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ギリシア正教/ギリシア正教会/東方教会/東方正教会

コンスタンティノープル教会(総主教)を首座とし、ビザンツ帝国によって保護され、発展した教会とその教説。聖像禁止問題などで西方のローマ教会と次第に対立を深め、最終的には1054年に分離し、東方教会(東方正教会)として独自の発展を遂げた。ロシア人などスラヴ社会に広がり、ロシア正教会など幾つかの独立教会がまれる。

 本来、コンスタンティノープル教会キリスト教五本山の一つであったが、コンスタンティヌス帝の築いた「第二のローマ」コンスタンティノープルの教会として重視されるようになり、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)のもとで独自の発展をとげるようになった。
 6世紀のユスティニアヌス帝はかつてのローマ帝国の地中海世界支配を再現するとともに、コンスタンティノープルにハギア=ソフィア大聖堂を再建(537年完成)し、そこに総主教座を置いた。
 しかし、7世紀になると、東方にイスラーム教が勃興し、その勢力が次第にビザンツ帝国の東辺を脅かすようになるとキリスト教世界にも大きな動揺が生じた。8世紀以降の聖像崇拝問題もその現れと見ることもでき、そのことからローマ教会と対立したコンスタンティノープル総主教は、ビザンツ皇帝の保護のもと、自らの教えを正しいキリスト教であると唱えて「正教」(オルソドクス)と称するようになる。特に9世紀以来、「スラヴの使徒」と言われたキュリロス兄弟によって東ヨーロッパ世界のスラヴ人に布教が進み、その教会は「ギリシア正教」(Greek Orthdox)といわれ、東ヨーロッパ世界に根付くことになる。
 現在、ギリシア正教(東方教会)とされているのは、「主にギリシア・東ローマ帝国のキリスト教的伝統を継承していること、とくにその伝統のなかでもギリシア式典礼を実践していること」に由来し、これに属するものとしてロシア正教会、ギリシア正教会、ルーマニア正教会、セルビア正教会、ジョージア正教会など多数ある。<久松英二『ギリシア正教 東方の知』2012 講談社選書メチエ p.7-8>
注意 教科書では「ギリシア正教」と「ギリシア正教会」を同じ意味で使っているが、厳密には使い分けた方がよい。キリスト教の教派としては単に「ギリシア正教」という。ギリシア正教は初めはコンスタンティノポリス総主教を中心とする単一の教派だったが、スラヴ人への布教が進む中で、各地の大主教が「ロシア正教会」などが分立していく。コンスタンティノポリス総主教はオスマン帝国支配下でも存在したが、1830年にギリシアが独立すると共に「ギリシア正教会」が分離独立する。したがって「ギリシア正教会」には狭い意味の現在のギリシアを管区とするギリシア正教の一つの独立正教会を意味することになる。

東方教会

 ビザンツ帝国と結びついたコンスタンティノープル総主教を中心としたキリスト教の体系を、特に教会の東西分離以降は、ローマ教会を西方教会というのに対して、東方教会ともいう。あるいは「東方正教会」という言い方もある。ただし、東方教会といった場合、ギリシア正教だけではなく、451年カルケドン公会議で異端とされたキリスト単性説に立つアルメニア教会コプト教会などを示す場合もある。一般に東方教会といった場合は、いわゆるギリシア正教系の教会を指すとみてよさそうだ。

ローマ=カトリックとの体制の違い

 ローマ=カトリック教会とギリシア正教は同じキリスト教の正統とされる三位一体説を信仰の柱としている。教義の上で互いに相手を「異端」とすることはないが、主に典礼(儀式)の細部での違い、あるいは布教法での聖像崇拝を認めるかどうか、などでは鋭く対立した。特に1054年に互いを破門し合って東西分離が確定してからは、狭義の解釈でも違いがはっきりとしてくる。また儀礼において、かなりの違いが認められる。 → キリスト教会の東西分裂の項を参照

ビザンツ帝国の衰退

 7世紀には、アラビア半島に興ったイスラーム教が急速に勢力を拡大し、ビザンツ帝国領のシリア、エジプト、北アフリカを次々と支配下に収め、さらに小アジアに進出してきた。そのため、五本山のうち、アンティオキア・アレキサンドリア・イェルサレムの東方の3教会がいずれもイスラームの手におちてしまった。その結果、コンスタンティノープル教会は東方での唯一のキリスト教の中心として重きをなすこととなった。

聖像禁止令

 7世紀以降、ビザンツ帝国の東方でイスラーム教が急速に成長し、その脅威は小アジアにも及ぶようになってきた。イスラーム教側は、ビザンツ帝国に抑圧されていた人々を解放する際に、キリスト教は聖像を崇拝する偶像崇拝という間違った宗教であることを宣伝していた。ビザンツの支配を守るためにはキリスト教信仰も守らなければならない立場にあったビザンツ皇帝レオン3世は、そのようなイスラーム側の中傷から教会を守るため、726年聖像禁止令を出した。

ローマ教会との対立

 それに対してローマ=カトリック教会側は、聖像を使用してゲルマン人への布教を続けていたこともあって、反発した。こうして始まった聖像崇拝問題はビザンツ帝国で激しい聖像(イコン)擁護派への迫害となった。しかし、イコンの使用を完全に禁圧することは出来ず、ビザンツ皇帝が聖像容認に転じたことによって、843年に聖像禁止令は取り消され、イコン使用が認められた。これによって両教会の関係も一時修復されたが、教義上や典礼の違いが次第に明らかになっていった。さらに新たな対立点としてブルガリア人への布教問題が起こってきた。

