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グレゴリウス暦

1582年に、それまでのユリウス暦に替わり、ローマ教会が定めた太陽暦。まずカトリック地域で用いられ、17世紀以降にプロテスタント地域でも用いられるようになった。実際の季節の変化に適応して誤差が少ないため、現在では世界的に用いられている。

 1582年ローマ教皇グレゴリウス13世の時に制定された暦法。ローマ時代のユリウス暦と同じく太陽暦であるが、実際とのずれを無くすために太陽暦を基本として改訂した。現在、世界で広く用いられているの暦法に継承されている。
 ユリウス暦は365日と4分の1とし、4年に一度閏年を設ける暦法であったが、わずかの差であった実際の太陽年(回帰年)との差が累積して、春分の日がカエサルの時から13日早まってしまい、春分の日を基準に復活祭の日を決める教会にとって困ったことになった。そこでローマ教皇グレゴリウス13世が、ユリウス暦を改定、400年間に3度、閏年を省略することで修正した。
 グレゴリウス13世は、激しくなった宗教改革の動きに対抗して、カトリック側の教会改革をめざす対抗宗教改革を進めた、いわゆる改革教皇の一人である。1572年のサンバルテルミの大虐殺のとき、新教徒の殺害を喜んで、ミサをあげたことでも知られている。また、1585年には日本からやって来た天正遣欧使節の少年使節たちの謁見を受けたのもグレゴリウス13世であった。
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グレゴリウス暦の改訂内容

(引用)ユリウス暦法では4年のサイクルについて、一年の平均値は365.25日となるが、これは正しい値に比べて0.0078日大きすぎる。真の一年が過ぎ去っても、暦の一年がはじまるのが毎年平均して0.0078日おくれるということである。そこでシーザー時代には春分は3月23日ごろであったのに、16世紀には、この遅れがつもって、3月11日ごろになってしまった。春分はキリスト教国では最大の祝日の復活祭の日取りの基礎になるものであるから、その月日が移動しないようにしたいということと、3月20日ころにしたいということから、教皇グレゴリウス13世は、「1582年10月4日の翌日を10月15日と呼ぶこと、キリスト降誕(紀元)年数が、4の倍数の年を閏年とする。ただし紀元年数が百の倍数(当然4の倍数)である場合には、4百の倍数でない限り、平年とする。」と定めた。これがいわゆるグレゴリオ改暦で、西洋では当時これを新式暦と呼び、これに対して4年ごとに必ず閏年を置くユリウス暦を旧式暦と呼んだ。・・・<広瀨秀雄『年・月・日の天文学』1973 中央公論社・自然選書 p.147-148>

カトリック国での採用

 新しい暦法のグレゴリウス暦は1582年2月24日に署名された教皇の大勅書に盛り込まれ、すみやかな実行を求めて全カトリック国に送られた。イタリア、スペイン、ポルトガル、フランスでは同年から実施され、数年後にはオーストリア、ポーランド、ハンガリー、そして神聖ローマ帝国内のカトリック諸邦で新暦法が施行された。
プロテスタントの反発
(引用)これに対してプロテスタントは、なかなかグレゴリオ暦を認めなかった。50年ほど前、改暦計画の噂を聞いたルターが、改暦は世俗の権威に委ねるべきであり、教会が関与すべきでないと公言していたのだ。プロテスタントは新しい暦法を教皇派の策略、つまり時を意のままに操ろうとする意志の露骨なあらわれとみなしていた。しかもその中心にいるのがグレゴリウス13世だったから、よけい胡散臭かった。というのはグレゴリウス13世は対抗宗教改革の熱心な推進者であり、プロテスタントが大量に殺された1572年の聖バルテルミーの虐殺を手放しで喜んだ人物だったのだ。天文学者ケプラーの言葉を借りれば、「プロテスタントは教皇と仲良くなるくらいなら太陽と不仲になる方がましと思って」いたのだ。<ブルゴワン『暦の歴史』(南條郁子訳。創元社「知の再発見双書」2001 p.83>

Episode 我らの11日を返せ! イギリスの新暦

 グレゴリウス暦はカトリック国以外の地域では、その後もはすぐに用いられたわけではなかった。まず新教国であったイギリスとその植民地アメリカはグレゴリウス暦をかたくなに拒んだ。イギリスで元国務大臣のチェスターフィールド卿が2年にわたって大衆紙や貴族を説得し、ようやく新暦の採用が議会を通過したのは1751年であった。その法令により1752年から1月1日を年の起点とし(それまでは3月25日だった)、さらに旧来のユリウス暦で積み重なった誤差を正すために9月2日の翌日を9月14日とした。これで1年のなかで11日が消えたので、「我らの11日を返せ」という叫び声とともに抗議行動が起こった。<ブルゴワン『暦の歴史』(南條郁子訳。創元社「知の再発見双書」2001 p.84>

世界への普及と未使用地域

 また東方教会(ギリシア正教会)は最も頑強に新暦を拒否、ローマ=カトリックの規則は無視してイースターを決めるのに依然としてユリウス暦を用いた。正教会諸国ではようやく20世紀に入り、ロシアが ロシア革命のときの1918年に太陽暦に基づく革命暦を制定したが定着せず、グレゴリウス暦に切り替えた。ルーマニアは1919年、ギリシアは1924年までユリウス暦を使用していた。
 カトリック国のフランスでも、フランス革命が起きると反キリスト教の立場からグレゴリウス暦を廃止して、革命暦を採用した。しかしそれは定着せず、ナポレオンが権力を握るとグレゴリウス暦に戻し、カトリックとの関係も修復された。
 アジアでは、日本が1872(明治5)年にそれまでの太陰太陽暦を太陽暦(グレゴリウス暦)に改め、12月3日を1873(明治6)年1月1日とした。中国は辛亥革命で1912年にグレゴリウス暦に改訂した。現在はイスラーム圏ではイスラーム暦を用いるのが建て前であるが不便な点が多いため、西暦、つまりグレゴリウス暦と併用となっている。<ダニエル・ブアスティン『どうして一週間は七日なのか』大発見1 集英社文庫 などによる>

イギリスの暦の混乱

 1582年のグレゴリウス暦では、初めて1年の始まりは1月1日であることも定められた。現在は、1年は1月1日から始まることに誰も疑問を持たないが、実はキリスト教世界においては1年の始まりをどこに置くか、バラバラだった。クリスマスとするところもあったし、マリアの受胎告知の日(3月25日)、復活祭(都市ごとに日付が変わった)などが候補とされ、イギリスでは3月25日が1年の始まりとされていた。そこから、年代に混乱が生じた。たとえば、名誉革命でウィリアム3世とメアリ2世が即位したのは現在の暦では1689年2月13日のことなのだが、当時は1年の始まりが3月25日だったので1688年のうちに含まれていた。そこで「1688年の革命」とも言われ、それが定着している。<ダニエル・ブアスティン『西暦はどうやって決まったか』大発見⑤ 集英社文庫 p.99-101>