ウルバヌス2世
11世紀末に十字軍運動を呼びかけたローマ教皇。クリュニー修道院出身の改革派教皇であり、教皇権の確立に努め、十字軍の成功によってその権威を高めた。
11世紀末のローマ教皇(在位1088年~99年)としてクレルモン宗教会議を開催、聖職者に教会改革の徹底を再確認し、1095年11月27日には、聖地イェルサレムの回復のため十字軍運動の開始を呼びかけた。聖職者に対する呼びかけであったが、キリスト教国の国王・騎士、さらに民衆の大きな感動を呼び、翌年からの運動の開始がもたらされた。
ウルバヌス(1035年頃生まれ、在位1088~1099)はフランス人で本名オドー=ド=シャンティヨン、クリュニー修道院の出身。グレゴリウス7世の信任厚く、その補佐を務め、改革派の中心となる。1077年のカノッサの屈辱から本格化したドイツ王(神聖ローマ皇帝)ハインリヒ4世との叙任権闘争はさらに継続中であり、教皇ウルバヌス2世に対しても、ハインリヒ4世が立てた対立教皇クレメンス3世が存在するという状態だった。ウルバヌス2世は改革派の諸侯や聖職者の支持でローマに復帰し、ハインリヒ4世・クレメンス3世を破門にする(1093年)など、教皇権の強化に努めた。
1095年、フランスのクレルモンでクレルモン宗教会議を召集して聖地イェルサレムを異教徒であるイスラーム教徒から奪還するために十字軍運動を呼びかけ、西欧キリスト教国の国王、騎士、商人、民衆から幅広い支持を受けた。
1096年に派遣された第1回十字軍は、1099年にイェルサレム奪回に成功した。運動参加者の犠牲、途中でのユダヤ人虐殺、何よりもイスラーム教徒に対する虐殺や略奪など、非人道的な行いもあったが、当初の第一の目標である聖地回復に成功した。その二週間後にウルバヌス2世は死去したが、この成功は、叙任権闘争から続いた俗権の神聖ローマ皇帝との争でのローマ教皇の優位を進めることとなった。
さらに長期的に見ればこれ以後、ローマ教皇の権威は一段と高まり、13世紀のインノケンティウス3世の時代に最高潮に達する。なお、ローマ教皇庁という文字はウルバヌス2世時代の1098年に初めて文書に見られるようになる。<ソヴォロ他/鈴木宣明訳『ローマ教皇』1997 知の再発見双書 p.58 創元社>
1095年、ウルバヌス2世は、教会改革の中で長く論争の続いていた秘蹟論争に終止符を打った。それは俗人(皇帝)が選任した聖職者(司教)=聖職売買者(シモニスト)によって与えられた秘蹟(洗礼と叙品)は無効とされていたものを、そのような聖職者であったことを知らずに行われた場合は、憐憫によって許す、とされたことである。これによって、皇帝派の聖職者も救済されることとなり、教皇派との和解が成立することとなった。<堀米庸三『同上書』 p.136、再版2013 中公文庫>
その中でウルバヌス2世が十字軍提唱で意図したことは何であったか。またそれが何故、全ヨーロッパを巻き込む大運動になったのか、考えてみる必要がある。その際の一つの見解として、次のようなまとめが参考になるであろう。 、
ウルバヌス(1035年頃生まれ、在位1088~1099)はフランス人で本名オドー=ド=シャンティヨン、クリュニー修道院の出身。グレゴリウス7世の信任厚く、その補佐を務め、改革派の中心となる。1077年のカノッサの屈辱から本格化したドイツ王(神聖ローマ皇帝)ハインリヒ4世との叙任権闘争はさらに継続中であり、教皇ウルバヌス2世に対しても、ハインリヒ4世が立てた対立教皇クレメンス3世が存在するという状態だった。ウルバヌス2世は改革派の諸侯や聖職者の支持でローマに復帰し、ハインリヒ4世・クレメンス3世を破門にする(1093年)など、教皇権の強化に努めた。
1095年、フランスのクレルモンでクレルモン宗教会議を召集して聖地イェルサレムを異教徒であるイスラーム教徒から奪還するために十字軍運動を呼びかけ、西欧キリスト教国の国王、騎士、商人、民衆から幅広い支持を受けた。
