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イコン

ギリシア正教会の教会で用いられた聖人を描いた聖画像。726年の聖像禁止令で多くが破壊されたが、846年に復活し、特にスラヴ人の中でさかんに「崇敬」された。

イコン

イコンの例

 ビザンツ帝国の圏内のギリシア正教の教会では聖画像を「イコン」という。イコンとはギリシア語で「イメージ」の意味。イエス、マリア、聖人の画像を崇敬すること通して信仰を深める、重要なものとされた。印刷術が普及するまでは、聖書の教えは、イコンを媒介として伝えられていた。また、イコンは偶像ではないということから、「崇拝」ではなく「崇敬」と言う言葉が使われる。

聖像破壊運動(イコノクラスム)

 7世紀になってイスラーム教の攻勢が東方から激しくなると、小アジアの住民から、厳格な偶像崇拝の禁止を求める声が起こり、聖像崇拝論争が深刻になった。726年に、ビザンツ皇帝レオン3世は、聖像禁止令を教会に命じ、反対する聖職者を弾圧した。その背景にはビザンツ帝国の東の国境に迫るイスラーム教徒が、厳しく偶像崇拝を否定し、キリスト教徒のイコン崇敬を偶像崇拝だと非難していたことがある。アルメニアやシリアなどビザンツ帝国の辺境ではイコン崇敬に反対する動きが始まっていた。
 イコン擁護派への積極的迫害は762年から始まり、765年にはイコン擁護派から殉教者がでるなど、弾圧は峻烈を極めた。特に熱心なイコン擁護派である修道士たちは、修道院閉鎖、財産没収などの集中攻撃を受けた。<久松英二『ギリシア正教 東方の知』2012 講談社選書メチエ p.44-48>
 このようなビザンツ帝国各地で行われた聖像破壊運動(イコノクラスム)によって多くのイコンが破壊された。特にレオン3世の子のコンスタンティヌス5世(在位741~775)の時が迫害が最も盛んに行われた。

ニケーアの第7回公会議

 同時にこの問題は、聖像使用をゲルマン人などを対象にしていたローマ教会の反発を受け、キリスト教世かの中で西方のローマ教会と東方のビザンツ教会が対立することとなった。しかしこのような動きが強まることを憂いる声も強くなり、コンスタンティヌス5世の死後、コンスタンティノープル総主教となったタラシオスはローマ教皇ハドリアヌス1世と連絡を取り、イコノクラスムの気運の高い軍隊などの妨害に遭いながら、787年にニケーアで第7回の公会議を開催に漕ぎ着け、そこでイコノクラスムを異端と宣告してイコン崇敬を公式に認めた。
 ところが813年にアルメニア出身のレオン5世がビザンツ皇帝となるとイコノクラスムが再燃、擁護派の総主教は罷免され、ハギア=ソフィア大聖堂で開かれた主教会議で第7回公会議の決議も無効とされた。こうして第二期のイコノクラスムが始まり、反対した修道院長テオドロスらは袋に入れられて水に沈められるなどの激しい迫害が加えられた。

聖像の復活

 しかし、特にスラヴ人の中にはイコンの復活を求める要求が強く、また度重なる弾圧にも関わらず、イコンを全廃したり、イコンの使用を完全に取り締まることは出来なかった。842年にビザンツ皇帝となったミカエル3世は幼少であったので皇太后テオドラが摂政となると、843年、テオドラはイコン擁護派をコンスタンティノープル総主教に就任させ、ハギア=ソフィア大聖堂の教会会議でイコン崇敬の復活を宣言した。これを記念して東方正教会では大斎の第一日曜日を「正教の勝利」の祝日としている。<久松『前掲書』p.48>
 こうして、726年に聖像禁止令が出されてから約120年、843年にイコノクラスムは終わり、イコン崇敬が復活した。その後ビザンツ世界=ギリシア正教(東方教会)では「イコン」の制作・崇敬が復活、信徒の様々な場面で現在も使われている。
 ただし、その後もギリシア正教では平面像としてのイコンは許されたが、立体像の聖像は作られることはなかった。そのため「イコン」はビザンツ文化、さらにそれを継承したロシア文化を代表する美術としても重要となっていく。
 聖像崇拝問題は、ただちにキリスト教の東西分裂をもたらしたものではなく、それ自体はイコン崇敬の復活で解決した。しかし、これ以後も東西教会の間には様々な対立要素が現れ、最終的には1054年の教会の東西に分離に至ることになる。

参考 ギリシア正教とイコン

(引用)イコンのない正教会はありえない。教会外で典礼儀式を執行する際は、少なくともキリストと生神女(マリア)のイコンを備えつけておかなければならない。イコンは私的な生活の場でも大切にされている。イコンは信徒の住まいに置かれ、人はその前で祈り、可能であれば、その前に常明灯を灯しておく。古いしきたりに従い、客は家の主人にあいさつをする前に、まずイコンにお辞儀をする。
 イコンを所有したり、イコンを崇敬したりすることが一般的に受け入れられるようになったのは、8世紀のいわゆるイコン論争の後である。イコン崇敬の神学的な根拠づけはとりわけダマスコのヨアンネス(650年ごろ~750年ごろ)の貢献による。論争の焦点はとくに神人イエス・キリストの画像表現の可否をめぐるものであった。つまり「見えない神の姿」であるキリストのうちに神の言葉が受肉したので、人となられた方の画像表現は可能であり、イコンは福音書に匹敵する仕方で啓示の伝達手段でありうると、ヨアンネスは主張した。
 ニカイアにおける第7回目の全地公会議(787年)で採択されたイコン崇敬に関する決議は、神学的にはきわめて控えめであるが、主要な論点として以下の三つをあげている。①イコンは「原像の想起とそれへの憧憬」を目覚めさせる。②イコンに対して表された敬意は原像へと向かう。よって、イコンの前に跪き、それを崇敬する者は、イコンの中に描かれた方へのペルソナを崇敬している。③イコンには、神にしか帰されない「礼拝」ではなく、「あいさつ」や「うやうやしい崇敬」が帰せられる。<久松英二『ギリシア正教 東方の知』2012 講談社選書メチエ p.107-108>