとめると次のような興味深い経過であったことがわかった。結果だけ知りたいという人は読み飛ばして下さい。<主に、久松英二『ギリシア正教 東方の知』2012 講談社選書メチエ p.79-84 を参照>
 ノルマンが迫る中、南イタリアのビザンツ総督だったアルギュロスはローマ教皇レオ9世とビザンツ皇帝コンスタンティヌス9世との軍事同盟を結ばせようとした。ところが当のビザンツの総主教ミカエル=ケルラリオスは、アルギュロスがランゴバルド人でギリシア典礼に熱心でないこととを理由にこれに反対した。アルギュロスとレオ9世が南イタリアからビザンツ=ギリシア正教の一掃を狙っているのではないか、と疑ったのだった。
 コンスタンティノープル総主教ミカエル=ケルラリオスは熱狂的な反ラテン典礼論者で、彼が問題にしたローマ教会(ラテン教会)の典礼の間違いというのは、ミサに種なしパン(イーストを入れないパン)を使うことで、それはユダヤ教的な異端である、というものであった。コンスタンティノープルに残っていたラテン教会(ローマ=カトリック教会)で種なしパンを使ってミサを行っている教会をすべて閉鎖したほどだった。
 軍事同盟が不首尾に終わったため、ビザンツ帝国軍とローマ教会軍はバラバラにノルマン軍と戦った。1053年7月にローマ教皇レオ9世は自ら出陣したが、教皇自身が捕虜となってしまうという惨敗を喫した。このローマ教皇の戦いに対しても南イタリアの領有権を主張していたビザンツ帝国は、教皇が南イタリア解放をめざしたのではないか、と反発したのだった。
 1054年3月、ローマ教皇レオ9世は、コンスタンティノープル側との交渉役に枢機卿フンベルトゥスを派遣した。フンベルトゥスは、ケラリオスに負けず劣らず、偏執的な大のギリシア嫌いだった。妥協を知らない二人の偏執狂の交渉がうまく行くはずはなかった。
 1054年7月16日、ローマ教皇の代理人フンベルトゥスは、コンスタンティノープル総大司教ミカエル=ケルラリオスとその一門に対し、破門を宣告した。それをうけた相手側も、フンベルトゥスを破門とした。<マックスウエルースチュアート『ローマ教皇歴代誌』1999 創元社 p.103-105>

参考 東西両教会の分裂?

 これが「東西両教会の分裂」、あるいは教会史上「大シスマ」(一般に大シスマは14~15世紀のローマ教皇庁が分裂したこと)とも言われる事実である。しかし、この経過からわかるように、この教会分裂は、教会論的、神学的動機よりも、むしろ政治的動機及び当事者の個人的資質という偶然的要素が大きく絡んでいた。そもそも当時、当事者たちが900年にわたって続く決定的な分裂だとは認識していたとは思えない。
 しかもこの破門は法的に不備である。まずフンベルトゥスが出した破門状は教皇名で出されたものではない。実はレオ9世は直前に死去しており次期教皇はまだ選出されていなかった。またケルラリオスの発した破門状もフンベルトゥスなど使節たちに出したもので、ローマ教皇を破門にしたわけではない。いずれもフンベルトゥスとケルラリオスという交渉当事者が感情にまかせて出してしまったという気配が強い。さらに、アレクサンドリア、アンティオキア、イェルサレムの各総主教には言及されていない。  したがってこの相互破門を「東西教会の分裂」というのはかなり無理な飛躍である。それにもかかわらずこの破門が事実として重みを生じ、20世紀中葉まで続いてしまった。「形式上ではなく、結果論として大シスマとなったのである。」<久松英二『ギリシア正教 東方の知』2012 講談社選書メチエ p.83>
※交渉が、最初から妥協を考えない原則論者どうしで行われた場合の恐ろしさ、といったところであろうか。近代以降の国家間交渉でこんなことが行われたら大変です。

第4回十字軍 コンスタンティノープル占領

 東西教会の対立が修復困難なほどの対立となってしまったのは、1204年第4回十字軍がコンスタンティノープルを占領したことであった。ラテン人の十字軍兵士はコンスタンティノープルで略奪や暴行を行い、ローマ教皇インノケンティウス3世もそれを破門するほどであったが、征服者たちがラテン帝国を建てると破門を解き、それを祝福した。ねらいはローマ教会による東方教会の併合であった。
ラテン帝国による迫害 インノケンティウス3世はラテン帝国に命じ、コンスタンティノープル総主教以下の東方教会主教をすべては面して代わりにラテン人(ローマ人)をあて、しかも教会・修道院の財産を没収した。東方教会側が最も抵抗したことは、教皇が派遣した監督ペラギウスが、信徒に対しローマ教会の信仰信条を強要したことで、それはニケーア=コンスタンティノープル信条の三位一体説に、「聖霊は子から発する」という意味の言葉(フィリオクエ、下記を参照)が加えられていることだった。それを拒否した聖山アトス山の修道士13人はラテン帝国によって捕らえられ、ペラギウスの指示で処刑されてしまった。ローマ教会は彼らを異端であるとしたが、東方教会側からは彼らは殉教者であり、この事件によって東方教会信徒の中に、西方教会に対する癒やしがたい憎悪感を植え付けることとなった。<久松『同上書』 p.85,179>