1096年に派遣された第1回十字軍は、1099年にイェルサレム奪回に成功した。運動参加者の犠牲、途中でのユダヤ人虐殺、何よりもイスラーム教徒に対する虐殺や略奪など、非人道的な行いもあったが、当初の第一の目標である聖地回復に成功した。その二週間後にウルバヌス2世は死去したが、この成功は、叙任権闘争から続いた俗権の神聖ローマ皇帝との争でのローマ教皇の優位を進めることとなった。
さらに長期的に見ればこれ以後、ローマ教皇の権威は一段と高まり、13世紀のインノケンティウス3世の時代に最高潮に達する。なお、ローマ教皇庁という文字はウルバヌス2世時代の1098年に初めて文書に見られるようになる。<ソヴォロ他/鈴木宣明訳『ローマ教皇』1997 知の再発見双書 p.58 創元社>
クリュニー修道院出身
ウルバヌス2世はフランス人で、キリスト教と教会の改革を進める修道院運動の中心地、クリュニー修道院の出身でローマ教皇となったことが重要な意義を有していた。(以下の引用文の法王は教皇の同義)(引用)ウルバヌスは北フランスはシャンパーニュの生まれ(1042年)で、ランスに学び、その大司教座助祭となったのち、クリュニー修道院に入り、ここで副修道院長となった(1070年)。彼は法王に選ばれるに当り、グレゴリウス7世の政治を全面的に継続することを誓ったが、彼は決して単なるグレゴリウス主義者ではなかった。<堀米庸三『正統と異端』初版1964 中公新書 p.132、再版2013 中公文庫>しかし、ウルバヌスの教皇座は、皇帝ハインリヒ4世によって選出された対立教皇(正式には認定されていない)クレメンス3世が優勢のため、著しく不安定であった。またミラノ大司教座をめぐっても皇帝と争っていた。ところが、1093年、ハインリヒ4世がその子のコンラートの裏切りにあって急速に力を無くしたためウルバヌス2世の立場は好転した。
改革派教皇
ウルバヌス2世は自らグレゴリウス改革の系商社として任じており、叙任権闘争での皇帝・国王など世俗の聖職叙任権を否定し、教皇の権威を回復することを目指していた。そのなかで改革派の強い主張であった聖職売買(シモニア)禁止を明確にしたことの意義が大きい。1095年、ウルバヌス2世は、教会改革の中で長く論争の続いていた秘蹟論争に終止符を打った。それは俗人(皇帝)が選任した聖職者(司教)=聖職売買者(シモニスト)によって与えられた秘蹟(洗礼と叙品)は無効とされていたものを、そのような聖職者であったことを知らずに行われた場合は、憐憫によって許す、とされたことである。これによって、皇帝派の聖職者も救済されることとなり、教皇派との和解が成立することとなった。<堀米庸三『同上書』 p.136、再版2013 中公文庫>
クレルモン宗教会議
1095年、フランスのクレルモン宗教会議で十字軍の派遣を呼びかけたが、それは皇帝から奪った西ヨーロッパの主導権を確実にし、同時にビザンツ皇帝の要請に応えて十字軍を派遣することによって、1054年以来の教会の東西分裂を再統合しようという意図もあった。そして彼の熱狂的な演説は、西ヨーロッパのキリスト教徒を十字軍運動に奮い立たせ、その当初の成功は教皇権の確立をもたらすこととなった。ウルバヌス2世の演説 乳と蜜の流れる国