スラヴ人、ブルガリア人への布教

 ギリシア正教は、9世紀にはギリシア人宣教師キュリロスらの活動によってスラヴ人やブルガリア人に広がっていった。ブルガリア王国(第1次)は681年に建国、ビザンツ領を奪いながらドナウ川下流からバルカン半島に進出した。その間、その支配下にギリシア正教徒が多くなると共に、その西部ではフランク王国と接していたのでカトリック教徒も増えてきた。864年ごろ、ビザンツ帝国はブルガリアを攻撃して講和条件にギリシア正教に入ることを認めさせ、ブルガリアはコンスタンティノープル総主教の管理下に入った。ローマ教会側は強く反発し、869年に公会議(第9回)をコンスタンティノープルで開催して調整が試みられたが、実質的に決裂し、大勢はブルガリアはギリシア正教管轄となった。
 その後、スラヴ人社会でのキュリロスらの活動による成果がブルガリアで現れ、ブルガリア教会が独自の発展を遂げ、927年にはブルガリア総主教庁も設立が認められた。しかし、ビザンツ帝国はブルガリアの内紛に乗じて1018年にブルガリア王国を併合してしまい、ブルガリア総主教庁も1世紀も経ずに消滅した。
 一方、ギリシア正教側のスラヴ人への布教も積極的に進められ、988年にはロシア人国家のキエフ公国の大公ウラディミル1世がギリシア正教に改宗した。スラヴ人やブルガリア人への布教は、ローマ教会との新たな軋轢の要因となっていった。
 結果的には、1054年に互いに相手を破門し合うかたちでキリスト教会の東西分裂が確定することとなる。

十字軍の要請

 しかし、11世紀の末、中央アジア起源のトルコ人であるセルジューク朝が小アジアに侵攻し、1071年マンジケルトの戦いでビザンツ帝国軍が敗れ、コンスタンティノープルは再び大きな脅威にさらされ、さらに聖地イェルサレムも彼らの手に落ちた。ビザンツ皇帝アレクシオス1世は、ローマ教皇ウルバヌス2世に対し支援を要請、それに応える形で十字軍運動が始まる。ローマ教会側は東西教会の統合の機会と捉え、その過程で、第4回十字軍1204年、コンスタンティノープルを占領しラテン帝国を建てた。ラテン帝国はラテン人(ローマ人)による支配であったので、コンスタンティノープル総主教もこの時期二はギリシア人ではなくラテン人に替えられてしまった。これは東西教会の対立を決定的にしてしまった。

ロシア国家の正教会

 ラテン帝国はまもなく倒れ、ビザンツ帝国が都をニケーアからコンスタンティノープルに戻し、コンスタンティノープル総主教もギリシア正教の総本山として権威を回復した。しかし、その支配領域はコンスタンティノープル周辺に限られるようになった。そのためコンスタンティープル総主教も管轄権も次第に狭められていった。
 一方、ロシア人国家であるキエフ公国は、モンゴルの侵攻によって1240年に滅亡したが、まもなくモスクワ大公国として復興(1283年)し、キエフの府主教座は1326年モスクワに移った。これによって後のロシア正教会の基礎が築かれたことになる。

オスマン帝国支配下のギリシア正教

 1453年コンスタンティノープルが陥落し、イスタンブルと改称されてオスマン帝国のスルタンの支配を受けることとなった。しかし、間違えてはいけないことは、これでコンスタンティノープル総主教がなくなってしまったのではない。総主教座の置かれたハギア=ソフィア大聖堂はイスラーム教のモスクとして造り替えられることになったため、総主教座は北西のファナル地区に移った。17世紀末には総主教庁のことをファナルと呼ばれるようになる。また、オスマン帝国陵内では、ギリシア正教徒は迫害されたわけではなく、オスマン帝国によるミッレト制など寛大な宗教政策のもとで、信仰を守った。

ロシアとギリシア正教

 ビザンツ帝国が滅亡したことで、かわりギリシア正教の保護者となったのは東ヨーロッパに広がったスラヴ人の中のロシア国家であった。府主教座はキエフからモスクワに写されていたが、モスクワ大公国イヴァン3世は、1472年、ビザンツ皇帝を継承し、正教会の保護者と自認した。1589年にはモスクワが大主教座から総主教座に昇格した。これがロシア正教会の成立である。
注意 このときギリシア正教の総主教座がモスクワに移されたと説明されることがあるが、それは誤り。モスクワ大主教座が総主教として独立した正教会の一つとなることを、コンスタンティノープル総主教が認めたというのが正しい。コンスタンティノープル総主教はまだ存続している。
 このようなコンスタンティノープル総主教とモスクワ総主教の関係は、そば屋の「のれん分け」方式にたとえるとわかりやすい<作家佐藤優氏(産経新聞ネット版)のたとえ>。それに対してカトリック教会は「銀行方式」で本店にあたるローマ教皇が全支店を管理統括している。

NewS ウクライナ正教会の独立問題

 2018年10月、コンスタンティノープル総主教は、ウクライナ正教会のロシア正教会からの分離独立を認めた。これは、クリミア半島を巡るウクライナとロシアの対立を背景としており、単なる宗教上の問題にとどまらない外交問題に発展している。ロシアのプーチン政権はただちにコンスタンティノープル総主教に抗議し撤回を求めているという。 → コンスタンティノープル教会/総主教の項を参照
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書籍案内

高橋保行
『ギリシア正教』
1980 講談社学術文庫

久松英二
『ギリシア正教 東方の知』
2012 講談社選書メチエ