東西教会の違い

キリスト教世界を二分する、西方教会(ローマ教会)と東方教会(ギリシア正教)の違いについて、世界史と関連する範囲で説明する。それぞれの信仰の内容については踏み込まない。

 両者は同じキリスト教であり、『聖書』(旧約・新約の領邦を含む)を基本の経典とし、三位一体説を教義の柱としていることでは同じではあるが、それぞれ別個な教会組織と信仰内容、典礼(儀式の形式)を発展させていった。ローマ教会は、西ヨーロッパを中心に「ローマ=カトリック教会」として、コンスタンティノープル教会はギリシアを中心に東ヨーロッパ、ロシアに広がり「ギリシア正教(正教会)」として発展していく。
・教会組織の違い 西方のローマ=カトリック教会はローマ教皇を頂点としたヒエラルキアのもと、全教会が統率されている。それに対して東方のギリシア正教には、カトリックでの教皇にあたる全世界の正教徒を統率する機関はなく、ロシア正教会、ギリシア正教会、ルーマニア正教会など各地の正教会は独立した存在である。なお、かつてはビザンツ帝国皇帝とギリシア正教の関係を皇帝教皇主義として説明することがあったが、現在ではそれは不適切とされている。<この項、代ゼミ教材センター世界史越田氏より御教示を受けたので感謝します。>
・教義の違い 双方とも三位一体説を教義の中心としているので「ニケーア=コンスタンティノープル信条」に基づいた信仰を守っている。そこで教義に違いはないはずなのであるが、長い対立の歴史の中で重大な相違点が生じている。それはほとんど「フィリオクェ問題」と言う一点に集中している。この点は高校世界史の範疇を超えるので、深入りしなくともよいが、あれだけ大きな世界的宗教団体が何故対立しているのか興味深いことであるので、必要な程度だけ触れておく。
参考 フィリオクェ問題とは 「ニケーア=コンスタンティノープル信条」における聖霊の発出源に関する文言のオリジナルでは「聖霊は父から発出する」とあるだけであったのが、西方で使われるラテン語訳に「子からも」を意味するラテン語 filioque という一語が書き加えられたことに始まる。本来変更することの出来ない(変更するなら公会議で議論して決めなければならない)文言は、6世紀ごろスペインで始まり、フランク王国の教会の司教たちがその変更した信条を唱えるようになったらしい。ローマ教皇ははじめはこの改訂を認めなかったが、11世紀初めには受け入れてしまった。ギリシア正教側は信仰信条を勝手に書き換えたとして強く反発し、その改訂を受け入れていない。これが現在に至るまで東西教会の最も見解が違う点で、未解決である。<久松英二『ギリシア正教 東方の知』2012 講談社選書メチエ p.50-52>
・その他の違い ギリシア正教の聖職者は、黒い帽子に、黒いマントをまとい、必ず髭をたくわえている。なかには髪を長く伸ばし後ろでまとめめているのもいる。これは聖職者が必ず守らなければならない教会規定であり、守るべき伝統とされている。また、ギリシア正教と、ローマ=カトリックのちがいに、十字の切り方がある。カトリックでは、親指を折って、ひたい、胸とおろし、次に左肩にもってくるが、ギリシア正教では親指、人差し指、中指を合わせ、後の二本を折り、合わせた三本指で、ひたい、胸とおろして、右肩、左肩と描く。右を先にもってくるのは、キリストが昇天した後、神の右手に坐した、されるところから、重視するのである。<高橋保行『ギリシア正教』講談社学術文庫>

Episode 900年目の和解

 1054年に決裂し、その後東西の教会は対立を続ける。東方教会がセルジューク朝やオスマン帝国の脅威を受けた時に西方教会に歩み寄り、和解の動きは出たが、結局は和解は成立しなかった。両者の和解が成立したのはなんと9百年以上たった現代の1965年。この年、教皇パウルス6世と総主教アテナゴラスは「互いを正当に認め合い赦免し合う」ことを合意、和解への道が切り開かれた。もちろん、両者の実質的な合同は行われていない。<『ローマ教皇』「知の再発見」双書(創元社)による。>
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書籍案内

F=シオヴォ/J=ベシェール
『ローマ教皇』
1997 創元社・双書知の再発見

久松英二
『ギリシア正教 東方の知』
2012 講談社選書メチエ