『おお、神の子らよ。あなた方はすでに同胞間の平和を保つこと、聖なる教会にそなわる諸権利を忠実に擁護することを、これまでにもまして誠実に神に約束したが、そのうえ新たに‥‥あなた方が奮起すべき緊急な任務が生じたのである。‥‥すなわち、あなた方は東方に住む同胞に大至急援軍を送らなければならないということである。かれらはあなた方の援助を必要としており、かつしばしばそれを懇請しているのである。その理由はすでにあなた方の多くがご存じのように、ペルシアの住民なるトルコ人が彼らを攻撃し、またローマ領の奥深く、”聖グレゴリウスの腕”とよばれている地中海沿岸部(ボスフォラス海峡、マルモラ海沿岸をさす)まで進出したからである。キリスト教国をつぎつぎに占領した彼らは、すでに多くの戦闘で七たびもキリスト教徒を破り、多くの住民を殺しあるいは捕らえ、教会堂を破壊しつつ神の国を荒しまわっているのである。これ以上かれらの行為を続けさせるなら、かれらはもっと大々的に神の忠実な民を征服するであろう。されば、‥‥神はキリストの旗手たるあなた方に、騎士と歩卒をえらばず貧富を問わず、あらゆる階層の男たちを立ち上がらせるよう、そしてわたしたちの土地からあのいまわしい民族を根だやしにするよう‥‥くりかえし勧告しておられるのである。』これはシャルトルの修道士フーシェの年代記が伝えるクレルモン公会議における教皇ウルバヌス2世の演説の一説。さらに教皇は、『あなた方がいま住んでいる土地はけっして広くない。十分肥えてもいない。そのため人々はたがいに争い、たがいに傷ついているではないか。したがって、あなた方は隣人のなかから出かけようとする者をとめてはならない。かれらを聖墓への道行きに旅立たせようではないか。「乳と蜜の流れる国」は、神があなた方に与えたもうた土地である‥‥』と語り、『かの地、エルサレムこそ世界の中心にして、天の栄光の王国である。』と獅子吼した。それを聴いた民衆から『神のみ旨だ!!』というさけびが起こったという。このウルバヌスの演説の原典は失われたが、1905年発表のアメリカの歴史家ムンロの研究によってほぼ復元された。<橋口倫介『十字軍』岩波新書 P.43-51>十字軍を提唱したウルバヌスの意図
高校世界史ではウルバヌス2世は十字軍を提唱したローマ教皇として登場するだけであるが、当時、ローマ教皇としての彼が抱えていた問題は叙任権闘争で劣勢に立たされていた、改革派教皇の権威の再建であった。また、当時のヨーロッパは封建的分権化が進み、皇帝・国王・諸侯が私闘(フェーデ)を繰り返し、都市民・農民は無秩序な社会の中で疲弊が進んでいた。その中でウルバヌス2世が十字軍提唱で意図したことは何であったか。またそれが何故、全ヨーロッパを巻き込む大運動になったのか、考えてみる必要がある。その際の一つの見解として、次のようなまとめが参考になるであろう。 、
(引用)神の名においての聖なる十字軍の呼びかけの背後には、聖なる地方とイェルサレムの再征服以上のことが隠されていた。それは分裂し権力闘争によってゆらいでいたヨーロッパにおける権力政治的な手段であった。教皇ウルバヌスは聖地において抑圧されムスリムの恐怖行為により苦しんでいるキリスト教徒の解放と並んで、ビザンツ帝国に指導された東方教会との再合一に努めた。しかしその一方で、グレゴリウス改革派のリーダーである彼は、教会をヨーロッパにおける秩序勢力として確立することに邁進した。カロリング帝国の終末後、ヨーロッパ中心部はフェーデを繰り返す貴族の支配領域へ分解し、しばしば教会や修道院も襲撃され略奪されていたからである。<池谷文夫『ウルバヌス2世と十字軍』世界史リブレット人 2014 山川出版社 p.84>
ウルバヌス2世の意図の結果は
それではウルバヌス2世が意図したことは達成できたのであろうか。上記の書では、次のようにまとめている。- 長い間相互の戦いの渦中にあったフランス貴族に「聖なる正しい戦い」に奉仕するという理念的な共通基盤を与えた。
- それは同時にキリスト教世界に於ける教皇の首位権を強化した。
- 「神の平和」がフェーデの制限をもたらしたが、それに介入する教会・教皇権を政治的役割を強化した。
- 東方教会との合一は利害の対立の故に結局は成就しなかった。
- 叙任権闘争ではウルバヌス晩年に反教皇派のハインリヒ4世の皇帝復位がなされ、採集決着には至らなかった。