印刷 | 通常画面に戻る |

グレゴリウス1世

6世紀末のローマ教皇で、ブリテン島などヨーロッパ各地に布教を行い、カトリック教会の基礎を築いた。

 グレゴリウス1世は、実質的な最初のローマ教皇(在位590年~604年)であり、ローマ司教を西ヨーロッパの全キリスト教世界の最高の指導者としての教皇の地位を築いたとされる。みずからを「神の僕(しもべ)のなかの僕」と称した。歴代のローマ教皇の中で、5世紀のレオ1世とグレゴリウス1世の二人だけが「大教皇」といわれているように、キリスト教カトリック教会の歴史で重要な存在であり、実質的なローマ教皇の諸大と言うことができる(協会の歴史上は初代ローマ教皇はペテロとされている)。

実質的な教皇の始まり

 グレゴリウス1世は、ローマ貴族の名門に生まれ、東ローマ帝国治下のローマ市の長官となったが、父の死を契機に、自宅をベネディクト派の修道院に造り替え、自ら修道士として信仰の道に入り、590年にローマ教皇となった。修道院運動を支持してゲルマン人の一派でへの布教を進めた。ローマ教会の使者としてコンスタンティノープル教会に派遣されるなどの体験から、ローマ教皇は独自の道を行く必要を痛感し、そのためにはランゴバルドや西ゴートなどのゲルマン人の改宗(彼らはアリウス派を信仰していた)を進めることが大切であると考え、その布教に努めた。特にイングランドには修道士アウグスティヌス(『告白』を書いたアウグスティヌスとは別人)を派遣してカトリック教会の布教に努め、その改宗に成功した。このようにゲルマン人の改宗に成功し、ローマ教会の支持基盤を作りだしたところから、グレゴリウス1世は大教皇と言われるのである。

ブリテン島への布教

 グレゴリウス1世は597年に、ベネディクト派の修道士をイギリスのアングロ=サクソン王国(七王国)に派遣した。それは修道士アウグスティヌスと四〇人の仲間であり、「アングル人 Angli」を「天使 Angeli」に変えようというものであった。彼らは、イングランド七王国の一つケント王国に伝道の本拠を置いた。ここはエセルバート王の時代にフランク族から伝わったキリスト教の影響がおよんでいる土地であった。アウグスティヌスの伝道の成功、ケント王国の改宗、後にカンタベリー大司教とされる教会の設立によってこの国のキリスト教の歴史は顕著なものになった。<ブールド『英国史』1976 文庫クセジュ p.12>

グレゴリオ聖歌

 またグレゴリウス1世は、中世教会音楽である「グレゴリオ聖歌」を作曲したと、古来伝えられているが、現在ではこのカトリック教会で使用される教会音楽は9~10世紀ごろフランク人の教会で生まれたと考えられていて、グレゴリウス1世の時代ではないとされている。
(引用)グレゴリオ聖歌の名は、……7世紀初頭のローマ教皇グレゴリウス1世にちなんでいるわけだが、この教皇が聖歌の形成に大きな役割をはたしたことは確かであっても、今日歌われている形でのグレゴリオ聖歌が、この教皇の創始ないし編纂によるものであるという歴史的根拠はない。また現行のグレゴリオ聖歌の旋律がこの教皇の時代――つまり7世紀初頭にまでさかのぼると断定しうる証拠もない。<皆川達夫『中世・ルネサンスの音楽』講談社現代新書 p.32>
 現在のグレゴリオ聖歌には、一部分には古代ユダヤ聖歌の要素が見られ、断片的には古代ギリシア(ヘレニズム)の歌曲の旋律が認められる。さらにビザンツ聖歌の強い影響を指摘する学者もいる。このように東方の影響を強く受けているが、反面、今日ヨーロッパ音楽独自の形態とされる要素も明確に見られる。例えば、三度の音程を積み上げて旋律を作っていく傾向、大きな跳躍、一つのモチーフを核として楽曲全体を構成する造形性、長調、短調への志向、などである。最近の学説ではグレゴリオ聖歌の主要部分は、どんなに早くとも8世紀か9世紀ごろアフプスの北のガリア・ゲルマン世界で成立したものであるという見方が有力になっている。<皆川達夫『同上書』 p.34>
 You Tube から グレゴリオ聖歌
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

皆川達夫
『中世・ルネサンスの音楽』
初刊1977講談社現代新書
再刊2009 講談社学術文庫