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カンタベリ大司教/カンタベリ大聖堂

イギリスのカンタベリにある、イギリス・カトリック教会の最上位の大司教座教会であったが、イギリス国教会が成立してからはその総本山となる。12~15世紀に建造された大聖堂はゴシック様式の代表例。

カンタベリー GoogleMap

カンタベリはイギリスのケント州にある宗教都市で、カトリックが初めてイングランドに伝えれたところとされ、大司教座が置かれた。カンタベリ大聖堂はイギリス各地からの巡礼が集まり、カンタベリー大司教はイギリスのカトリックの指導者として重きをなした。
 カトリック教会においてはローマ教皇を最上位として、それに次ぐ大司教の中でフランスのランス大司教、ドイツのケルン大司教とともに三大司教と言われた。
 16世紀中頃、イギリス宗教改革によってイギリス国教会が成立すると、その総本山の役割を果たすこととなった。歴代イギリス国王の戴冠式で、国王に王冠を授けるのはカンタベリー大司教の職権となっており(戴冠式はロンドンのウェストミンスター寺院で行われる)、イギリスで宗教的・政治的に最も高い格式を持って入る。

教皇グレゴリウス1世の布教

 ローマ教皇グレゴリウス1世はアングロ=サクソン七王国の時代の大ブリテン島への布教のために、ベネディクト派の修道士アウグスティヌスを四〇人の仲間とともをに派遣した。それは「アングル人 Angli」を「天使 Angeli」に変えようというものであった。597年、七王国の一つケント王国に伝道の本拠を置いた。ここはエセルバート王の時代にフランク族から伝わったキリスト教の影響がおよんでいる土地であった。アウグスティヌスの伝道の成功、ケント王国の改宗、後にカンタベリ大司教とされる教会の設立によってこの国のキリスト教の歴史は顕著なものになった。<ブールド『英国史』1976 文庫クセジュ p.12>

カンタベリー大司教アンセルムス

 ローマ=カトリック教会の歴史において、11世紀はクリュニー修道院で始まった修道院運動の強い影響を受けた、ローマ教皇グレゴリウス7世らによる教会改革運動が盛んになり、それに伴って各国の国王とローマ教皇との間で聖職者叙任権をめぐる叙任権闘争が展開された。それは特にドイツにおいて激しく行われ、1077年の「カノッサの屈辱」はその一つの頂点だった。
 この聖職者叙任権の問題は、イギリスでも起こっていた。特に1066年に成立したノルマン朝で、ウィリアム1世に続くウィリアム2世・ヘンリ1世の時代に、カンタベリー大司教であったアンセルムスは、自ら改革派の聖職者として国王の聖職者叙任権を否定し、教会の権威の確立に努め、二回にわたり大司教の地位を追われている。彼は中世スコラ哲学の代表的学僧であったが、同時にイギリスにおいて叙任権闘争を推進し。1107年にには国王に聖職叙任は教会にあることを認めさせ、その代わりに教会も封建的な臣下として国王に忠誠をつくすという政教協約を成立させた。この妥協はヨーロッパ大陸においける1122年のヴォルムス協約に先立つものであった。

Episode カンタベリー大司教殺人事件

 1170年、カンタベリ大司教のトマス=ベケットがカンタベリ大聖堂の内部で殺害されるという事件が起こった。犯人は、イギリス国王ヘンリ2世(ジョン王の父)の腹心の家臣であった。もともと二人は親しい間柄であり、ヘンリ2世がベケットを大司教に任命したのだが、国王が聖職者の裁判を国家に移管しようとしたことに対して、ローマ教皇に従属すべきであると主張したベケットと対立するようになった。ヘンリ2世は大司教殺害を直接指示したのではなかった、と言われているが、ローマ教皇との関係は悪化し、次のジョン王と教皇インノケンティウス3世の対立の遠因となった。

叙任権をめぐる教皇と国王の対立

 カンタベリ大司教の地位はイギリス国王が任命することが続いたが、ヨーロッパで強大な教皇権を獲得した教皇インノケンティウス3世は、その叙任権を行使して、スティーヴン=ラングトンを大司教に任命した。ジョン王はその任命に反撥し、教会の所領を没収する措置に出たので、争いとなり、1209年、教皇はジョン王を破門した。ジョン王は1213年に教皇に屈服し、イングランド全土を教皇に献上、改めて封土としてこれをうけざるを得なかった。

カンタベリ大聖堂

 7世紀の創建時の建物は火災で焼失し、11世紀にロマネスク様式で再建され、12~14世紀にゴシック様式で増改築された。現在のカンタベリ大聖堂は、イギリスにおけるゴシック様式建築の代表例として貴重である。
 イギリス文学の最初の作品と言われるチョーサーの『カンタベリ物語』(1319年ごろ)はここに集まる巡礼たちが話した物語という構成で作られている。

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